第四話
第四話〜①
「釈放⁉︎」
アリシアの裏返った声が中庭一帯に響いた。
「そんな、ありえないわ。だって、そのレスコーという商人は密輸犯の一人でしょう?」
「はい。それも事件の重要な情報を持った人物です。その重要人物をベルニエ軍団長は釈放してしまったんです」
エリザベスはぷっくりと頬を膨らませた。
軍選抜会後、全ての種目において国軍競技会に代表者を出した第二連隊はお祭り騒ぎだった。その中でもジェズの驚異的な射撃は隊員達の間で連日話題にのぼり、やがては伝説化するだろうと言われているくらいだ。
ジェズ本人は皆に褒め上げられることに慣れず、赤くなって縮こまっているのだが。
レスコー釈放の情報は、そんな最中に唐突にもたらされた。
事実確認の為、師団長デュバリーはすぐさまベルニエに面会を求めたが、ベルニエは多忙を理由に素気無くこれを断った。その後、求めた書面での回答には『これは第一連隊の職務であり、すでに任務から外れた第一師団に対する説明は不要且つ無意味である』との一文が記されただけだった。
当然、納得しかねたフランツがデュバリーの許可を得て調査した結果、釈放に前後してベルニエに大金が渡っていたことを突き止めた。
ベルニエは保釈金だと反論するだろうが、レスコー家から直接第一連隊に納められたわけではなく、複数の人間の口座を通してベルニエの口座に移動しているので、賄賂であることは間違いないと上層部は見ている。
恐らくレスコーの妻が絡んでいるだろうというのが、フランツの見解だった。
「呆れた。悪人に買収されるなんて。碌な人じゃないとは思っていたけど、こんな重大な事件でもお金に負けるのね! 国家の重要案件だって自覚がないのかしら!」
しかも、釈放は軍選抜会の直後に行われていたというのだから、第一師団への嫌がらせ以外に理由が思い付かない。
治安維持軍はその名の通り、国内の治安を維持し王国を揺るがす事件を未然に防ぐことを主任務としている。
王都を含む主要十二都市に各師団の本部が置かれ、エリザベスが所属する第二連隊は王都と王都郊外を管轄する第一師団に属していた。
国王陛下のお膝元である王都は人口密度が高く、犯罪発生率も比例した。
凶悪事件も多発し、王都そのものを管轄区にしている第二連隊は、連日猫の手も借りたいほどの忙しさだ。
夏季に入ってからは、特に深夜帯の飲酒が絡む事件が飛躍的に増加した。
つい先日も泥酔した男が通りすがりの女性に抱き付いて離れない騒ぎと、路上で複数人の殴り合いの大喧嘩が同時に発生して、隊員達は寝ずの対処にあたったばかりだ。
そんな中で、レスコーを捕らえる為に彼等がどれほど奔走してきたか。偶発的とは言え、ジェズがどんな罪を背負ってしまったか。彼等の命懸けの任務をベルニエは個人的な欲望の為に台無しにしてしまったのだ。
「確か、そのレスコーって商人は武器以外でも密輸を行なっていたのよね? 第一連隊はちゃんと調べたのかしら」
「分かりません。でも、少なくとも密輸の全容は掴めていないだろうと、ローフォーク少佐もドンフォン中尉も仰っておられました」
最初に取り逃がした時、屋敷や会社で押収した証拠品を調べても、レスコーはあくまでも仲介役の一人でしかないことが判明していた。
武器は最終的に何処に辿り着こうとしていたのか、何者が求めていたのか、肝心な部分は分かっていないのだ。
「第一連隊って管轄がそもそも王宮庭園でしょう? あの人達、捜査の仕方知ってるの?」
フランツが聞いたら絶叫しそうな言葉だ。
敢えてそこには触れないでいたのに、改めて誰かに問われると頭を抱えて床を転がり回るかもしれない。
「私が言うのもなんだけど、王宮庭園って伏魔殿なのよね」
国王の最大の庭である王宮庭園は有爵貴族達の居住地だ。
広大な庭園の中では、一見すると穏やかに時が流れているように見えるが、豪奢なカーテンを一枚捲ると、そこには見栄と面子の底無し沼が広がっている。
