番外編 ジェズ・シェースラー

ジェズ・シェースラー 前編

 一 六歳の冬・十二月、風邪



 僕が六歳の冬に、王都では悪い風邪が流行った。


 急に怠くなって、気付いたら高い熱が出ていて、身体の節々が立てなくなるくらい痛くなって、咳が出て、咳が酷くなって、御飯も食べられないくらい止まらなくなって。どうにかお腹に入れても気持ち悪くなって吐いて、どんどん痩せて……。


 朝、元気に仕事に行った父さんが、帰って来たと思ったら、疲れた顔をしてすぐ横になった。夜に熱が上がって、母さんがお医者様に走って行ったけど、お医者様は来なかった。

 僕の家がお金持ちじゃ無かったから。


 この悪い風邪は王都中に広がっていて、お金持ちの家でも呼べないくらい、お医者様の数が足りなかった。

 お医者様を呼べたのは、王宮庭園に住む貴族か一部の特権商人くらいで、そんな人達でも家族を亡くしていたと後で聞いて、僕の家で誰も助からなかったのは仕方なかったんだなって、なんとなく諦めが付いた。


 悪い風邪は看病していた母さんに移り、弟にも感染した。


 ご近所さんが御飯を作ってくれたり色々と助けてくれたけれど、父さんが死んで、弟が死んで、最後に母さんが死んだ。

 あっという間だった。


 近所の人達が御葬式を手配してくれて、何とかお墓の用意も出来た。

 お金は無かったけど、家にある物をあるだけ全部売って工面した。

 僕に残されたのは、弟が生まれてから父さんが職人に依頼して作ってくれた銀食器が三本だけだ。僕の分もあったけど、僕の分は全部売って費用の足しにしてもらった。僕の方が三本多かったからお金になったし、弟の銀食器はどうしても僕が手離したくなかった。

 

 だって、弟の食器には弟の名前が刻まれていて、小さい小さいシトリンが嵌め込まれていて、それは弟の誕生石で、母さんと僕の瞳と似た色で、父さんがコツコツ貯めたお金で作ってくれた、家族みんなが一つになったような、そんな食器だったから。


 御葬式が終わって独りぼっちになった僕は、報せを受けてやってきた父さんのお兄さん……伯父さんの家に引き取られた。


 伯父さんは優しかった。

 父さんと仲が良くて、父さんとの思い出話を聞かせてくれた。でも、僕の家と同じように伯父さんの家も裕福じゃなかったから、伯父さんの奥さんは不機嫌に「タダで御飯が食べられるだなんて思わないでちょうだい!」って言って、僕にあれこれ用事を言いつけた。

 伯父さんはいつも伯母さんを嗜めてたけど、強く言い返されると困った顔で俯いた。


 シェースラーの家は一応、騎士階級の貴族だ。

 でも戦争で活躍する事は殆ど無くて、フィリップ十三世の時代には極力戦争を避けてきたから、尚のこと活躍出来る機会が無かった。

 それに加えて行われた行政の大改革で、騎士としての俸禄も減らされたので一族はみんな貧乏だ。

 僕の家は特に跡継ぎの家系じゃなかったから、結婚があっても出産があっても、一族から歓迎される事もなくて、みんな知らんぷりだった。


 フィリップ十三世に恨み言を言うばかりで現実を見ない家族の中、父さんと伯父さんは貴族としての責任を果たす為に軍隊に入った。


 その頃は今みたいに国境線も落ち着いてなくて、いつも緊迫した空気があったから、仕事にあぶれる事はなかった。一族の他の人達も、そうしてた。


 本家だけが、平民と同じ扱いをされる事を嫌がって、一族からお金を借りたり、なけなしの俸禄でちょっとした事業に手を出したりしていたみたいだ。

 父さんも伯父さんも、本家にお金を催促されて困っていた。

 だから、急に一人増えた事に伯母さんが不機嫌になるのは仕方ないと思った。


 僕は伯父さんを困らせたくなかった。だから、一生懸命お手伝いをした。

 従兄弟達が嫌がる重い水汲みも、家の掃除もした。家族の洗濯も、冷たい水で指が痺れて感覚が無くなっても頑張った。

 優しかった伯父さんは「いつもありがとうな」と言って誉めてくれたけど、伯母さんは「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向くだけだ。

 従兄弟達も手伝いをしない事を注意されるのが面白くないのか、いつしか僕を小突いてくるようになった。




二 六歳の春・四月、大伯父さんの家


 僕が伯父さんの家を追い出されたのは、ある事件がきっかけだ。


 元々、僕の持ち物は少なかった。

 着替えは一着しか無かったし、一人になった僕を憐れんだ近所の人達が、伯父さんの家に引き取られる時に暮らしの足しにと集めてくれた小銅貨が数枚。(これは伯父さんの家に来てすぐに伯母さんに取り上げられた。)

