第八話〜⑩

 ローフォークは眉間に皺を寄せた。

 濃紺の瞳は馬車が走り去った通りに向けたままだ。


 公爵のベルナールへの御機嫌取りはいつまで保つことか。

 士官学校への入学は取り付けたと言うが、些細な失敗や成績不振を理由にそれを反故にする事もやりかねない。その時、ベルナールはどれほど傷付くだろう。

「いい加減、この国を牛耳ろうなんて考えは捨てられないものかね」

 フランツは渋い顔だ。


「あの御方の政治手腕は誰もが認めている。それに間違いはないんだ。ただ大人しく、一貴族として王家を支えてくれればそれで充分だったのに、欲を掻き過ぎるんだよ、あの人は」

 娘を王妃にしようと画策していたのが良い例だ。


 誰もがシャルルの次の後継者を早急に欲しいと考えている中で、十九歳の王太子に八歳のアニエスを充てがうというのは、流石にどうかしている。

 シュトルーヴェ伯爵が推薦したアン王女には頷いたフィリップ十四世が、公爵の説得に耳を貸さなかったのは当然だ。

 それが解らない公爵ではないはずなのに、ひたすら権力を握る事に妄執しているようで、いっそ滑稽にすら見える。


「公爵からベルナール様を引き離すには、どの道、もう一度父達と相談する必要がある。なんにしても安全は確認出来た。休暇が明ければ学校に通うようになる。ベルナール様の様子を窺う機会は増えるさ。何なら甥を間諜スパイにしても良い」

「あの生意気なクソガキ供をか」

 余計に面倒な事になりそうだ。

 丁重に断りを入れると、フランツは声を抑えながら笑った。フランツもまた、姉が産んだ子供達をクソガキだと思っているのだ。

 ただし、『可愛いクソガキ供』だが。


 フランツは、箱からほのかに香る甘い匂いに頬を緩ませているエリザベスに、会議後にお茶請けとしてベルナールの手土産を出すように指示した。幾つか残るようであれば、エリザベスとシャテルもいただくように、との正式な相伴しょうばんの許しを与えられると、心底嬉しそうな返事が返ってきた。

 御機嫌で階下の食堂に向かったエリザベスを見送り、ローフォークとフランツは会議へと戻った。


 会議が終盤に差し掛かり、議事内容の最終確認をしている間、エリザベスとシャテルが会議室の片隅で茶の用意をしている。

 エリザベスがビウスから戻った事でさらに立場を持て余したシャテルは、今は正式にフランツの従卒としての役割を与えられた。


 紅茶を上手く淹れられないシャテルは菓子箱を手に各席を回り、それぞれの希望の菓子を取り分けて配って行く。配膳に慣れないからか、卒なく紅茶を置いて行くエリザベスと比較すると、非常に危なっかしい。

 時間は掛かったものの、どうにか無事に副官も含めた全員に菓子と紅茶は行き渡った。


「今日の菓子はベルナール様からのいただき物だ。その内、この庁舎を案内する約束をしたが、何処かで会う機会があれば礼を言っておいてくれ。では、いただこうか」

 フランツが木苺のケーキにフォークを挿れる。

 ローフォークを含めた大隊長達も、それぞれの前にある一口菓子にフォークを刺して頬張った。その直後だった。


 口内に痛みが生じ、それはすぐに烈しさを増した。

 ローフォークは反射的にケーキを吐き出した。連動するかのように、同席者達が次々とケーキを吐き出す。何が起こったのか分からない従卒の二人だけが驚いた顔で立ち尽くしていた。


「二人共、それを食べるなっ!」

 フランツの怒声に、箱内の残り物から自分達の分を取り分けようとしていたエリザベスとシャテルは、弾かれるように手を引いた。


 青褪めて狼狽える二人に、ローフォークは水と洗面器の用意、そして軍医を呼んでくるように指示を出す。シャテルが食堂に、エリザベスは医務室へ軍医を呼びに走り、その間にローフォーク達は紅茶を含んで粘膜に付着した劇物を茶器の中に吐き出した。


「中佐! トゥールムーシュ中佐、吐いて下さい! 中佐!」

 叫び声の方向に視線を向けると、トゥールムーシュの副官が上官の口の中に指を突っ込んで必死に嘔吐を促していた。

 シャテルが大きな水差しと洗面器を抱えて戻り、副官は強引に水を飲ませると再び指を突っ込んで嘔吐を促す。トゥールムーシュは大きくえづき、胃に残っていた昼食の消化物と共に、盛大にケーキを吐き戻した。

