八十七 翠令、姫宮の凱旋に従う(一)
竹の宮の姫君が見事に関契を盗み出して──いや、今上帝の黙認があるのだから「持ち出して」と表現するべきであろう──その三か月後。
翠令があの夜から昭陽舎に留まっていたのは数日。ほとぼりを醒めた頃を見計らって、京の御所から錦濤に向かった。何も事情をご存知ない姫宮に少しでも早く事態が動いていることをお聞かせしたい。そう思って馬を懸命に走らせた。
姫宮は、ご自分が育った翠令の父邸でお過ごしだった。翠令が到着するやいなや奥から門まで駆けだしておいでになったが、もともとご自分用に誂えられた燕服の袖も裾も短くなっている。姫宮は、京の御所に上がって幾月かでぐっと背丈がお伸びになられていた。
それに──子供らしいふっくらとした頬も、しばらく見ないうちに随分とほっそりとしたものになっていらっしゃる。
「姫宮……お痩せになられましたか?」
久しぶりの対面で翠令の口から真っ先に出たのがその質問だったが、それには姫宮が悲鳴のような声を上げられた。
「何を言っているの、翠令! 翠令こそ随分やつれているわ! どうしたの、何があったの?」
「ええと……」
「私が痩せて見えるんなら、それは年齢がそうだからよ。私はもう十歳を超えているのよ? 子どもはいつまでも赤ん坊みたいに丸々ぷくぷくしてるわけじゃないわ。そんなことより、翠令はどうしてそんなにやつれてしまったの? 教えて!」
姫宮の矢継ぎ早の質問に答えるような形で、翠令は経緯を説明申し上げた。
竹の宮の姫君にお会いし、佳卓に策を授かりに東国まで旅をしたこと。その策を持ち帰り、竹の宮の姫君が見事に関契を持ち出したこと。そして、いずれ佳卓が軍勢を率いて円偉の企みを挫くだろうということも。
翠令は明るい結末をお話したつもりだが、姫宮は翠令が疲労と高熱で命を落としかけたことの方が衝撃であられたらしい。
眉根が寄せられ、その目にはみるみるうちに涙が溜まっていく。幼い頃、姫宮がこのような顔をなさると、そのまま翠令に抱き付いてこられたものだが……。
背丈も伸び、大人びた顔立ちになられた姫宮はもう翠令に抱き付くことはなかった。ぎゅっと拳を握られ、そして、絞り出すようにおっしゃる。
「ごめんなさい……ごめんなさいね、翠令。本当にごめんなさい」
「姫宮⁈ いったい何を謝っておいでなのです?」
「翠令をそんな危険な目に遭わせてしまって……」
「私は私の判断で動いただけですし……。そもそも此度のことの根本的な原因は円偉にあります」
「でも……私が円偉を怒らせてしまったから……」
「ご説明申し上げましたように、円偉が事を起こした原因は姫宮への悪感情だけではありません。背景に竹の宮の姫君への一方的な恋情があり、そして何より根底には佳卓様への歪んだ独占欲があってのことです。姫宮はきっかけに過ぎません」
けれど姫宮は首を振られた。
「きっかけになることがなければ、翠令だって危ないことをしなくて済んだわ」
「私は無事です。ご覧のとおり」
「結果論よ……。もし、翠令に万一のことがあったら……私……」
姫宮は青ざめた唇を噛みしめ、ぶるりと身を震わせ、再度繰り返された。
「ごめんなさい……」
「姫宮……」
そのおよそ一月後、京の都から
真名で書かれたその文を姫宮がご一読なされ、そして深々とため息をつかれた。
次に「佳卓は無事よ、翠令」とおっしゃいながら、翠令にその紙を渡して下さる。
書面の冒頭に、佳卓が東国から軍勢を率いて無事に都に戻り、円偉を交渉の場に引きずり出すことに成功したことが書かれていた。
ただ、円偉とのやり取りは交渉と言う形にはなり得なかったらしい。円偉は終始、佳卓に向かって「貴方がなぜこんなことをなさるのか理解できない」「すべては貴方のためなのに」と掻き口説いていたという。
