第二話〜⑨
「そうでしょうか。猿って言われたのですけど」
「そりゃ、ひどい物言いだな」
そう言う割には同情の色は見受けられない。エリザベスはまた頬を膨らませた。
「しかし、最近は手加減をしてもらっているらしいな」
「ええ。どういうわけか」
ローフォークの指導に加減が加えられるようになったのは、アリシアからの手紙を渡した日からだ。
エリザベスはその日にあったことを毎日アリシアに報告している。
行動を監視する目的ではなく、純粋にエリザベスを気に入って御喋りを楽しんでいるアリシアにはエリザベスも何でも話した。護身術ではなく軍隊格闘を仕込まれていると分かった日も報告していたのだ。
その翌日の朝、出仕しようと支度をしていたエリザベスに、アリシアは一通の手紙を手渡した。宛名はローフォークになっていて、忘れないように、必ず渡すように言い付けられた。手紙の内容をエリザベスは知らなかった。しかし、その時を境に手加減されるようになったのは事実だ。それでも、毎日地べたに引っ繰り返されていることに変わりはなかったが。
確認印を貰い退室しようとしたエリザベスは肩を揉むトゥールムーシュを見て、受け取ったばかりの書類を応接用の長テーブルに置いた。執務机を回り込み、両手を軽く握って大きくて厚い両肩をとんとんと叩く。
「おお、こりゃ、ありがたい」
今年六十歳になる老齢の中佐は驚きと感激に目を見張った。
「いやあ、極楽極楽。嫁に行った孫を思い出すよ」
「トゥールムーシュ中佐のお孫さんはもう嫁がれたのですか?」
「ああ、去年な。小間物屋の女房になったよ。もうじきひ孫の顔も見れそうでね。長生きはするもんだ」
「おめでとうございます。楽しみですね」
「ああ、ありがとう。あんたも早く良い亭主を見付けなきゃ駄目だぞ。しかし、まあ、心配せんでもシュトルーヴェ家が良縁を探してくれるな」
「私、お嫁になんて行きません」
「おや、どうして。あんたは別嬪さんだし、持参金も充分だから引く手数多だろうに」
「結婚なんて……」
言い掛けて、口籠った。
エリザベスにとって結婚は鬼門だ。
最初の結婚話を断った結果、両親は殺害されて家族同然の人々を失ってしまったのだ。
そのうえ、面白おかしく広まった悪い噂の所為で、生まれ育った街を離れなければならなくなった。良いことなんて一つもなかった。
あの惨事からやっと一月が過ぎたばかりだ。結婚や花嫁衣装に少女らしい憧れはあるが、胸の内には今でもあの夜の恐怖が巣食っている。
しかし、
「結婚なんて、私にはまだまだ先の話です。私、まだ十四になったばかりですもの」
曾孫の誕生を心待ちにしているトゥールムーシュに不吉なことは言えない。これが当たり障りのない答え方だと思った。
「はっはっはっ! そうかそうか、お嬢にはまだ現実的じゃないということか」
「はい、まだまだ先です」
トゥールムーシュの灰色の頭を眺めながらエリザベスは大きく頷いた。
二人が談笑を続けていると、執務室の扉が開いてトゥールムーシュの副官が入ってきた。
副官はせっせと上官の肩を叩いているエリザベスに、すぐに連隊庁舎の正面玄関に向かうように言った。
第二大隊が任務を果たし、無事帰還したのだ。
* *
第二連隊庁舎のホールは、任務の達成に興奮した兵士で溢れていた。彼等は全員埃に塗れていたが、見せる表情には満ち足りたものがあった。
軍人達に混じって、拘束具を填められて数珠繋ぎで連行される一団があった。
今回の任務で逮捕された密輸犯達だ。背中や頭部に銃口を突き付けられ、不審な行動を取れば即座に射殺される状態となっている。数は凡そ二十人。無傷なのはその内の三分の一で、残りは全員どこかしらを負傷していた。歩くこともままならず担架で運ばれる者もいた。そんな体でも厳重に監視されている。
ホールに運び込まれたものは人間だけではなかった。
押収された荷物が荷馬車から運び込まれてくる。これから練兵場の一部を使い、押収物の検分を行うのだろう。今回の任務がどれほど危険を伴うものだったのか、軍事に疎いエリザベスにも容易に想像ができた。
「エリザベスだ!」
誰かがエリザベスを見付けて叫んだ。
「無事帰ってきたぜ、エリザベス!」
「コール准尉、ただいま!」
兵士達は次々と興奮冷めやらぬ様子で帰還の声をあげた。
「おかえりなさい、アラン兵長。お帰りなさい、ベッケル軍曹。ブイーズ上等兵もご無事でなによりです」
エリザベスの労りの言葉に、彼等はさらに興奮して任務達成の勝ち鬨をあげた。それはたちまち全ての兵士に広がり、地鳴りの如き咆哮が連隊庁舎を揺すった。
「エッセンの一件で一時はどうなることかと思ったが」
二階の廊下の手摺り越しに玄関ホールを見下ろしてフランツが言った。
「良くも悪くも、エリザベスはうちの連隊に強い影響を与えているな」
「良くも悪くも、な」
フランツの言葉をローフォークは鼻で笑い飛ばした。いつもの詰襟の軍服ではなく、現場の兵士が主に着用している野戦服を纏っていた。多くの兵士と同様に埃塗れだ。
「そう言うな。せっかく助かったあの子を、あのままビウスに放置しておくことが正しかったと思っているわけじゃないだろう。これが思い付く限りの最良の手だ」
