<17> 落ちた方が早い?
翌朝、香織が出社しようと家を出ると、一台の黒塗りの車がアパートの前に停まっていた。
「西川さんかな?」
香織はそう思って車を見ていると、降りてきたのは陽一だった。
「げ!」
香織はとりあえず、陽一に向かってお辞儀をすると、駅に向かって走り出そうとした。
だが、すっと伸びてきた陽一の手に、首根っこを掴まれた。
「昨日、一日中無視とはいい度胸だな」
陽一は、そのまま香織を車の後部座席に押し込み、自分もその隣に乗り込んだ。
「出してくれ」
運転手にそう言うと、車は静かに走り出した。
「ちょっと!これじゃ、拉致ですよ、拉致!」
「同じ会社に出社するのに、何が拉致だ」
陽一は澄まして答えるが、いつもよりも苛立っている様に感じられる。
「昨日は何で休んだ?」
「直属の上司でもないのに、報告義務はないでしょう!」
「アホか。誰が上司だ。交際相手だろ。連絡がなければ心配する」
「誰が交際相手ですかっ!」
「ふーん、じゃあ債権者?俺は100万受け取ってないけど?」
陽一は意地悪そうに笑って、香織を見た。
「う・・・」
この笑み。この笑みが危険だ・・・。
つい見惚れてしまう。飲み込まれてしまう・・・。
香織は慌てて目を逸らした。
「・・・お袋から接触してきたんだろ?何を言われたかは想像できる」
香織はギクッとして、陽一を見た。
「『手切れ金』とでも言われたんだろ?あの人がやりそうな事だ」
「違いますよ!私の事を助けようとしてくれたんです!」
香織は思わず大声で言い返した。
「私が泣きついたんですよ!」
「は?」
「一日1万円の事をお話したから、助けてくれたんです!」
はぁ~と陽一は溜息を付くと、座席にもたれかかった。
だが、すぐに、
「100日だ、100日」
そう言うと、香織に向かい直し、両肩を掴んだ。
「その間にお前を落とせなかったら、きれいさっぱり諦める。だからその間、俺の事を避けるな」
「落とされた暁にはどうなるんですか・・・?」
香織は陽一を軽く睨んだ。
「実際に付き合うことになったら、価値観の違いとかで、私の事なんてすぐに嫌になりますよ。どうせあっという間に捨てられるくらいなら、最初っから付き合わない方がいいです。その時はこっちが傷つくことになるもの」
そう言うと、香織はそっぽを向いた。
陽一は呆れたようにため息をついて、香織から手を離した。
「ずいぶんマイナス思考だな」
「見えている未来です!」
「へえ。じゃあ、その時は俺に捨てられないように、お前が努力したらいいだろ」
「それが嫌なんですよ!!」
「・・・つまらない女だな」
「そうそう!つまらない女なんです、私。だから止めた方がいいですよ!」
「自分を卑下する女は嫌いだ」
「そうそう!だから・・・、っん・・・」
突然、顎を掴まれたと思ったら、陽一に唇で口を塞がれた。
陽一はスッと離れると、
「それ以上は聞かない」
そう言い、腕を組んで窓の方に顔を向けてしまった。
香織は固まったまま、動けず、瞬きして陽一を見た。
そっぽを向いている陽一の耳は少し赤いように見える。
香織はそれ以上何も言うこともできず、窓の外の景色に目をやった。
☆
香織はヨロヨロした足取りで、自分のデスクに向かった。
さっきの車内の出来事を思い出すと、顔が熱くなってくる。
(あそこまでされて、落ちない女っている?いたら教えてくれ・・・)
無理だ・・・。このままでは落ちてしまう・・・。ホッチャーンっと・・・。
(まさしく、ホール・イン・・・)
香織はデスクで頭を抱えた。
相手は、ただプライドをズタズタに傷つけられたから、自分に執着しているだけだ。
そんな人に落とされたって、下手すれば、一週間もしないうちに捨てられるに決まっている。
(はは・・・。いっその事、落とされてから別れるまでの方が、100日間もかからないかもね・・・)
香織はだらしなく、デスクに顔を置き、ため息をついた。
「・・・原田さん、どうした?具合悪いのか?」
香織の様子を見て、出社してきた課長が声を掛けてきた。
「昨日のお休みは急用じゃなくて、具合悪かったからなのか?無理しないでいいぞ」
「あ、おはよーございまーす、かちょー。だいじょーぶでーす」
「・・・そうか、ま、無理しないように・・・」
「はーい。ありがとーございまーす」
(とりあえず、仕事しよ・・・。今は忘れよ・・・)
香織はパソコンの電源に手を伸ばした。
その時、スマホがブルブルっと震えた。メッセージだ。
『今日の昼は絶対逃げるなよ』
(・・・)
香織は再び頭をデスクに付けた。
このメッセージに困惑しながらも、心の隅に喜んでいる自分がいる。
そして、その自分が、今、少しずつ大きくなっているのが分かる。
(まずい。しっかりしろ、私!)
香織はスマホをバッグに仕舞い、両手でパシパシと自分の頬を叩いて、気合を入れると、パソコンの電源のスイッチを力いっぱい押した。
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