第三話〜④

     *   *



 目覚めたローフォークは、自分が何者であるのか認識するのに時間を必要とした。

 ようやく自分がグルンステイン王国の貴族ローフォーク子爵で、王国治安維持軍の少佐であることを思い出した時、横になっていた場所が床下の湿った土の巣穴ではなく、大隊長室の長椅子であることにも気付いて安堵の溜息を溢した。


 ここ数日、ローフォークは庁舎に泊まり込むことが多くなっていた。

 大運河での取締り以来、連日行われる取り調べと捜査に追い立てられて自宅へ帰り損ねていたのだ。


 第二大隊の密輸犯達への取り調べは過酷を極めた。

 入れ替わり立ち替わり現れる取調官の厳しい追及と拷問に、軍医も頻繁に呼び出された。留置所が置かれた連隊庁舎の地下は、大運河港での一斉捜査から昼夜問わず繰り返される尋問に絶叫と悲鳴で満たされた。

 厳しい追及と更なる調査の結果、王都の富豪の名が上がり、先日にその商家への摘発を行ったばかりだが、肝心の商人は一足早く逃走していた。その商人の捜索と取調室からあがってきた書類の整理に時間をとられ、仕事を終えた時には日を跨いでいた。少しの仮眠のつもりで横になったが、すっかり寝入ってしまったらしい。狭い長椅子の上に長時間転がっていた所為で、身体が凝り固まっていた。

 布団代わりに被っていた軍服の上着から、懐中時計を取り出して時刻を確認する。

 真鍮の針は午前四時を指し示そうとしていた。


 執務室のカーテンを開くと、外は夜が明けたばかりだ。窓から見える早朝の街並みは幽かで、運河から立ち昇る霧が薄っすらと王都全体を包み込んでいた。霧は第二連隊の敷地にも入り込んでいて、緑の植え込みと連隊庁舎の厩舎が、雪を被ったように輪郭をぼんやりさせていた。


 今日は暑くなるだろう。

 暦はすでに夏に入っている。食事や暑気など、兵士達の体調管理を一層徹底しなければならない季節だ。陽が長くなるので市街の酒場での喧嘩が増える時期でもある。彼等の疲労が最も蓄積される期間だった。


 休もう。


 何となく、そう考えた。

 もう五日ほどまともに帰っていない。子爵としての仕事も溜まっているだろう。休みをとって家事整理をしよう。それに今日は安息日だ。長いこと母に会いに行けていない。御機嫌伺いをしなければ……。

 ローフォークは執務机の引き出しから取り出した休暇届けにペンを走らせた。


 自宅は、市街中心部の第二連隊庁舎から程近い通りに建っていた。

 三階建ての自宅の内部は、地下に厨房を含めた水回りと物置。一階には使用人の部屋と食堂と家族の居間。二階には応接室と客間と書室があり、三階にローフォーク自身の私室と書斎。そして屋根裏部屋といった縦割りになっていて、主に単身者や子供のいない若い夫婦向けの造りとなっていた。ローフォーク個人の所有物ではなく、複数の入居者が大家に賃料を支払って部屋を借りるテラスハウスだ。

 そこに、ローフォークは身の回りの世話をする使用人と供に暮らしていた。


 呼び鈴を鳴らして間も無く、家令がローフォークを出迎えた。

 家令は主人の上着を受け取ると、すぐにでも朝食の支度を整えられると告げたが、ローフォークはそれを断って階段へ向かった。

「少し寝る。二時間後に起こしてくれ。食事はそれからだ。それと、午後にモンジュールの教会に行く。馬の用意を頼む」

「畏まりました。ところで旦那様。先日、宝石商に修繕に出していた品が届きました。書斎の机に置いておきましたが、支払いはいかが致しましょう」

 階段を昇りかけていたローフォークは足を止めて振り返った。

 この家令が金額のことを訊ねるのは珍しいことだった。そのような時は、大抵がこの家令に与えている権限の枠を超えた支出にかち合った時だ。


「いくらになった」

「それが、これだけに……」

 家令から請求書を受け取ったローフォークはその金額に目を丸めた。

 宝石商が提示した費用は、ローフォークの少佐としての月俸給の半分が吹っ飛ぶほどの金額だったのだ。


 心配そうな家令の顔を見て、安心させるための笑顔を見せた。

「心配するな。蓄えはある。起きたら委任状を用意するから、必要な金額を下ろして支払いを済ませてくれ」

 そう言うと、家令は恭しく一礼をして引き下がった。


 三階に辿り着くと、寝室ではなく真っ直ぐ書斎に向かった。書斎の机の上には、帳簿や書類、手紙と一緒に細長い小箱が置かれていた。

 箱の中身は花のチャームが付いた一本のペンダントだった。それは、ビウス運河の石橋の上で初めてエリザベスと出会った時に、少女が身に付けていた物だ。

 ローフォーク達がコール家を襲った夜、仲間の一人が持ち出し、ローフォークがマートンと揉めた際にマートンが落としたまま忘れていったのを拾っておいたのだ。

 ペンダントはローフォークの剣によって叩き落とされていたからか、鎖は千切れ、台座の一部が欠けて幾つかの宝石が紛失していた。宝石商に修繕を求めたのは、台座の補修と紛失した宝石の填め換え、そして鎖の交換だった。


