第118話 荊州の譲渡人 Ⅳ

 「はぁ―」


 孔明はため息をつく。


 「はぁ・・・」


 また、ため息をついた。


 

 黄月英によって婚約にまで持っていかれてしまった孔明。

その後も襄陽にある孔明の屋敷には毎朝恋文が届き、それはもうしつこいほどだった。


 彼は今日も寝起きに届いた文に目をやって、ため息をつきつつ登城する。

孔明としては見たくもなかったが、時折政治的に重要な文章も届くため、開かざるを得なかった。


 「おう!孔明殿、、なんだ?浮かぬ顔してよー、切れ者のお前らしくないぞ?」


 城内で孔明に声をかけたのは張飛だ。

張飛は自慢の大声で孔明を励ましたが、いつもの様子に戻らない彼を見て・・・


 「さては・・・女だな?」


 と一言。

これに孔明はギョッとしたが、隠すのも無益だと判断し、これまでの経緯を話した。


 「なるほどな、お前は嫌がっているようだが、考えてもみろ。そんな一途な女、この先一生出会えないぞ?」


 張飛はこう言って、その縁談に乗るべきだと言ったが、それを偶然耳にしていたある男が孔明の前に現れて・・・


 「それって確か黄承彦の娘でしょう?絶対にやめた方がいいです!我らの身を滅ぼしますから」


 と、反対の意を鮮明にした。


 その男は伊籍いせきという者で、劉備に仕える前は劉表に仕えていた、いわば荊州を知り尽くす男だ。


 「身を滅ぼす?それは大袈裟では?」


 「いいえ、黄承彦という男は昔から野心家との悪評が立つ人物です。孔明殿はしばらく書房に閉じこもっていましたから知らないと思いますが、劉表殿の時には蔡瑁とつるんで実権を握りかけた男です」


 伊籍はこう述べて、


 「孔明殿がもし、その黄承彦の意をくむ娘に操られることにでもなれば、荊州はどうなることやら・・・」


 と、涙目で必死に止めにかかった。


 だが、孔明の頭の中には張飛の「そんな一途な女、この先一生出会えないぞ?」という言葉の方が強く引っかかっていた。


 なので、結局孔明は黄月英の縁談を受けることにした。




 「私は命を懸けて、あなたに付いていく所存です」


 「ああ。私も命を懸けて、お前を守る」


 孔明と黄月英は遂に結ばれ、結婚の儀も執り行われた。

天才軍師の結婚とあって、荊州の各所で庶民が噂する。


 「あの臥龍先生を射止めた彼女、さぞかし美人で頭も冴えるんだろうなー」


 「いや、それがさぁ、頭はいいけど見た目は最悪らしいのよぉ」


 「え?それは本当なのか?」


 「そうよ、どうやらあの変態おやじ―黄承彦の娘だってもっぱらの噂よ~」


 街中でも囁かれるくらいなので、襄陽城内でも家臣たちがしきりにその話をしていた。


 そんな中、一人憂鬱な表情をする青年がいた。


 彼は建前上、荊州太守である劉琦だ。


 劉備らの意のままに動く彼は劉備の荊州維持に欠かせぬ男でもある。


 (まさか、あの孔明殿が蔡瑁一味の味方だったなんて・・・!)


 彼は黄月英との結婚の噂を聞いて、絶望感にうなされていた。

元々彼は長男として劉表の跡を継ぐ予定だったが、蔡瑁らの画策によって廃嫡にされ、今に至る。

 しかも、彼は黄承彦が蔡瑁の右腕として動いていた事実をその目で見てきた。


 要するに黄承彦一族は彼の敵なのだ。

その敵と言うべき黄月英が孔明と結ばれたという事実を耳にした彼は残酷な未来あすを想像せざるを得なかった。


 そして、遂に・・・



 「劉備様!大変ですっ」


 「どうした、趙雲!?」


 「劉琦様が自らに刀を突き刺し・・・」


 「ご自害なされましたっ!」


 希望を失った劉琦は気に病んだ末に自害。

これにより劉備は荊州統治の大義名分を失うこととなり、呉の孫権はある男を労う。


 「黄承彦、そなたの策略は見事であった!これで我らの荊州制覇も目前というものだ」


 「ははぁ。ありがたきお言葉」


 黄承彦は江南の建業に赴くと孫権に謁見し、感謝の意を伝えられた。


 また、事前の約束通り、呉が荊州を制覇した暁には黄承彦が荊州南部を孫呉の重臣として預かることになった。


 一方の黄月英は自らの役目を果たし、孔明の屋敷から夜逃げする支度を整えていた。


 しかし、この夜逃げはある男が夕方にふらっと現れたことにより、失敗するのである―

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