第10話 温室のダフネー
資材庫の鍵を閉め、校舎へと戻ろうとする渡邉がふと、足を止める。
空を見上げると、まだ日は高く、日暮れまで時間がありそうだった。
少し寄って行こうか…
渡邉は「憩いの場所」へと、進路を変えた。
温室のドアを開け、歩みを進めると、全身が洗われるような心地がした。
全てを忘れられる場所。浄化される場所。
浄化……
温室の中程に設置されたベンチに、一人の少女が座っているのが見えた。
いや、眠っているのか?
手すりに両腕でもたれ掛かるその姿は、
一条……美月……。
何度かこの温室で出会ったことのある2年生。
くすみのない緑の植物の中に溶け込むような清い美しさは、あの学校という世俗的な空間に、共に存在する人間なのかと信じ難くて、
気づかれているのか、すぐに視界からは消えてしまい、この数ヶ月は
近くで見ると……ますます……
象牙の彫刻のような素肌に見入っていると、
「……え? っっ……とっ渡邉先生?! わっっ私寝ちゃってた?!」
一条は慌てて姿勢を整えてベンチに座り直すと、恥ずかしそうにこちらを伺っていた。
「あ……ゴメン……起こして、しまったかな……。驚かせるつもりはなかったんだけど……」
渡邉はベンチの前で立ちすくんだまま、美月を眺めながらそう答えた。
一条の顔、正面から見るのは初めてだろうか……。
いつもは視線に耐えられずに目を逸らしてしまっていたが、今日はそれすらも出来ない。
渡邉は言葉もなく美月の面前に立ち続けていた。
「……渡邉先生、温室がお好きなんですか?」
先に口を開いたのは美月だった。
「あ、あぁ。一条さんも?
なんだろう、一条が目覚めた瞬間の、あの目に魔法をかけられたみたいだ……。
ここに座る彼女も、話す彼女も現実味が無くて、目を逸らしたら消えてしまいそうだ……。
「私はここの雰囲気が落ち着くんです。すごく癒されるというか……、上手く言えないけど、すべてが一度自然に溶けて……じょ」
「……浄化されるみたいで?」
少し驚いたように一条が
同じ感性……?
「先生も? ……そうだったんですね。一緒だったんだ……」
そう言って一条は
降りてきた……。
俺はしばらくその微笑みに魅了されていたみたいで、恥ずかしそうに一条が目を逸らした時に初めて、自分が一条を見つめ続けていたことに気がついた。
「あ……一条さんもだったんだ。ごめん、ちょっとびっくりして」
笑って誤魔化して、とりあえずこの場を切り抜けようと考えた。そう、とりあえず、一条の視界からは離れないと……。
渡邉は数歩先のベンチの端に腰を下ろした。深く、一度深呼吸する。
何か……話さないとかな……。
「えぇ……と……」
心が落ち着いたところで、ちら、と一条を見ると、一条もこちらを見ていた。
今日は一条を近くに感じる。手を伸ばせば、届きそうだ。
「先生、もしかして、人付き合い苦手だったりしますか?」
「え?」
「あ、いや、違ったらごめんなさい。ただ、私は苦手で……。こういう時も、何を話したらいいのか全然思いつかないんです」
伏し目がちの
「でも……先生も私と同じで、その……、
ふ……と顔を上げて、一条は温室内を広く見渡した。そして、すごく僅かだけど、多分、微笑んだ。
「私は
……消えてしまう……
俺は一条の左手に自分の右手を重ねていた。小さな手は一瞬びくっと動いたが、俺の手の中に捕らえられたままだった。
「……先生?」
「ありがとう……。一条……さんの心遣いは嬉しいよ。でも違うんだ……」
「いえ、あの、そうじゃなくて、えと……手は……」
「あぁ、ごめん、一条さんが消えてしまうんじゃないかと
俺は一条のすぐ隣にまで迫り、一条の
「わ、私変な、見当違いのこと言っちゃったんですよね?先生人付き合い上手だし、やっぱり一人の時間は誰にも邪魔されたくないですよね……」
「……そうじゃない」
戸惑いの表情で俺に向けられた一条の瞳には、島崎や宮原とは違う「拒絶」の扉があった。
「違う……」
渡邉は、美月の左手に重ねていた右手を離し、自分の額に当てて俯いた。
疲れているのか、何がなんだか、思考が混乱して追いつかない……
「……先生?」
欲しかったのは、俺が本当に欲しかったのは……
「……ごめんなさい……。私、帰りますね。先生はゆっくり温室で休んでいってください」
ベンチから立ち上がる一条を見上げると、ぎこちないながら俺に微笑みかけてくれた。
穢れのない美しさってこういうのじゃないか、そう感じると同時に無意識に一条の手をまた掴み、自分の方へと引き寄せていた。今度は一条の手は抵抗をみせたから、立ち上がりつつ、ベンチの前へ更に引き寄せる。正面は俺が立ち、背後はベンチで挟み、動きを封じるような形に持っていった。
「先生??」
一条は眉を寄せて、戸惑いの表情に「
……違うんだ……。
渡邉は美月の手をすぐ放して、怖がらせないようにと、困ったような
「ごめん、一つだけ気になってしまって……」
「あ、はい、……なんですか?」
落ち着かない様子で、一条は視線を泳がせていた。
「一条さんは……何を浄化しているの?」
「え……?」
見上げる一条の顔が近くて、睫毛の一本一本まで見えるようだ。
長くて密集していて、艶々と光っていて……
一条は顔を逸らすと、立ち位置を変えようと身動ぎしたので、俺は身体をずらして彼女を解放した。
ベンチから離れて俺から距離を取った一条は、やっぱり視線を俺の足元に泳がせたまま、ボソリと呟いた。
「ごめんなさい……。よく……分かりません……」
「そう……か……。こちらこそ、変なことをゴメン」
「じゃ、私、帰ります。さようなら」
ぺこっと頭を下げると、一条は慌ただしく温室を出ていった。
温室には、俯きベンチに腰掛ける渡邉だけが残されたのだった。
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