「爵位を持っている、というだけでは、ここでは暮らして行けないわ。貴族としての対面を保つ為には人を多く雇い、屋敷を隅まで整え、質の良い宝飾品で着飾り、可能な限り高位の官職に就く。その為に必要なのは家の歴史と高い教養ではなく、お金。官職も、なんなら爵位だってお金で買えるのよ。グラッブベルグ公が良い例よね。あの人、元々は貴族御用達の弁護士だったらしいわ。収入の多い貴族に付いて、ふんだくっていたみたいよ。それこそ達者な口と賄賂で雇い主の貴族にとって都合の悪いことを揉み消していたのよ。我が家にも擦り寄ってきたことがあったみたいだけど、お祖父様がそういう人間が大嫌いだったから関わらないようにしていたんですって。そもそも後ろめたいことなんてないし。そして、そのお金で伯爵の地位と法務省の役職を買ったの。恥ずかしいけれど、お金さえあればどんな事でも許されるのが王宮庭園なのよ」
その様な場所であるから、王宮庭園内では金が飛び交う。
貴族同士の諍いがあれば、提示された金額が多い方が有利になる。第一連隊の隊員達も、目を瞑ってもらう為の袖の下に慣れてしまう。
王宮庭園で仕事を真面目にこなそうと思えば、腹に一物を抱える連中には目障りに映り、何かと嫌がらせを受けるのが常だった。
「お父様も治安維持軍団長時代は苦労したみたい。お兄様はどう対処するかしら。軍務大臣になろうと思ったら避けては通れない道よ」
さらりと意外な情報を聞いてしまった気がして、エリザベスは反応に迷ってしまった。そんな様子に気付いたアリシアがクスクスと笑う。
アリシアにしてみれば、誰もが知っていることを今更隠す理由がどこにあるのか、という事になるが、エリザベスにとってはグラッブベルグ公爵は初めから公爵だったので、元が自分と同じ第三身分の出身だったとは想像も出来なかった。
「貴族になった経緯がそんなだからね、グラッブベルグ公を嫌う貴族は多かったそうよ。でも、やり口はともかく、有能なのは確かだったのよ。だから、陛下の御長女であられるアデレード様を降嫁されて公爵になれたし、宰相職にも就けたのよ」
そして、その政治は善政と呼んでも良いものだった。
だからこそ、裏で如何なる悪辣な振る舞いをしていても、彼を引き摺り落とすことは容易ではないのだ。
正直なところ、オットー・グラッブベルグという人物が何をしたいのか分からない。
表では善き政治を行う善き宰相でありながら、裏では欲望のままに弱者を虐げる。一体どちらが彼の本性なのだろうか。
そして……。
頭の中にはローフォークの顔が浮かんでいた。
「アリシア様」
「なあに?」
「私、コール家が襲われる前の日に、少佐に会っているのです」
唐突な告白に、アリシアは紅茶を飲もうとした動きを止めた。
フランツと同じ翠の瞳を瞬かせて、どう言葉を紡いでゆけば良いか迷うエリザベスを見詰める。
「コール家が襲われる前日、運河港近くの橋の上で会いました。私、橋から落ちそうになって、それをローフォーク少佐が寸での所でドレスを掴んで引き上げてくれて……!」
あの時のローフォークはとても優しかった。
凛とした雰囲気を纏い、意志の強そうな濃紺の瞳を穏やかに細めて、怪我は無いかと訊ねてくれた。
今にして思えば、そこにローフォークがいたのは偶然ではなかったのだろう。きっと、あの時にはすでにコール家は皆殺しにされる事は決まっていたのだ。
エリザベスと出会ったのは予期せぬ出来事だったとしても、自分がコール家の人間であることは告げていた。その時、彼はどんな気持ちで自分と接していたのだろうか。
エリザベスはローフォークという人間を知りたいと思うようになった。
そんな考えを抱いた時に、第二連隊への入隊を提案され、飛びついた。
第二連隊で働くようになり、最初に気付いたのはローフォークの職務に対する姿勢だ。
誰よりも誠実で真摯に対応し、妥協は許さず、下にもそれを許さない厳しさがあった。時折、それは横暴にも見えたが、面倒見は良くて部下にも同僚の士官達にも慕われていると言ってもよい。
師団長デュバリーも、シュトルーヴェ伯爵と入魂であれば宰相派である彼を警戒し、冷遇してもおかしくはないのに、むしろ厚く信頼しているようにエリザベスには映っていた。
犯罪を許さない表と犯罪を犯す裏。
どちらが本当のローフォークなのか問われても、エリザベスは答えることができないだろう。もしかしたら犯罪を憎む姿は、自分の罪を誤魔化すための装いなのかもしれないのだから。
けれど、ビウスでの事件を予期したフランツを前にして、欺き続けるには無理がある。ローフォークが本質から殺人を厭わない人間であるなら、フランツもとっくに彼を捕らえているだろうから。
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