 それと、僕が大事に手離さなかった弟の銀食器だけだ。

 その弟の銀食器が、無くなっていたんだ。


 僕は必死に捜した。

 あれはたった一つの弟の形見で、母さんとの繋がりで、父さんとの思い出だ。大事に大事にしていた物だ。

 また従兄弟達の意地悪だと思った。だから僕は食って掛かった。

 知らないと言い張るから、頭に来て力一杯叩いた。

 今まで無抵抗で小突かれていた僕が反抗したものだから、従兄弟達は吃驚して泣き出した。伯母さんが走って来て、僕を思い切り殴り飛ばした。

 女の人の力でも、大人と子供だ。僕は簡単に吹っ飛んで目を回した。


 気が付いたら、僕は物置きに転がってた。身体に毛布が掛かっていたので伯父さんだと思った。

 家の中から伯父さんと伯母さんが喧嘩する声が聞こえた。僕の事で喧嘩しているのが分かって、やるせない気持ちになった。


 銀食器の話が聞こえた。

 銀食器は、従兄弟達に隠されたんじゃなかった。僕が洗濯に行っている間に、伯母さんが銀細工のお店に売り飛ばしていたと分かった。

 伯父さんの収入だけじゃ、子供達にちゃんとした教育を受けさせられないって、伯母さんが叫んでいた。

 僕も従兄弟も学校に行ける歳だ。でも、学校には通っていなかった。


 読み書きが出来ないなんて碌な仕事に就けない、あんたは子供達を物乞いにする気か、と問われて、それきり伯父さんの声は聞こえなくなった。


 僕はその日、一晩を物置きで過ごした。

 季節は春だったけど、朝は寒くて震えた。伯父さんが毛布をくれて良かったと思った。


 朝になって、僕は伯父さんに連れられて出掛けた。

 その日一日、乗り合い馬車に揺られて辿り着いたのは、小さな村だった。

 伯父さんは、近隣の民家よりちょっとだけ大きく頑丈そうな、でも凄く古い家の扉の前で僕に言い聞かせた。


「ごめんな、ジェズ。お前は俺の弟の忘れ形見だから、息子達と同じように育てたかった。けど、俺の稼ぎでは無理だと分かったよ。だけど、ここならきっとウチよりはマシな暮らしが出来るだろう。ここはシェースラーの本家だ。使用人を雇えるくらいにはお金があるから、きっと読み書きくらいは教われるだろう。そうしたら、大きな街に出て仕事を探すんだ。俺やアーセンの様に軍隊に入っても良い。お前は真面目で賢いから、きっと下士官くらいにはなれる。お前の父さんだって、任務中に怪我さえしなけりゃ、きっと今頃は下士官になれてたんだ」


 父さんが働いていたのはレステンクール王国との国境軍だ。真面目で働き者だった父さんは、そこで兵長にまで出世したんだそうだ。


 伯父さんは僕を本家の一番偉い人に引き合わせた。

 その人は僕のお祖父ちゃんのお兄さんに当たる人で、僕にとっては大伯父さんになる。傍には父さんと伯父さんの従兄弟になる男の人もいて、僕を汚いモノでも見るような目で見下していた。


 大伯父さんは僕を見るなり溜息を吐いた。

「急に訪ねて来たから何かと思えば。子供を預かれだと? こんなヒョロヒョロに何が出来る」


「この子は真面目な良い子です。我が家にいる間は家事を積極的に手伝ってくれました。それに弟に似て賢く機転が利く子です。学校に通えないまでも、読み書きを教えていただければ、大人になった時にきっと本家の役に立つでしょう。どうか、投資をすると思ってこの子を育ててはいただけないでしょうか」

 そうして伯父さんは、自分の家にいても子供が多く充分食べさせてやれない事、読み書きを教えてあげられない事を話し、大伯父さんと小父さんに何かを握らせた。

 大伯父さんの手のひらには、一枚の銀貨が乗っていた。


 お金に苦労していたはずなのに、どうやってそんなお金を工面したのだろうと思って、すぐに弟の銀食器を売った一部だと気付いて悲しくなった。

 僕は大伯父さんの家に引き取られる事になった。


 伯父さんは帰り際、僕にそっと一本のスプーンを握らせてくれた。

 僕は吃驚した。それはとっくに売られてしまったはずの弟の銀食器の一つだったからだ。

「これしか買い戻せ無かった。石の部分は妻に毟り取られたよ。だけど、紐を通して首から下げておける。これで肌身離さず持っていられるだろう?」

 伯父さんはそう言って、申し訳なさそうな顔をした後、僕を抱き締めてから帰って行った。


 大伯父さんの家での暮らしは、伯父さんの家での暮らしよりも辛かった。


 伯父さんの言う通り、使用人はいた。

 だけど、おじいちゃんがたった一人で家事の殆どを任されていて、手が回っていなくて大きくもない古い家は荒れていた。

 僕に与えられる御飯は粗末で、伯父さんの家で食べた鍋の底の残りの方が美味しかったくらいだ。奥さんは三人目の子供を産んだ時に熱が出て死んでしまってから、後添いをもらうこともなく男手だけで子供を育てて来たようだ。だからか、そこの家の子供達は最悪だった。


