第五話〜⑩

 当時の彼女が六歳だったというのが一番の理由だが、アリシアもアリシアで、観察眼の優れている彼女は両親や兄の会話、社交界での噂話を独自に分析して、実に正確に状況を把握していたのである。


 それもあって家族とアリシアの会話に齟齬や食い違いが起こる事は無く、フランツも伯爵も夫人も、アリシアに状況説明をしていない、という事に気付かぬまま月日が過ぎていたのだ。

 それは実に十一年にも及んでいた。

 その事実は、モンジュール教会でのジェズとの和解ののちにエリザベスにも話をする際、同席したアリシア自身から明かされた。


 フランツ達はアリシアの分析能力に脅威を覚え、猛省を促された。そして、アリシアは両親と兄に取引きを持ち掛けたのである。


 今年の冬に着るコートを何着か新調したい。

 秋冬物の髪飾りをエリザベスとお揃いで誂え、ジェズにも揃いで何か贈りたい。

 今、王都で話題になっている芝居を皆で観劇したい。

 これを見事に承諾させたのだ。


 コートは伯爵が請け負い、芝居はマルティーヌが引き受けた。そして、髪飾りとジェズへの贈り物はフランツが私財から負担する羽目になった。

 折り足悪く、フランツは只今、国軍競技会での一件から三ヶ月の無給勤務中だった。フランツ達は項垂れていたが、エリザベスとジェズはアリシアの交渉能力に顔を見合わせ、心から感嘆したのだった。 


「とにかく、エリザベスとジェズには、あと特にアリシアにも隠し事は無し! だからお前も無しだ。正確に現状を把握出来ないと守りたいものも守れないぞ!」

 フランツは悪夢を吹っ切るように尤もらしく言い立てた。それを嫌ぁな顔で眺めていたローフォークは、やがて諦めて頷いた。


「洗いざらい、だな?」

「ああ、そうだ」

「大運河での摘発後、複数人の士官の推薦でシェースラーに昇級の話があったが、それをお前が握り潰した件も隠す必要が無くなったという事で良いか?」

「え? ちょっと待て、カレル。それは違う。そういう事じゃない!」

「フランツ様、どういう事ですか? ジェズ、本当は同期のみんなよりも早く一等兵になっていたかもしれないって事ですか?」

「いや、ちょっと、それは……」


 エリザベスの問い詰めにしどろもどろになるフランツに、ローフォークは更に追い討ちを掛けた。

「大方、『国軍競技会初の二等兵優勝』の肩書きが欲しかったんだろう。その方がより存在が際立つからな」

「フランツ様!」


「しょうがないじゃないか! ジェズには実績が必要だったんだ。これでもかってくらいの成績をあの場で残す事が出来たら、陛下の御目に確実に留まる。そうすれば公爵への牽制にもなるし、陛下の機嫌が良い瞬間を狙ってあの話を持ち出せば財務大臣も承諾せざるを得ないと思ったんだよ!」


「お前、まだ諦めてなかったのか」

「だって勿体無いだろう。新兵出身で優秀な下士官は大勢いる。それなのに始まりの階級が低いばかりに士官になれずに終わる者が圧倒的に多過ぎる。ジェズは士官になるべきだ!」


 グルンステイン国軍上層部では数年前から、若い兵士の中で優秀な人材がいれば、国費で士官学校に入校させてはどうか、という提案がなされていた。


 士官学校は本来貴族の子弟のみが入校可能だが、稀に資産家の子弟の入校が認められた。この場合、多額の入学金と授業料がかかり、高位貴族の紹介状も用意しなければならない。その人物の人間性を確かな身分の者が保証する必要があるのだ。

 それ故に金銭が動く事になる。

 これは法律にも入校の規則にも記されておらず、口利きの謝礼に始まった行為が慣例化してしまったものだ。この口利きで懐を潤している貴族もおり、エッセンのような勘違いした士官を生み出している原因ともなっていた。


 シュトルーヴェ伯爵はそういった悪き慣習を全面的に禁止にし、優秀な若手の中から選び抜かれた人材を士官候補生に育てたいと考えていたのだ。

 伯爵の考えに賛同する者は多く、順調に話は進むかと思われたが、グラッブベルグ派や伯爵の足を引きたい軍部の一部、国庫を預かる財務大臣の反対に遭い、遅々として審議は進んでいなかった。


