第25話 ならず者の夢


 将来ガッシュという異名で呼ばれる事になる混血の男は、幼少の時分に貧民街に捨てられていた。

 朧気な記憶の中ですら彼は、両親の事をまるで思い出せず、受けた愛情はおろか、接した事すらも覚えていない。


 覚えている事といえば、薄暗い地下に鎖で繋がれていた事。日に一度の残飯の様などろどろの食事。それを扉の配給口より置いていく生白い腕。体調を崩しても誰に構われる事は無く、臭いと云われて水をかけられる。

 そんな日常を送っていると、彼は幼いながらにも自分自身の境遇について察していった。


 ――自分は人間じゃないんだ。


 水をかけられた後に出来た水溜まりを覗き込むと、そこに右目が赤く左目が茶色の、オッドアイの自分が映っている。

 今まで幾度か目にした人間とは違っていた。


 ――自分は人間じゃないから捨てられて、産まれて来てはいけなかったから地下に閉じ込められているんだ。


 幼心なりに彼は物事の核心を理解していた。


   *


 一人貧民街に捨てられた彼は、いつからか、商店で盗みを始めた。人間でもロチアートでも無い混血児に情をかける者など居らず、生きていく為にはそうするしか無かった。


 盗みが見付かると彼はこっぴどく痛め付けられた。仕舞いにはボロ雑巾の様な有り様になるまで殴り、蹴られ、見せ物の様に軒先に吊るされた。しかしそんな非人道的な仕打ちも、相手が混血児とあれば非難する者など一人だっていなかった。眼帯を身に付ける様になっても、彼が混血児だという事は既に知れ渡っていて何の意味も無かった。

 それでも彼は生きていくために、次の日もまた盗みを繰り返す。そんな事ばかりしているので、体の生傷が絶えることは無かった。

 貧民街には憲兵隊はおらず、また都の憲兵も貧民街の連中を相手にしないので、捕まると角材で思い切り殴打されて道端に捨てられる。

 そういった経緯で彼の額と首と四肢には今も残る6つの大きな傷痕が出来上がったのだった。


 しかし程無くすると、流石に店側も彼を警戒する様になり、盗みが上手く出来なくなって来た。

 そこで彼は民の家に忍び込んで盗みを働くようになる。更に体の成長に伴なって力を付けてきた彼は、民から略奪までするならず者となった。


 しかしある時彼に転機が訪れる。それは裏通りで、一人夜道を歩いていた女から略奪をしている時の事であった。

 暴れた女を勢い余って手元のナイフで殺してしまったのである。これには彼も動揺してその場を動けずにいると、女の叫び声を聞いた民がぽつりぽつりと集まってきて彼を糾弾し始めた。

 殺しという大罪を犯した彼はその場で袋叩きにされ、都の憲兵に引き渡される事となった。


 都の憲兵は貧民街の民と見るや話し半分に聞いていたが、彼が殺しをしたという報せを聞くと、目の色を変え、即座に牢に入れる運びとなった。


 憲兵の一人が、殴られて腫れ上がった彼の目を見てこう問いかける。


「名は?」

「…………」

「あぁ、騎士様。こいつは“切り傷ガッシュ”って呼ばれてますよ。異名みたいなもんですがね」


 言葉を失った彼への問いに答えたのは、貧民街の民であった。兵の問いに彼は答える事が出来なかったのである。


 ――なにせ名前が無かったのだから。

 

 それからガッシュは、刑期も言い渡されずに都の牢に閉じ込められる事となった。幼き記憶の始まりの中に戻ったのだ。

 この泰平の世で牢に入れられる罪人は皆すべからく無期懲役であるから、もう一生そこから出られる事は無いという事は自分でも理解していた。


 

 毎夜、何も無い灰色の牢の中で、ガッシュは夢想する。


 ――何故俺には名前が無いんだ。名前とは人間の証。今やロチアートにだって名前がある。なのに俺には名前が無い。


 ――人間でも無く、ロチアートでも無い。誰も俺に心を開かない。まともに話してもくれない、目も合わせない。

 俺は何処でどうやって生きていけば良かったのだろうか。

 いや、そもそも産まれて来てはいけなかったんだ。俺のようなは。


 そしてガッシュは目を瞑り、あの時の感覚に身を寄せる。始めて人を殺したあの時に。

 ガッシュはあの時、確かに動揺して足を竦ませた。しかしそれは大罪を犯してしまったという自責の念から来る物では無かった。

 

 得も言えぬ快感が打ち寄せた事に、そんな自分自身に動揺していたのだ。


 その時の感覚を思い起こして、ガッシュはニタニタと笑む。


 ――俺を受け入れなかった人間を、俺がなれなかった人間を、人間にもなれなかった俺というが殺した……殺してやった!