 初対面から、僕は殴られた。


 母親がいない上に、育児に責任を感じない人達の手でただ食べて大きくなっただけの子供達は、酷く粗暴で感情の抑制が出来なくて、まるで暴風雨だった。

 僕より少し年上で、全員学校に行ける歳にも関わらず毎日サボって、ちょっとでも難しい言葉をこっちが使うとキョトンとして、すぐに癇癪を起こした。


 家が荒れているのは使用人が一人しかいないからじゃなく、この子達が掃除した側から汚して行くからだ。

 この家の人達は、使用人に対する態度も良くなかった。それでも、逃げられたら困ると思っていたのだろう。手を上げることは無く、子供達もよくよく言い聞かせられてたのか、精々暴れて家を汚す事と品の無い言葉で馬鹿にして走って逃げるくらいに留まっていた。


 その分、嫌がらせや暴力が僕に向けられた。

 水汲みをしていたら後ろから突き飛ばされるし、なけなしの御飯も馬房の中に投げられて馬に食べられた。

 一番危なかったのは、馬の世話をしていた時に上の子が鞭で馬の顔を叩き、狭い馬房の中で暴れた時だ。もしあんな狭い中で蹴られでもしたら大怪我じゃ済まなかった。その時、馬が足を折って処分せざるを得なくなったのも僕の所為にされて、僕が鞭で散々叩かれた。


 寝る場所は無かった。

 大伯父さんの家に来てからは、ずっと馬小屋で寝起きしていた。

 着替えも一着しか無いから僕はいつも臭くて、余計に馬鹿にされた。


 馬が居なくなって、僕は荷物を持って遠くまで歩かされる事が増えた。

 大伯父さんの家はちょっとだけ商売をしていて、馬はその為の大事な足だった。それを僕がダメにしたから、僕が馬の代わりに商品を持って歩かなくちゃいけないんだと言われた。


 結局、僕は伯父さんが望むように学校に通うことなんて出来ないままだ。

 父さんが教えてくれた簡単な読み書きと、首にぶら下がったスプーンだけが、僕のささやかな財産だった。

 


三 七歳の夏・七月、栗の実色


 気付いたら春は夏になって、僕は七歳になっていた。

 馬小屋の中は糞に集る虫がいっぱい飛んで、寝心地は最悪だった。食事の時間に食べ損ねると、すぐに御飯は腐って、何も食べられない日もあった。


 当たり前に、僕は身体を壊した。


 大伯父さんも、大伯父さんの息子も、もう僕に目もくれなかった。

 子供達はたまに馬小屋に僕を蹴飛ばしに来たけど、病気が移ると言われてからは近寄らなくなった。


 もう死んじゃうのかな。


 誰も来なくなった馬小屋の中で思った。


 その方が良いな。父さん達に会えるから。

 でも、きっと御葬式はしてもらえないし、お墓も作ってもらえない。そうしたら、僕はみんなと同じ天国には行けなかったりするのかな。


 そんなふうに、ぼんやり考えていた時だ。外が騒がしくなった。

 子供達が外で遊んでるのかなと思った。

 でも、聞こえてくるのは大人の男の人の言い争う声だ。


 また大伯父さんの息子が昼間から酒場で悪態をついて喧嘩をしたのかな、と思った時だ。

 馬小屋の戸が開いて、沢山の人が雪崩れ込んでくる足音が聞こえた。


「ジェズ、ジェズ! 何処だ! 返事をしなさい!」

 初めて聞く声だった。

 僕はすぐに返事をしたかったけど、咽喉が乾涸びていて声が出なかった。


「社長、ここにいましたぜ!」

 太く低い声がすぐ近くでした。

 バタバタと足音がもっと近付いて、寝藁の山の中で埋もれていた僕の身体が急に軽くなって宙に浮いた感じがした。


 ああ、良かった。僕は天国に行けるんだと思ったのも一瞬で、次の瞬間にはギュウッときつく締め上げられた。

 なんだ、地獄の蛇に食べられちゃうんだとがっかりしたけど、ずっと馬小屋の馬糞の臭いしか嗅いでなかった鼻に優しい香りが流れてきて、僕は少し混乱した。


 本当は、開けるのも億劫になるくらい瞼は重かった。

 でも、僕をあの世に連れて行こうとする優しい匂いの蛇の正体が知りたくて、僕は頑張って目を開いた。


 最初に見えたのは、大きく潤んだ栗の実色の二つの瞳だった。

 知らない男の人だ。蛇じゃなかった。

「だ、れ?」

 僕は頑張って声を出した。

 男の人は吃驚した顔になって、それから安心した顔になって、泣いた。

「私はお前のお父さんの友達だよ、ジェズ。今日からお前は私の家の子だ。良いね?」


 僕は、こうして地獄みたいな大伯父さんの家から助け出された。


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