 もう一度水を飲み込んで吐き出している間に、エリザベスが軍医を連れて戻ってきた。


「な、なんだ、こりゃぁ……! 口の中が、灼けるようだ……」

 切れ切れに訴えるトゥールムーシュに、口内を濯ぎ直したフランツが答えた。

「恐らく、トリカブトの一種だ。解毒剤は無いから、とにかく水を飲んで胃の中の物を何度も吐き出して、毒性を薄めるしか緊急処置の方法は無い」

「み、皆さんは大丈夫なんですか⁉︎」

 今にも泣き出しそうな顔でエリザベスが問う。


「飲み込む前に吐いた。それに、士官学校や一部の帯剣貴族の家では、毒に対する耐性訓練を行う。心配するな」

 ローフォークが答えると、青褪めた顔に僅かな安堵が浮かんだ。

 だが、居合わせる全員の目が、壁際のワゴンに乗せてある菓子箱に注がれているのに気付き、エリザベスは慌てて首を振った。

「フランツ様、ベルナール様は……」

「分かっている。グラッブベルグ公爵だ」

 挙げられた名に、異論を唱える者はいなかった。


「くだらない挑発だな」

「挑発?」

「そうだ。様々な訓練を受けた軍人相手に、口に入れた瞬間に吐き出すような刺激のある毒物は効果が期待できない。今のように即座に対処されてしまうからな。俺達をどうにかするつもりなら、無味無臭の毒も、ベラドンナの実の様な甘味に混ざってしまうと咄嗟に判別出来ない甘い毒だってある。菓子に混ぜ込むならば、むしろこっちだ。恐らくだが、カレルの母君を奪われた、些細な仕返しのつもりなのかもな」

 運次第では、耐性の無いエリザベスを亡き者にできるとの期待もあっただろう。そして、それ以上にたちが悪いのは、菓子をベルナールに運ばせた事だ。


 少年が毒の混入を知っていたとは到底思えない。

 エリザベスに万が一の事が起こり、それをベルナールが知れば、少年は自分が持って行った菓子が痛んでいたのではないかと思い悩むだろう。大人の事情など知りようもない子供だ。実の父親の悪質なはかりごとに利用されたなどと、考えもしまい。


 また、直近ではトビアスの密輸騒動に乗じて起こった、公爵家と伯爵家の宮廷を巻き込んだ諍いが終結したばかりでもある。


 両家の諍いは、王国を内部分裂させたいレステンクール人の計略の一端だったと公表され、表向きには両家派閥は和解した事になっていた。しかし、一度表層に現れた互いへの敵意は、際どいところで留まりよどんでいる状態だ。次に何かが起これば、今度こそ制御が効かなくなるだろう。

 国王が国民の心に訴え、暴動に繋がりかねない義憤を鎮めたばかりだ。その直後の対立の再燃は、避けねばならない。


『騒げるものなら騒いでみろ』

 グラッブベルグ公爵は、暗にそう挑発しているのだ。


「この事は他言無用だ。わざわざ相手に付き合ってやる必要はない。特にローフォーク少佐」

 フランツの目が真っ直ぐに向けられる。


「どんなに頭に血が昇っても、公爵の煽りにはのるな。これはシュトルーヴェ家や第二連隊だけでなく、お前個人に対しての挑発でもあるんだ。ここで動けば相手の思う壺だぞ。不満はあるだろうが、今は耐えてくれ」

 ローフォークは眉間に皺を寄せて、口をへの字に曲げた。


 フランツの言い分は正しい。

 だが、

 初めて他者の命を奪った夜を、今でも思い出す。


 自分をそうやって陥れたように、ベルナールに罪悪感を抱かせ隷属させる為の策略ではないかと疑ってしまう。

 そして、それを理由に、ローフォークをさらに脅迫するつもりだったのかもしれない。

 今日は、本当に危うかったのだ。

 青褪めたまま立ち尽くすエリザベスを見遣り、沸々と沸き上がる怒りを懸命に抑え込んだ。


 フランツは疲れた様子で椅子に腰を下ろした。

 直ちに、全員がそれに倣う。

 最早、胃酸さえも出し尽くして疲労困憊のトゥールムーシュも、食堂から運ばれた牛乳を一気に飲み干して席に着いた。


 フランツは軍医に吐瀉物の成分分析を指示し、エリザベスとシャテルには職務に必要な最低限の道具を運ばせて、各執務室に施錠をさせた。分析の結果如何で時間の延長・短縮の判断がなされるが、それまでは絶え間なく運ばれる書類や報告は、二人の従卒が取り継ぐ事になる。


 部下達を見渡し、フランツは告げた。

「遅効性の毒の混入も考慮し、これより十時間の待機に入る。体調に異変を覚えた者は、速やかに報告せよ」

 これに、大隊長と副官等は一斉に返事をした。

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