【水鏡短編】針仕事
「あれっ?」
土方の袴を畳んでいて、伊織はふと手を止めた。
袴の裾が綻びている。
「土方さん、ここ、綻びちゃってますよ?」
文机に向かっていそいそと書簡を認める土方に声をかける。
が、土方はどうやら多忙の極みにある様子で、文を折り畳むと慌ただしく立ち上がり、部屋を出ようとする。
「お出かけですか?」
「あぁ、少しな。すぐに戻る。袴綻びてんだったら、悪ぃが繕っといてくれ」
それだけ言い置くと、土方はさっさと出かけて行ってしまった。
仕方なく、伊織は裁縫に取りかかり始めた。
(……綻びてるなんて言わなきゃ良かったなー)
裁縫など細々したことは大の苦手だった。
こういうことは寧ろ土方のほうが巧いし、仕上がりも伊織とは雲泥の差だ。
それでも頼まれたからには形だけでも繕っておかなければ、と思い、伊織は覚束ない手で針に糸を通す。
二、三度失敗した後、やっと糸が通り、袴の裾を一針、もう一針とゆっくり修繕していく。
そして三針目を縫いかかろうとして、いきなり副長室の襖が騒々しく開けられた。
「伊織ッ!! 久しぶりだな!!」
「痛ァーーーーーーッ!!!」
集中していたところに大きな声を出されて、伊織は自らの指を刺してしまった。
咄嗟に左の人差し指を口に含んで、声の主をギリッと睨みつける。
「佐々木さん!!! 痛いじゃないですか!! しかも昨日会ったばかりで、何が久しいんですよ!?」
「一晩離れているのは辛いことだぞ、覚えておけ! それより、どうした? 怪我でもしたか?」
相変わらずの暴走発言の後、佐々木は表情をがらりと変え、心配そうに伊織の傍らに膝をつく。
「針刺しちゃったんですよ! どうしてくれるんですか!!」
伊織は怒り任せに佐々木を怒鳴りつけ、まだじんわりと血の滲む指を突きつけた。
すると佐々木はおもむろにその指を口に含み、滲んだ血を舐めとる。
「ぐわッ!?」
伊織がぎょっとして指を引き抜こうとすると、佐々木がその手を掴み止めた。
「こうしておけばすぐに治るぞ?」
「やめてください!!!」
鳥肌が立ち、伊織が涙目になりながら叫んでも、佐々木はじっと目を合わせたまま手を放そうとしない。
そればかりか、ふふふ、と曰くありげな含み笑いを始める。
「良いではないか、良いではないか」
どこぞの悪代官のような口調で迫り来る佐々木を、伊織は思い余って蹴り跳ばした。
「本当に勘弁してください!!!!」
「い、痛いではないかっ!! 私なりの愛情表現だぞ!?」
伊織の蹴りを食らった腹部を押さえ、佐々木は痛みに目を潤ませる。
伊織はその場で仁王立ちになると、糸の通ったままの縫い針を構え、佐々木を見下ろした。
「邪魔をするなら、その口、今すぐ縫い合わせるぞ!!!」
逆光で陰を帯びた伊織の顔で、その目がぎらりと閃光を放つ。
「うっ、……す、すまん。私が悪かった。どうぞお仕事を続けて下さい……!」
戦慄の光景を目の当たりにし、佐々木は思わず敬語を用いる。
「まったく。いても構いませんが、危ないですからおとなしくしててくださいよ?」
佐々木にきっちりと言いつけて、伊織は再び土方の袴を手に取った。
***
ちくちくと懸命に針を通していく伊織の姿を、佐々木は無言でじっと見つめる。
(……目も縫い合わせたろか)
執拗な佐々木の視線に辟易して、ふとそんな考えも浮かんだが、一応おとなしくしているので、伊織は敢えて無視した。
「…………」
「…………」
黙々と作業する伊織の横で、佐々木がぽつり、と呟いた。
「若妻……」
ぶちっと頭の中で何かが切れる音がして、伊織は手を止めた。
「たいがいにしろよ、おっさん!!」
「ぬぅっ! 誰がおっさんだ!!? あなたと呼べ、あなたと!!」
「もういい、帰れ!!」
「それは酷いぞ! おとなしくしているではないか!?」
「いるだけで邪魔だ!! 帰らないなら仕事代われ!!」
互いに暫し怒鳴り合い、結果、佐々木が針仕事を代わることで激しい口論は幕を閉じた。
「さあ、土方さんが戻ってくるまでに、しっかり仕上げてくださいよ?」
危なっかしく針を持つ佐々木の手元を監視しながら、伊織は厳然たる態度で命ずる。
佐々木はもたもたと慣れぬ手つきで一針ずつ続きを縫う。
素直に帰ればいいのに、とは思うが、背中を丸めた佐々木の姿はそうそう拝めるものではない。懸命に針を運ぶ様子は子供のように直向きで、見ようによっては可愛らしささえあった。
「あっ痛ッ!」
「あーぁ、気をつけてくださいよ?」
手元が狂って、ぷっすりと針を指に刺してしまったらしい。
佐々木はくるりと伊織を振り返った。
「伊織……、血が出た」
針を刺した指を見せつけるように差し出し、佐々木は何か言いたげな眼差しを向ける。
「袴に血ィつけないでくださいね。土方さん絶対嫌がりますから」
佐々木がその何かを言う前に、伊織は先手を打ってさらりと流す。
それでも佐々木はめげずに、小犬のような目で伊織に訴えかけた。
「あぁ、痛いなぁ……、死ぬかもしれない……」
(そんなんで死んじゃうのかよ!?)
