第5話 ケリュネイアの鹿

 希望ケ丘女子学校敷地内にある温室は2つのパートに分かれていた。

 1つは熱帯、もう1つは亜熱帯の気候に合わせて空調管理されている。どちらの室内も定期的なミスト噴霧によって湿度が管理されていて、草木と一緒に自分も潤っていくように感じられるのも癒される理由かもしれない。

 美月と香鈴奈、2人の定位置は熱帯パートのベンチだ。どちらともなく腰掛けると高い天井と青々とした葉を眺めて大きく伸びをした。

「くぅ~癒される!」

「ねー」

「渡邉先生が来たら私が相手するから安心してね! 多分またすぐ居なくなっちゃうと思うけど!」

 香鈴奈が面白そうに言った。

 美月は目の前の友人に、心の底からの感謝の笑顔を返した。

 香鈴奈には、本当に感謝することばかりだ。


 初めて出会ったのは寮の新入生歓迎会だった。

 人付き合いが苦手だった美月とは正反対の、社交的な少女だと思った。あっという間に寮生や寮の職員と仲良くなったかと思うと、何故か美月に声をかけて来たので戸惑ったのを覚えている。

 初めは社交的な人に多い、場に馴染なじめていない者への気配りかと、美月も精一杯場に馴染むよう振る舞った。しかし、今までのパターンとは違い、それ以降も香鈴奈は何かと美月を構うようになった。

 クラスが一緒だったのもあったのかもしれない。ただ、クラスが同じ寮生は他にもいるので、単に波長があったのかもしれない。

 実際、美月は香鈴奈が側に居るようになっても、不快感はなかった。

 「人見知り」というのだろうか、美月は自分の領域に人が入ってくるのを好まない方だ。家族……叔父と叔母両親と秀平以外、側に居られると落ち着かないので距離を取る癖がある。だが、香鈴奈の場合は、むしろ、居心地が良くなることが多かった。特に、大勢と一緒にいる場面では顕著だった。

 香鈴奈が居ると、どこでも空気が柔らかく明るくなった。皆がリラックスした表情かお口調こえになるので、美月も緊張することなく振る舞えた。香鈴奈が側に居ることで、他の人が美月の領域テリトリーに立ち入ることがなくなる安心感も大きいのかもしれない。

 気づけば、香鈴奈には自分自身を隠すことなく、自然体で接するようになっていた。今回みたいに複雑で、整理のつかない自分でも、香鈴奈は笑って受け入れてくれる。有難い友人を得た、といつも思うのだった。


「渡邉先生って本当人気だよね。授業は3年生しか持ってないらしいけど、校内ですれ違う生徒、2年も1年も挨拶してはキャアキャア言ってるよ」

 香鈴奈は足をプラプラさせながら言った。

「若い男の先生少ないしね」

「その中ではイケメンだしねー。草食っぽい雰囲気も女子受け良いし。ファンクラブが出来そうだったんだって!」

「そうなの? すご!」

「3年生のね、島崎先輩、知ってる?」

 美月は目をまたたかせながら首を横に振る。

「2組で、少し長めのショートヘアの人、あの人を中心に漫画部の部員で設立を計画してたらしいよ。会員勧誘がバレて先生方に怒られたらしいけど! 休み時間によく渡邉先生と一緒に歩いてるの見る!」

「へぇ~、今度見てみる。塩対応じゃないの?」

「めっちゃ塩対応らしいよ! みんな数回でへこたれるって。でも島崎先輩はもう4~5~6~3ヶ月以上? へこたれないチタンハートって皆言ってる。って言うか、一部は呆れてる?」

「強いね!」

 2人で顔を見合わせて笑う。

「渡邉先生、人付き合い上手そうなのに塩対応って不思議だよね」

「人付き合い上手そう?」

「うん。あの誰彼区別のない笑顔は、そうじゃなきゃなかなか出来ないと思うなー」

 確かに、私には出来ないな、と美月は思った。

「私ね、直接は話したこと少ないから、評判からの想像なんだけど、渡邉先生ってもしかして美月と似たタイプなんじゃとか思ったんだよねー」

 どう思う? という顔で香鈴奈が美月を見た。

「私?」

「うん。美月も、こう、人と距離取る付き合い方するじゃない? 渡邉先生の塩対応もそれなのかなーって」

「あぁ、それ。それは私もちょっと思った」

 美月はふっと微笑んでから温室を見渡した。

 ナウシカの地下室のような優しい植物に囲まれた空間。人と居るより、ここ・・に居る方が何倍も落ち着く。

「それに、渡邉先生も温室ここによく来てるって聞いたじゃない? もしかしたら、すっごく気が合うかもしれなくない?」

 渡邉先生も、私と同じ気持ちで温室ここに来ていれば。私もそう思わなかった訳ではない。

 だから、一人の時はお互いに干渉しないように、温室ここを共有出来れば、と思っていた。

 でも。

 初めて二人で鉢合わせた日、美月は渡邉先生の視線を感じた。

 違和感に先生の方を見ると目が合うのだが、特に声をかけられることもなく、しばらくすると顔をらされる。何度かそれが繰り返されて、居心地の悪さから美月は温室を出た。

 2人で居合わせることはそれからも数回あったが、いつも同じだった。感じるのは自分への視線。

 気まずさから目が合った後に話しかけたこともあったが、話が弾むことはなかった。その代わりに、渡邉との位置関係は変わった。距離が近くなったのだ。それはつまり、視線の圧も強くなってしまった。

 視線だなんて確証のないもの、自意識過剰かなとも思う。自分自身社交的な方でもないし、香鈴奈のように話しかけ続けた訳でもないので、会話がないことで相手を責めるのも変だ。

 でも、そんな気まずさから渡邉先生のことが苦手になってしまった。

「香鈴奈はそう思う?」

 人付き合い上級者の友人の意見に、やはり自分が神経過敏だったのかもと揺らいだ。

「うん。可能性はあるんじゃないかな!せっかく共通の好きなものがあるんだし、少しはお話してみてもいいような気がする」

 香鈴奈が微笑みながら向けた瞳は、潤ってキラキラ光を反射していた。

「私が居なくて二人きりの時は、気まずいだろうし、無理する必要はないと思うけどね!」

「そうだね! 好きなものを共有するんだもん、仲良くなれた方がいいよね」

 心に引っ掛かっていたとげが抜けたような感じがして、美月は嬉しそうな顔で笑い返した。あの気まずい空間が、香鈴奈とのこの時間みたいになったら、温室ここはまた、特別な場所になる。

「渡邉先生が温室に来てるって知ったら、島崎先輩たちも集まっちゃうね、美月の温室・・・・・に」

 美月は少し驚いた。

 香鈴奈には私の考えてることが読めるのだろうか。

 そして、いつものように鋭い友人に降参する。意地悪っぽく笑いかけている香鈴奈に、思ってることを正直に伝えた。

「香鈴奈と2人だけの秘密の場所みたいなものだったから、ちょっと残念だけど、『皆の温室』になるならにぎやかで植物このこ達は喜ぶよ。」

「え~! いいの~?! 私は嫌だ~! 秘密の場所継続しよっ、当然渡邉先生が現れるのも内緒でしょ」

 ふざけてるんだか、本気なんだか、空を仰ぎながら足をバタつかせて香鈴奈は叫んだ。

 そんな香鈴奈に笑いながら、美月も天井を見上げた。

 濃い緑の葉で覆われる木々の隙間に、澄んだ青い空が、ガラス越しに見えた。

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