「何をやっているんだ、俺は」

 思わず苦い笑いが込み上げた。

 何故、こんなことをしたのか自分でもよく分からない。

 大金を叩いて修繕したところで、返す当てなど何処にも無いのだ。例えフランツに頼んで持ち物の中に紛れ込ませることに成功したとしても、エリザベスはペンダントの異変に気付いて身に付けることはしないだろう。修繕はあくまでもローフォークの記憶を頼りに注文したものなのだ。寸分違わず、仕上がっているわけではない。


 ローフォークは自らを嘲笑い、ペンダントを引き出しの奥にしまい込んだ。

 とにかく、眠ろう。

 目覚めたら委任状を書いて、帳簿の整理をして、母に会いに行って、それから……。

 書斎を出て寝室に入り、寝台に倒れ込んだ。

 瞼を薄く開くと真っ白なシーツが視界に入った。薄れてゆく意識の中で、不思議と一月余り前の記憶が蘇った。


 夜の闇。

 月明かりに照らされた部屋。

 そこに居た、薄い夜着を一枚羽織っただけの少女。

 バルコニーから飛び降りた瞬間、夜着は宙に羽撃く羽根のように指を擦り抜けていった。


 ああ、あの蝶は……。


 ローフォークは小さな笑みを口元に浮かべた。

 あの夜のエリザベスは真っ白だった。

 夜着の所為ではない。エリザベス自身が真っ白だったのだ。


 恐怖の為だったのかもしれない。少女の未熟な肢体は、羽織っていた夜着よりも、外から差し込む金の月光よりも、際立って白く映った。それは夢の中の蜥蜴が見た、傷付いた蝶そのものだった。

 息が止まるほど惹き込まれたことを、もっと見ていたいと願ったことを思い出した。


「コール、俺はお前を」

 ローフォークは瞼を閉じてシーツに顔を埋めた。もはや意識は現から遠ざかり、身体は重たく寝台に沈み込んでいる。

「美しいと……」

 そこで、意識は途切れてしまった。



     *   *



 弾丸が男の二の腕を貫いた瞬間、ジェズは心の中で拳を握った。


 背後に控えていた兵士達が戸口から一斉に室内に雪崩れ込み、床に蹲った男を瞬く間に取り押さえた。頭に銃を突き付けられた男はまだ拳銃を握っていたが、その手は頑丈な軍靴の底で踏み付けられていて動かすことができない。

 兵士の一人が窓際に駆け寄り、外の待機班に向かって容疑者確保の合図を送った。たちまち、窓の外、そして宿泊部屋の前の廊下で動きがあり、ローフォークが側近を従えて姿を現した。


 ジェズは最初の射撃後、素早く次弾を装填して銃口を相手の頭部に向けていたが、右手の指は引き金に添えるだけにしていた。被弾した箇所から弾丸が腕の骨を砕いていることは間違いなく、抵抗は無いと判断したのだ。

 取り押さえられた男の前に立ったローフォークは、濃紺の瞳で相手を見据えた。

「マテュー・レスコー。貴様を武器の違法輸入の容疑で逮捕する」

 レスコーと呼ばれた男は苦悶の表情でローフォークを睨みあげていたが、逮捕状を突き付けられると観念したのか、素直に応じる姿勢を見せた。


 拳銃を取り上げられ、両腕に枷を填められたレスコーは止血の処置を施された。

 レスコーが潜伏していた宿屋の表では、宿屋の主人と他の宿泊客を立ち合わせての現場検証と事情聴取が行われていた。潜伏中に外出してはいないか、誰かと接触した気配はないか確認するためだ。


 レスコーは武器の不正取引が行われているという情報を得てから、第二大隊が慎重に調査を行い、密かに追い続けてきた男だ。

 七月の頭に大運河の取引現場を押さえたが、首謀者と目されていたレスコーはすでに姿を晦ました後だった。自宅も含めて会社や取引先の強制捜査を行った結果、裏帳簿の発見を皮切りに数々の不正が判明した。

 何も知らずに置き去りにされた妻子は泣き伏せるばかりだった。

 

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