「分かっている。だがな、あいつの所為で何もかも調子を崩されて苛々している。フランツ! 何故、俺がお前の妹から脅迫文を受ける羽目になるんだ! コールの顔に傷を付けたら王宮庭園の屋敷を放火すると脅してきたぞ! お前の妹は絶対にやる!」
「……それは、悪かった。俺が謝る。だから最近手加減しているのか」
「追い出されはしたが、俺はまだ諦めたわけではない。帰る家が無いと困るのだ」
「ああ。頑張って手柄を立ててくれ。公爵様の力抜きで国王陛下からお許しを頂けるようにな」
「当然だ。いつまでもあのガマ蛙の汚い足に踏み付けられてばかりいると思うな」
ローフォークの濃紺の瞳が野心的に煌めいた。しかし、すぐに険しい表情に戻る。
「フランツ、今回押収した物を屋内練兵場に運ばせている。デュバリー師団長に直接確認していただきたい。それと第二連隊の大隊長も全員集めてくれ。想定外の物が出てきた」
「何が見付かった」
問いに対して、ローフォークは一丁の拳銃を渡した。
それは銃本体にあるはずの装薬への着火機構が全く見当たらない銃だった。銃を手に取り、構造を確認したフランツは鋭く目を細めた。
「……分かった。すぐに召集しよう」
そう言うと、副官のロシェット大尉を呼びながらフランツは踵を返して立ち去った。
フランツの後ろ姿を見送ったあと、ローフォークは一階のホールに下りた。
ホールでは未だに配下の兵士達が歓喜に沸き返り賑やかだ。無傷での任務達成が素直な喜びを彼等に与えているのだろう。浮き立つ彼等を横目に呆れるローフォークも、最小の被害で任務を達成できた時、凶悪事件の早期解決が叶った時、彼等と同じ喜びが満ちた。
とりわけ、今回の任務では相手は大量の武器を所持していた。
精鋭を選りすぐり充分な連携訓練を行なってきたつもりだが、数人の死傷者を覚悟していたのも事実だ。それがこちら側に一人の犠牲者も出さずに作戦を遂行できたのは、幾つもの幸運と指揮下の兵士の能力の高さによるものだった。
「コール」
体格の良い兵士達に紛れ込んでいても、不思議とエリザベスの栗の実色の髪を見付けることができた。
困惑した様子で周囲に視線を走らせていた少女は、ローフォークの姿に安堵の表情を見せたものの、またすぐに不安の色を浮かべた。
「お帰りなさいませ、少佐。お怪我が無くてよろしゅうございました。あの」
「シェースラーならまだ建物の外にいるはずだ。行って、傍に付いていてやれ」
エリザベスの出迎えに応えもせず、ローフォークは言った。
大きく丸められた瞳が不思議そうに見上げてきたが、すぐに異変を察して血の気を失った。慌てて走り出し、小柄な身体が庁舎の外に飛び出して見えなくなると、ローフォークは未だに興奮に騒ぐ兵士達の沈静化に取り掛かったのだった。
ジェズは庁舎正面玄関の脇にいた。
押収物が荷馬車から庁舎内に運ばれて行く隅で、軍用小銃を背負い、数人の上官兵士と供に足元に寝かされた布の塊を眺めて真っ青になっていた。
彼等の足元の布の塊は長く大きく、ちょうど大人一人が包まれる大きさだった。布の所々に、花が咲いたような赤黒い斑点が滲んでいた。
近寄り難い雰囲気に声を掛けるのを躊躇っていると、上官の一人が少女の存在に気付いて顔をあげた。ドンフォンは部下に担架を運ぶよう指示を出し、ジェズの肩に手を置いて一言二言言葉を掛けた。
布の塊が運ばれ、ドンフォンも担架を追って姿を消すと、ジェズはようやくエリザベスへと振り返った。
「ただいま、エリザベス」
「お帰りなさい、ジェズ。無事で良かったわ」
「へへ。僕、悪運は強いからね」
ジェズはぎこちなく笑った。
「大活躍したってみんなが言っていたわ。今回の作戦は、ジェズのおかげで達成できたって」
「うん。やっぱり、僕、射撃の素質があるみたいだ。狙ったところ、全部当てたんだよ」
「そう、凄かったのね!」
お互いが、努めて明るく振る舞おうとしていた。
エリザベスは、兵士達が運び去った担架の上の物体がなんであるのか気付いていたし、ジェズは兵士達が運び去った物体がなんであるのか、エリザベスが気付いているということに気付いていた。
ジェズは芥子色の瞳を潤ませた。
「さっきの、見ただろ?」
「……ええ」
「僕が撃った犯人の一人なんだ」
エリザベスは黙ってジェズを見詰めた。
ジェズは喉の奥に込み上げてきた熱い空気の塊を懸命に飲み下そうとしていたが、結局、堪えきれずに吐き出した。
同時に、両目から涙が溢れた。
「相手が武器を持てなければ、それ以上の抵抗なんて無くなると思ってた。だから、肩とか脚とか、致命傷にならないところを狙った。でも、相手は訓練場の動かない的じゃなかったんだ。向こうだって、捕まりたくはないんだもの」
洟をすすり、埃だらけの袖で頬を拭った。涙はとめどなく溢れ続けた。
「頭に、当たったんだ! 僕は肩を狙ったのに、急に飛び出してきた! 不利だと分かって逃げようとしたのかもしれない。耳の上に当たって、倒れて、そのまま動かなくなった! 僕が殺したんだ!」
「ジェズ」
手を握ると、ジェズは痛くなるほど強く握り返してきた。
人の命を奪った。
その恐怖と罪悪感で、窒息してしまいそうなくらい呼吸が乱れている。
エリザベスはそっと、ジェズを抱き締めた。
ジェズは軍服の上からでも分かるほど震えていた。
第二話 終
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