という叫びは内心に押し留め、伊織はやおら太刀に手をかけた。
「介錯しましょうか?」
「……いや、それには及ばぬ。思ったより傷は浅かったようだ」
伊織の目が真剣なのを見て取ると、佐々木はまた作業に戻る。
今度こそ本当に諦めたらしく、佐々木はしおしおと溜め息をつきながらも、やがて繕い物を完成させたのだった。
***
「へー。佐々木さん、結構お上手なんですねぇ!」
仕上がりを確認しながら、伊織は歓声を上げた。
思ったよりも綺麗な出来映えで、本心からの褒め言葉だ。
「すごく綺麗に出来てますよ! ちょっと見直しました!」
「そうだろう!? 頑張ったからな!!」
「ふふふ、お疲れさまでした」
それだけ言って佐々木を労うと、伊織は手早く袴を畳んで片付けに入る。
「あー……、それでだな、伊織?」
まだ何か言いたそうな佐々木に呼ばれ、伊織は振り向く。
「はい? 何でしょう?」
「……いや、その……」
「? ……何ですか」
耳まで真っ赤になって俯き、なかなか用件を口にしない佐々木。
伊織は何となく良からぬ気配を察知する。
「だからその……、ほ、褒美の一つくらい、あっても良いと思うのだがっ!」
「えぇー……、ご褒美ですか?」
やはりそう来たか、と思いつつも、確かに自分がやるよりも綺麗に仕上げてくれた事実を考えれば、礼の一つもあって良いかもしれないと思う。
しかし、何をあげれば良いやら。
暫時考え込み、伊織はピンと閃いた。
(そうだ! 昨日のカステラがまだ残ってたはずだ。食べかけだけど、あれでいいや、佐々木さんだし)
期待に胸を膨らませる佐々木に微かな笑みを返し、伊織は立ち上がった。
「わかりました。差し上げますよ、ご褒美」
「何ッ!? 本当か、伊織!!! ならば……ッ!!」
と、佐々木は座ったまま顔を上向けて、おもむろに目を閉じる。
(うわ!? 何をどう誤解してんだよ?!)
伊織が本日二度目の鳥肌を立てたまさにその時、副長室に蒔田他見廻組隊士数名が押し入った。
「佐々木!! いい加減に仕事をせぬか!!! このうつけ者めが!!!」
「ぬぬっ! 蒔田!! すまぬ、今暫し待っ……」
「今日という今日は滞った務めを果たしてもらうぞ!!」
「しかしまだ……」
「問答無用!!! 皆、佐々木を引っ立てい!!!」
蒔田の一声で、控えていた隊士たちが一斉に佐々木に襲いかかる。
伊織はただただその様子を見守った。別に佐々木を助ける必要はないし、むしろ早く帰って欲しいくらいだ。
「蒔田さんも大変ですね」
「おお、伊織か。お主にも度々迷惑をかけて済まないな」
「いいえー、蒔田さんのご苦労に比べれば、何のことはありませんよ」
伊織と蒔田が互いの苦労を労い合ううちに、佐々木は身柄を拘束されていた。
「ま、待て!! まだ褒美の接吻が……ッ!」
往生際悪く、佐々木は副長室の外へと引きずられながらも抵抗をやめない。
(やっぱりそういう誤解だったか……)
呆れつつ、伊織は蒔田に早く連れ帰るように合図する。
蒔田はそれに神妙な顔で頷くと、さっさと佐々木を連れて新選組屯所を出ていった。
「無念!!! だが、すぐにまた参上仕る!! 待っておれ、伊織ーーーーーッ!!!」
(……もう来んな)
***
佐々木が見廻組に強制送還された後、間もなくして土方が帰った。
「あ、土方さん、お帰りなさい。袴、ちゃんと出来てますよ!」
「ああ、悪いな、助かる」
伊織はいそいそと先ほど仕舞い込んだ袴をもう一度引っ張り出し、土方の前に広げてみせた。
「ふん。なかなか巧く出来てんじゃねえか」
珍しく感心した風な表情の土方が、がしっと伊織の頭に手を乗せて、二、三度撫でる。
「そうでしょう!? 実はこれ、佐……」
「よし! じゃあ、褒美に菓子でも買ってやろう。出かけるか!」
真相を話そうとした伊織だったが、土方が機嫌良く遮ったものだから、それ以上は何も言わないことにした。
「それじゃ、大福がいいなぁー!」
「……ったく。菓子ぐれぇで喜んでるようじゃ、おめぇもまだまだガキだな」
呆れ半分で笑う土方に、伊織は無邪気に笑顔を返す。さっきまでの佐々木に対する態度とは天と地ほどの差だ。
「違いますよ! 土方さんとお出かけっていうのが嬉しいんです!」
「あー、そうかよ。だったら早く行くぞ、支度しろ」
その三日後、未だ滞った仕事の片付かない佐々木から、伊織宛には恋文が、土方宛には不幸の手紙が届いたという。
【終】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます