第八話〜⑨
フランツは金髪の中に手を突っ込んで頭を掻いた。
と、ここで何かを思い出し、「そう言えば……」とエリザベスに向き直った。
フランツは手渡された巾着袋を掲げた。
「これは何が入っているんだ? 随分と軽いな」
「下穿きです」
迷いなく、エリザベスは答えた。
フランツとロシェットがギョッと目を丸める。
「シャツと靴下も入っています。フランツ様、もう二日も連隊庁舎にお泊まりだと聞いています。なので、奥様から替えを預かってきました。着替え終わったら汚れ物をその巾着に入れて下さい。私が御屋敷に持ち帰ります。では」
そうして、エリザベスは執務室から出て行った。
扉が閉じられた瞬間、フランツは机の上に両手をおいて項垂れた。
「妙齢の令嬢に持たせる物ではありませんな」
淡々としたロシェットの言葉に、長い溜息が出た。
「……着替えてくる」
「王宮庭園へ出向く用事を考えておきます。シャテル少尉に持って行ってもらいましょう」
「……うん」
もう一度、深く長い溜息を吐き出したフランツは、巾着を肩に担いで執務室を出て行った。
* *
十月も残すところ僅かとなり、一週間に及ぶ収穫祭の期間に入った。
少し前まで王都や宮廷を騒がせていた密輸事件も表面上は解決に向かい、国民は軍務大臣と王国宰相の諍いや悪質な流言に一役買った事などすっかり忘れて、祭りを存分に楽しんでいる。
密輸事件にアンデラ王国が関与したとの噂が流れると、彼の国に対する攻勢論
と
グルンステイン国王フィリップ十四世の勅書が公布されたからだ。
フィリップ十四世は勅書の中で、アンデラ王国と国内のアンデラ人への憎悪行為を堅く禁じた。
武器密輸に伴うアンデラの関与は、現時点ではレステンクール人の一方的な主張でしかない。正確な情報も無くアンデラを糾弾する事は、グルンステインの名誉を傷付け、彼の国との不要な闘争に繋がる。
それは、グルンステインを憎むレステンクール人の思惑に乗る事に他ならない。
『グルンステイン国民であればこれを些末な事と
と、フィリップ十四世は言葉を示した。
勅書には、さらに国王の御心が添えられていた。
『神聖なる豊穣の刻に
その言葉の意味に気付かない者はいなかった。
かつて、悪意に尊い命が散ったのは、まさにこの季節であった事を人々は思い出した。国王の想いに国民は言葉を失い、
かくして、フィリップ十四世の言葉は国民の暴動を未然に防ぐ事となった。
今や、彼等は陽気に酒を酌み交わし、笑い、歌い踊っている。そこには、アンデラやレステンクール人への怒りは無く、亡き王太子夫妻へ捧げる鎮魂の願いと、フィリップ十四世へ献げる崇敬の念が籠められていた。
あっさりしたものだと呆れつつ、ローフォーク自身、国王の心情に想いを馳せずにはいられない。幼い身で、その夜の恐怖を耐え抜いた現在の王太子シャルルに対しても。
予期せぬ再会があったのは、国王の勅書公布から間もない日の事だった。
収穫祭期間中の王都の警備の強化と、順路の僅かな変更点の話し合いをしていた時だ。会議室の扉が控え目に叩かれ、エリザベスが姿を現した。ローフォークとフランツに来客を告げる少女にその名を問うと、エリザベスはにこにこしながら答えた。
「グラッブベルグ公爵令息です。お付きの方と大ホールでお待ちです」
言い終わる前に、ローフォークは会議室を飛び出していた。
くすんだ金髪の少年は、正面ホールの昇り階段の傍らに立っていた。
「ベルナール様!」
忙しく行き交う兵士達をキラキラした瞳で眺めていたベルナールは、呼び掛けに素早く振り返り、一層の輝きを放って身を翻した。
「カレル兄様!」
ローフォークは階段を駆け上がってきたベルナールを、踊り場でしっかりと抱き止めた。
「お久し振りです、兄様! お会いしたかった!」
「ベルナール様、ご無事で良かった……!」
フランツから、母とアデレード親子の隔離に不備が生じたと聞いてから、落ち着かない日々だった。王宮庭園への立ち入りを禁じられている身では、どんなに気を揉んだところでベルナールに会いには行けないのだ。
ローフォークは強く抱き締めていた小さな身体を離し、少年の身長に合わせて片膝を着いた。
「お久し振りです、ベルナール様。いつ振りでしょうか。少し、背が伸びましたか」
「はいっ。前にお会いした時よりも五センチも大きくなっています。今は学年で七番目に背が高いのです!」
よくぞ気付いてくれた、と言わんばかりに胸を張るので、思わず目元が細くなる。