 あの時の快楽を呼び起こす様に、ガッシュは夢想する。虐殺の夢を。人ならざる化け物が、民を殺す異形の夢を。

 よりリアルに、より鮮烈に。月明かりの落ちる静謐せいひつな牢の中で。

 今宵ガッシュが夢想したのは、部屋の壁いっぱいに広がった無数の口。壁や天井は人の血肉の様に真っ赤に変化して、血液を滴らせながら、ぐにゃぐにゃと蠢動しゅんどうし、無数の大きな口を開いたり閉じたりしている。そして天井からは、部屋の半分も埋め尽くす程の巨大な肉塊の胴がうねり、地からは人の生首に手足の付いた異形の者が湧き出して、その手に禍々しいナイフやら斧やらを持っている。

 闇夜の中で、ガッシュの赤い瞳だけがそこにぼんやりと灯っていた。


「ひっ……! ヒィイアアアッ!!」


 夜の見廻りに来た看守が、ガッシュの居る牢を見た途端に、情けの無い声をあげて尻餅を着いた。


「……ん?」

「なな、なななんだそれは! その恐ろしい化け物達はな、な……っ!」


 訳もわからず振り返ったガッシュは、失禁して体を震わせる看守が、自分では無くこの部屋のあちらこちらに目をやって言葉を発している事に気が付く。


「まさか……見えるのか、こいつらが」


 ガッシュが言うと、天井の肉塊の胴がネジ切れて、這い出した化け物の一つ目が看守を見つめる。


「ヒヒヒィィっ! 誰カッ誰かァッ! 化け物! 一つ目の化け物が!!」


 狼狽する看守の目には、どうやらガッシュの夢想の光景が映っているらしかった。


 彼は自分自身でも訳がわからないまま、その異形の肉塊をもう一体、看守の居る通路へと出現させてみた。


「ぃいいばけも……化け物ぉぉおお!!」


 腰から剣を抜いて遮二無二振り回す看守に向かって、生首の異形が鉄格子を潜り抜けて襲い掛かった。


「イギィアッ!! 痛い! いたあぁあ!!」

「……どうなってやがる?」


 生首の兵がナイフで看守の足を刻むと、その通りに裂傷が現れて血を噴き出した。頭にかじりつくと、歯形を残して肉を噛み千切る。


「あ……あぁ……化け…………」


 体中から血を噴き出しながら、看守はあぶくを吹いて倒れた。


「マジかよ……俺の夢が、夢想が……現実になりやがった」


 それがガッシュの異能力『げん』の発現であった。


 ガッシュはそれから、一つ目の異形に鉄格子を殴らせてみたが、すり抜けて壊すことは出来なかった。

 どうやら姿形は変えられど、人間以外の物質には干渉する事は出来ないらしい。

 彼自信はその時理解していなかったが、それはガッシュのこの『幻』という能力が、一定の範囲内に居る対象のをコントロールする事が出来るという能力であったが為に、知覚の無い物質には能力が及ばないのであった。

 つまりガッシュの『幻』で現れた異形は全てであるが、知覚をコントロールし、範囲内の対象には現実と変わらぬ程のリアリティを与える事が出来、その結果と称しても何の相違も無いものとなっていたのだった。


 ガッシュは、鉄格子に背を預けた格好で倒れた看守の懐をまさぐると、そこから牢の鍵を取り出す。


 そして牢を出たが、直ぐに他の看守達が棒切れを持って現れた。先程の看守の悲鳴が聞こえていたのだろう。完全に臨戦態勢だったが――


「ぁあぁああ!! ばけも化け物! 寄るなぁああ!」


「アヒッ……アハァアッ!」


 自らの能力に歓喜するガッシュ。


「何だこれはなんなんだこれはぁあっっ!! うわあああ!!」

「アァッーーハハハハ!!」


 民を殺す事の出来る能力に、愉悦の声が止めどなく溢れた。


「あ……あ……」

「ァアー! ッッハハハハハ!! ァーーッハ! アッハハハハハハ!!」


 錯乱して仲間も何も滅多打ちにしようとする者、正気を失う者、命を諦める者……看守はガッシュにとって、ただの玩具にしかならなかった。


 爛々らんらんと赤い右目を光らせるガッシュは、産まれてこのかた感じた事もないえつに入って、血を浴びながら笑い、自らの作り出した地獄の最中を駆け抜けた。


 ガッシュの生に光が射した。それはまるで、くびきから解き放たれた獣の様子であった。


 難なく地下牢を出たガッシュは、闇夜に紛れて屋根を移り、貧民街へと消えていった。平和な都の夜を、下品な笑い声で切り裂きながら。



 その後、貧民街にて殺しという快楽に身を落とすガッシュだったが、都の兵は一向に彼を捕らえようとはしなかった。

 前述した通り、その理由は賢くないガッシュにも察しがついていた。故に殺しはペースを守り、都の民には手を出す事は無かった。


 貧民街の民達にとって、ガッシュはただの災禍と化した。

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