<75> 事件
引越しからかなりの日数が経ち、気が付けば寒い季節になっていた。
香織も今の生活にもだいぶ慣れた。
相変わらず、秘書や湊と対峙するときは罪悪感を覚えるが、それも以前より薄まってきた。
その上、一緒に住むようになって、陽一に無理やり昼食に誘われることもなくなり、返って周囲にバレる要素が減った。
(無事に年は越せそう)
もうすぐ、クリスマスだ。
以前に陽一が言っていた通り、一緒に生活を始めてから間もなく、陽一は目に見えて忙しくなっていた。
一緒にクリスマスを過ごすことも難しそうなほどだ。
(確かに、住む家が一緒じゃなかったら、ずっとすれ違っていたかも・・・)
一緒に住んでいるからこそ、夜は待ちきれなくて寝てしまっても、朝は絶対顔を見ることができるし、一緒に食事ができるのだ。
香織は、改めて陽一の行動力に感謝して、毎日を過ごしていた。
そんなある日、事件は起こった。
香織が資料のコピーしている時、フロアの奥がちょっとざわついた。
何だろうと思って、騒がしい方を見ると、なんと会長がフロアを回っていた。
奥から順に部長クラスの人と二三言話し、社員に対し軽く声を掛けながら、部署を巡っている。
そして、徐々に総務部にも近寄ってくる。
香織はあることを思い出した。
そういえば、自分は会長の古希祝の席で陽一に紹介されてしまったのだ。
もし、あの時、顔と名前を憶えられていたら・・・。
(まずい、嫌な予感しかしない・・・)
ここはトイレにでも逃げた方がいいかもしれないと思ったが、資料のコピーがなかなか終わらない。
しかも、タイミング悪く、コピー用紙が切れた。
(くそ~!)
香織は急いでコピー機に用紙を補給して、雲隠れしようと思ったが、甘かった。
コピー機がガコンっと動き出した丁度その時、会長が総務部にやって来た。
総務部の社員は一同立ち上がり、会長を迎えている。
そんな中、いそいそとその場を立ち去るわけにもいかない。
香織もコピー機の横に、出来るだけ目立たないように、ちょこんと立った。
会長は総務部長と親し気に少し話した後、社員にも労いの言葉を掛けた。
そして、立ち去る前に、
「そう言えば、第一課に原田香織さんっているよね」
そう言って、総務部全体を見渡した。
香織の全身が凍り付いた。
嫌な予感は的中した。やはり会長は自分を探していたのだ。
「ええ、おります。原田さん!」
部長がコピー機の横にいる冷凍状態の香織に向かって手招きした。
香織はカチンコチンになりながら、前に進み出た。
「ああ、君ね・・・」
正則はにこやかに香織を見た。
だが、その目の奥は嫌な光を帯びていた。
(う・・・。目が怖い・・・)
香織は頭を下げて挨拶をした。
「原田さん、ちょっと話がしたいんだが、このまま会長室まで来てくれるかな?竹田部長、ちょっと彼女を借りてもいいかな?」
「え?ええ・・・、ああ、はい」
部長は驚いたようだ。だが、そう答えるしかない。
「じゃあ、原田さん、いいかな?」
「・・・はい・・・」
香織は消え入るような声で返事をして、正則の後について行こうとした。
その時、
「香織」
と声がした。
振り向くと、そこに憮然とした顔をした陽一が立っていた。
☆
陽一はつかつかっと香織に近づくと、
「お前、行かなくていいから」
そう言うと、正則に振り向いた。
「何?おじいさん。こいつに何の用?こいつと話す時は俺を通してくれる?」
「・・・何、少し話をしようとしただけだ・・・」
「ああ、悪いけど二人きりで話すのは遠慮してくれる?変に圧力掛けられたら、振られるのは俺なんだよね。迷惑なんだよ」
「な・・・、圧力など・・・」
「へえ、違うの?」
陽一は挑むように正則を睨みつけた。
正則は言葉に詰まった。
それを見て、陽一は呆れたように首を竦めると、
「孫の恋路を邪魔するような無粋な真似するなよ。いい加減呆れるんだけど」
そう言って、香織に振り向いた。
香織は真っ青な顔をして二人を見ている。
「香織、お前、今日はもう家に帰れ。すいません。竹田部長、原田は早退させますので、よろしいですか?」
「は?あ、は、はい・・・。ははは!原田さん、帰っていいよ!うん!」
部長は愛想笑いを浮かべながら、汗を拭いた。
香織は青くなって震えながらも、
「で、でも、ら、来週の、や、役員会の資料の作成が・・・」
とモゴモゴ答えると、陽一は、
「あ、加藤君、ちょっといい?」
と湊を呼びつけた。
湊は飛び上がって驚いたが、すぐに陽一の傍に飛んできた。
「加藤君。悪いけど、同期のよしみでこいつの仕事頼まれてくれないかな?埋め合わせは今度するよ」
いつものにこやかなスマイルで湊の肩をポンポンと叩いた。
「わ、分かりました!」
「ありがとう。よろしくね」
陽一は湊に礼を言うと、すぐに香織に振り返り、
「早く荷物持ってこい。家まで送る」
強い口調で香織の席を指差した。
もうとても断る空気ではない。
香織はヨロヨロと自分の席からバッグとコートを掴むと、俯きながら陽一の傍に戻った。
陽一はいつものように香織の手を取ると、周りなどお構いなしにその場を後にした。
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