「左様で御座いますか。私は第五学年の時には下から数えた方が早かった。すぐに追い越されてしまうかもしれませんね。先日、こちらにお出でになられたと聞きました。すぐにでも私の方からお伺いするべきでしたが、今は王宮庭園の公爵邸でお過ごしだと耳にしていたので。申し訳ありません」
「兄様が謝るのはおかしいです。お仕事だったのですから。前触れも無く訪問したのは私です。それに、兄様からのお手紙はちゃんと届いています。士官学校の事、応援してくれて凄く嬉しかったです!」
ベルナールは頬を上気させてローフォークを見た。
ローフォークもまた、無邪気な笑顔に優しく笑みを返した。
「ところで、本日はどうしてここへ? お一人ですか?」
ベルナールは横に首を振って背後を振り返った。
落ち着いた足取りで階段を昇ってくる男がいる。
見覚えのあるその顔は、王宮庭園の公爵邸でグラッブベルグ公爵の近侍として立ち回っている男だ。口を利いた事はないが、郊外の別邸で何度か顔を見た。
高位貴族の使用人らしく品の良い笑顔だが、立ち居振る舞いは軍人のそれに近いものがあった。
公爵はベルナールを監視する為に、敢えて自分の近侍を付けたのだろう。
近侍はベルナールから三歩程離れた背後に控え、ローフォークに向かって完璧な姿勢で一礼した。
「父の近侍のカナートです。兄様も御存知でしょう? 本邸での生活に不便が無いようにと、父上が御自分の近侍の一人を付けてくれました。勉強も父上が見てくれるのです。早くお仕事が終わった日は夕食も一緒に摂って下さいます。私の話を聞いて下さるんですよ⁉︎ 今まではお忙しくて、滅多に郊外の御屋敷にいらっしゃらなかったから、毎日、父上のお顔を拝見してお話が出来るのが夢みたいです。そうだ! 秋の休暇が終わったら、王宮庭園の邸から学校へ通う事になりました。もう十歳なのだから、ちゃんとした作法を身に付ける様にと、家庭教師も探してくれているんです! 父上が、私の為に!」
ベルナールは大喜びで公爵邸での暮らしを語った。
自分は父親に好かれていないのではと思っていた少年にとって、父親の傍で暮らせること、父親が自分に関心を向けてくれることが嬉しくて仕方ないのだろう。
何も疑うことの無い瞳は澄み切っていて、ローフォークは表面上は笑顔を取り繕いながら、それらの行動に秘められた公爵の真意の在処に、棘のある感情を抱いていた。
ローフォークに遅れてフランツとエリザベスが現れた。
ベルナールはそこで、やっと訪問の本来の目的を思い出したようだ。慌てて、フランツに先日の助言の御礼を言い、父親の説得に成功した事を伝えた。
「幼年学校を出たら士官学校です。大学に行く約束をしたのですぐには軍人にはなれません。でも、その数年の間にきっと父上をもう一度説得して見せます。シュトルーヴェ中佐、本当にありがとうございました」
「いいえ。ベルナール様の熱意の賜物です。そうだ、先日交わした約束がそのままでしたね。さほど掛からず会議も終わります。少々お待ち頂く事になりますが、ローフォーク少佐に施設を案内させましょうか」
「ありがとうございます、中佐。でも、これから父と市内の孤児院で待ち合わせをしています。そこで院に寄付をして、子供達の生活を視察する事になっているのです。ここに立ち寄ったのは、父のお仕事が終わるまで時間があったから、きちんと御礼を言いたいとお願いして、許していただけたからなのです」
「そうでしたか。では、また後日。事前に連絡を頂けましたら、ローフォーク少佐の勤務日程を調整します。我々も歓迎しますよ」
「はい!」
元気に返事をしたベルナールは、近侍に持たせていた土産を差し出し、エリザベスがそれを受け取った。中身は王都の有名菓子店のプチフールの詰め合わせだと言う。
それから二言三言、言葉を交わし、ベルナールはもう一度ローフォークに抱き付いてから、近侍と共に第二連隊の庁舎を後にした。
客車の窓から身を乗り出して手を振るベルナールは無邪気で、グラッブベルグ家の家紋付き馬車が門を越えて、鉄柵の向こうの街路樹に隠れてしまうまで、ローフォークは少年の笑顔を見守った。
「今のところ、問題無く過ごせているようだな」
「ああ。今ここで、ベルナール様を手離すわけにはいかないだろうからな」
「やっぱり、そうなるのか」
フランツの表情には僅かな落胆が滲む。
グラッブベルグ公爵がベルナールに好い顔をしているのは、つまり、そう言う事だ。
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