「こいつはな、シェースラーを出汁にその話を進める切っ掛けを作りたかったのだ」

「記念すべき第一号はジェズのはずだったのに……」

 悔しそうに長テーブルの上で拳を握るフランツの姿に、エリザベスは胸を打たれた。

 それほどまでにジェズの可能性を信じてくれていたなんて……。


「ははっ。だけど、一等兵に昇級した状態で出場しても、御前競技の歴史上初ではありましたよね。フランツ先輩」

 不意に横合いから声が掛かり、フランツはぴくりと反応した。

 声の主はドンフォンだ。机の上で肘を着き、組んだ指の上に顎を乗せて薄く微笑んでいた。

 エリザベスの目がクッと細められ、フランツに向けられた。


「因みにコール准尉。カレル先輩は士官学校卒業目前に、そのマートンと殴り合いの喧嘩をして留年の危機に陥った事があるよ」

「おい、ドンフォン」

「あのねえ、何なんですか、あんたらは。戻ってきたかと思ったらいきなり誰が誰を害するだの、王位継承がどうのって。誰かに聞かれたら不敬罪とか国家転覆とか疑われそうな話ばかり。するならするって言ってくださいよ。心の準備ってものがあるんですから。こちとら親の助力なんて望めない貧乏侯爵家の味噌っカスの七男なんですよ? 職務上の事ならともかく、家同士のいざこざや王家が関わる話は極力避けておきたいんですよ」


「はっ? お前なら巻き込まれたところで自力で何とか出来るだろう。この中の誰よりも好戦的な奴が何を言っているんだ」

 ローフォークに言い放たれたドンフォンは、にっこりと笑った。


「あれは十四年前、私が幼年学校の第三学年で少佐が第四、中佐が第五学年の時だ。私達は子供の頃から連んでいてね。よく一緒に遊んだんだよ。あの日は朝から暑い日で、私達は中佐の家の近くの小川に魚釣りに行ったんだ。だけど、なかなか釣れなくてね。結局、中佐の家で課題をやる事になったんだ」

「おい、まさか」

「ドンフォンやめろ」


「帰りすがら、持ってきた菓子を食べたんだけれど、それが暑さで傷んでいて、私達はもれなく全員、腹を下してしまったんだよ。課題をやっている途中で徐々に腹が痛くなってねえ、ふと見ると二人も青褪めて変な汗を掻いてるんだもの。いやあ、思い出すと笑えるね。三人揃って漏らさないように必死だったからね」

「ジョルジュ!」

 ローフォークとフランツの叫びが重なった。


 エリザベスは懸命に堪えていたが、とうとう我慢が出来なくなって声をあげて笑い出した。

 二人の佐官は真っ赤になって顔を伏せた。


 思いがけず知ってしまった幼少期の出来事に、嬉しくなってしまった。

 それがローフォークやフランツにとって死ぬ程恥ずかしい失敗談だったとしても、エリザベスには人間味の溢れたかけがえのない思い出に思えて仕方なかった。


 取り敢えず、フランツがジェズの昇級を握り潰した話は、アリシアに内緒にしてあげようと思った。



     *   *



 運河沿いの倉庫の中に鼻歌が響く。

 上手いものではないが、音色は弾み楽しげだ。


 鼻歌の主は、無数に積み上げられた木箱の中から適当に一つを選んで、手にしていた鉄梃を蓋の隙間に捩じ込んだ。蓋と箱の間に僅かな空間が出来ると、上着から布に包んだ塊を取り出して中に滑り込ませた。

 やはり上手くない鼻歌を歌いながら蓋を閉め直し、鉄梃で抜いた釘を打ち直した。


 くくっと声を潜めて笑う。


 夜目が利くのか、鼻歌の主は暗闇の中でもするすると物を避けて倉庫の出口まで辿り着いた。

 周囲に人の気配がない事を確認して外へと滑り出る。

 倉庫の重い両扉を慎重に閉じて、取っ手にぶら下がった錠前の穴から針金を抜いた後は、何事も無かったかの様に錠を掛け直し、再び鼻歌を歌いながら倉庫街の路地を歩いて行った。


 新月の夜に闇は深い。

 だが、空は高く満天の星が鏤められていた。




                                第五話:終

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