<112> 花嫁修業

三月も終わり、四月に入った。

三月決算の会社はこれからが忙しい。

月初の忙しさで気持ちもバタバタしているのに、追い打ちをかける様に天気も悪く、気持ちも荒れる。

だが、そのせいだけではなく、陽一は不機嫌だった。


土曜日の午前中、イライラオーラを全身に纏って車を運転している陽一の横で、香織は青白い顔でボーっと前を見ていた。


どちらも言葉を交わすことなく、目的地まで辿り着くと、陽一は苛立ちをアクセルに込めて、爆音を一つ鳴らしてからエンジンを切った。


香織はその爆音すら耳に入らないのか、呆けた状態でフロントガラスを見つめている。


「おい、大丈夫か?」


陽一に声を掛けられ、香織は我に返った。

振り向いた顔は変わらず青白い。少し涙が滲んでいる。


「無理に行くことない。お前はここで待っていていいぞ。すぐ戻るから」


陽一は香織の頭を撫でた。

でも、香織はゆっくり顔を横に振った。


「なら、お前は何も話さなくていい。俺の傍にいるだけでいい。いいな?」


そう言って、香織に口づけると、


「じゃあ、行くぞ」


乱暴にドアを開け、車から降りた。

香織もノロノロと車から降りと、ふらついた足取りで陽一の傍に来た。

そして、陽一の差し出す手をしっかりと握った。


そうして、二人は佐田の家の玄関の前に立った。



                   ☆



家政婦に通された客間には、綾子もいた。

ソファから立ち上がることなく、無表情で二人を見た。


「よく来た!二人とも」


立ち上がってにこやかに迎えてくれたのは、なんと正則だった。


「さあ、さあ、こっちへ座りなさい」


何とも優しくソファを座るように促す仕草に、陽一は冷たい笑みを浮かべた。


そしてその前の席には老夫婦が、やはり満面の笑みで二人を見ている。


「お久しぶりです。荻原さん」


陽一は、老夫婦に向かって頭を下げた。

隣に立っていた香織も慌てて頭を下げた。無意識に繋いでいる陽一の手をぎゅっと握りしめた。


「お元気そうで何よりです」


にっこり笑って挨拶する陽一に、荻原の祖父も親し気に微笑んで見せた。


「ありがとう。陽一君も香織さん、いや、香織も元気そうだね」


「はい。お陰様で」


いつまでもソファに座らない陽一を、正則は苛立ち気げに、もう一度座るように促した。

だが、陽一はそれを無視した。


「ところで、今日は一体どういったご用件で?」


陽一は王子様スマイルを崩さず、張り付いた笑顔のまま、荻原夫婦に尋ねた。

その言葉に、荻原の祖父の笑みが消えた。


「な、何を言っているんだ、陽一」


正則が慌てて間に入った。


「お前たちの結婚に関して、わざわざお越しくださったんだぞ」


陽一を睨みつけると、香織の方を向いた。


「香織さん、話は伺ったよ。荻原さんご夫婦・・・、いや、あなたのおじい様とおばあ様から。今まで訳あって疎遠だったそうだね」


その声は、以前に会社のロビーで聞いた声と明らかに違う。柔らかい声だ。


「せっかくの機会だ。ここで、荻原さんのご家庭との関係を修復したらどうかね?荻原さんご夫婦もそう望んでいらっしゃる」


そう言うと、ソファに座った。そして、改めて、二人に腰掛けるよう目で促した。


「もともと香織には何ら非は無かったのだがね。今まで疎遠だったのは申し訳なく思っているよ」


正則の言葉を続けるように、荻原の祖父が香織に話しかけた。


「そうよ。是非、うちで花嫁修業をなさいな。お嫁に行くのに必要なものは全てこちらで用意しますよ」


祖父の隣で荻原の祖母も身を乗り出して、香織に話してきた。

祖父母の笑顔に香織はたじろいだ。

完ぺきな微笑みなのに、優しさを感じない。それは香織の思い込みかもしれない。

だが、どうしても笑顔には見えず、思わず陽一の腕にしがみ付いた。


「その件に関しましては、以前にお断りしたはずですが」


陽一は相変わらずにっこりと微笑んだまま、老夫婦に答えた。


「有難いお申し出ですが、お気持ちだけで十分です」


「そんなこと言わないで!」


荻原の祖母が声を食い下がった。


「今まで何もしてあげられなかった分、面倒見させてちょうだい。それに荻原の孫として恥ずかしくないようにお嫁に出してあげたいもの。ねえ、あなた?」


「ああ、そうだよ」


祖父も大きく頷いた。


「まったく、何を断る理由がある?有難くお受けなさい。いいね?香織さん」


正則は陽一の態度に苛立ちが募り、香織に向かって強い口調で同意を求めた。

香織は小刻みに震えて、老夫婦と正則を交互に見つめた。


「勝手に事を進めていでくれる?おじいさん」


陽一は呆れたように正則を見た。

そして、もう一度、荻原の老夫婦にこれでもかというほどの王子様スマイルを向けた。


「申し訳ないけれど、お断りしますよ。こいつに花嫁修業は必要ないんで」


「な・・・」


怒りで言葉を詰まらせた正則に、陽一はニヤッと口角を上げた。


「実はもう入籍したんだよね」

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