そして──どうあっても佳卓が自分を容れないと悟った円偉は自邸に引きこもり火を放った。亡骸は未だに見つかっていない。
また、佳卓は犠牲を最小限にしようとしたが、一連の経緯で小競り合いとなる場面は皆無では済まず、何人かが命を落としたそうだった。
それを知った姫宮の顔は青ざめ、顔を強張らせていらっしゃる。
翠令は騎射の時を思い出した。弓は人を殺める道具、為政者は人を死なせることもある。その現実をつきつけられた姫宮は、泣き出しそうになり、そして翠令に抱き付いてこられたものだ。
今の姫宮の顔色も蒼白であり、そのお声も震えている。けれども、しっかりとした口調で使者に対して「お使い、ありがとう。ゆっくり休んでね」と
そして、やはり、以前と違って翠令に抱き付いてこられることはなかった。
それが翠令には心配でたまらない。姫宮が一人で不安や恐怖を抱え込まれて大丈夫だろうか……。
乳母に相談してみたところ、乳母は少し思案してから答えた。
「京を追われた船の中では随分沈み込んでいらっしゃいましてねえ……。その時に比べれば、今はどちらかといえば物思いに耽っているという感じで、悪いことばかりじゃないように思いますよ」
「でも、以前の姫宮はもっと無邪気な方であられた……」
乳母は笑う。
「そりゃあ、姫宮は子どもから大人におなりあそばす真っ最中でございますよ? 思い悩んだりしながら少しずつしっかりなされていくお年頃です。だんだん幼さが抜けていくのが当然のこと。翠令殿もそうお心得なさいまし」
「でも……」
「やれやれ。姫宮の守刀はいつまでも心配性でいらっしゃる」
最後は翠令の方がたしなめられて終わってしまった。
姫宮は常にどことなく憂い顔でいらっしゃり、そのことに翠令が戸惑う一方で、錦濤の街は素直に喜びに沸き立っていた。姫宮の再度の上京に合わせて、商人たちは豪華な品々を姫君にお贈り申し上げる。そして、前回と同じく、貴き姫宮のご出立に際しては、港の全ての船が帆を下げるという最敬礼でもってお見送り差し上げたのだった。
遠ざかる錦濤の街を船べりから見つめ続けていらっしゃる姫宮に、翠令がお尋ね申し上げる。
「やはり今日の港も寂しゅうございましたか?」
姫宮は物思いから醒めて、少しきょとんとした顔でお返事なされた。
「ええと……寂しいって、何が?」
「前に錦濤港から出立なさった時、いつも賑やかな錦濤の街がひっそり静まり返っていて寂しいとお感じでいらしたでしょう?」
「ああ……」
錦濤の街の血潮のようなざわめきが聞こえない、その粛然としたさまを、翠令も姫宮も寂しいと感じた。それを姫宮は思い出し、苦笑なされた。
「あの時の私は本当に子供だったのね。東宮になるのだから、厳粛に送り出されるのが当然だったのに。私は自分の立場の重みをよく分かっていなかった……。だから……京の都で上手くやれなかったのね……」
翠令は顔を曇らせて首を振った。
「円偉のことなら以前も申し上げました。姫宮に責はありません。気に病まれることはないのです」
「……」
しばらくの無言のあと、姫宮はぽつりと口にされた。
「京の、あの御所に円偉はもういないのね……」
「ええ、姫宮を廃そうとした輩など、もうこの世におりません」
姫宮は「ううん、そういうことじゃないの……」と首を振られた。
「何もかもが解決したからかもしれないけれど、今の私は円偉にそんなに悪い感情は持っていないの。円偉の方はともかく、私は円偉を心底嫌いになったわけじゃない……。そんな強い感情を持つほど交流を深める前にお付き合いが無くなってしまったから……」
翠令もそれは分かる気がする。全てはあの男の胸の内だ。勝手に怒り、そして──。
「姫宮を自分と対等に対話できる相手ではないと一方的に斬り捨てたのですから、当然です。竹の宮の姫君についても佳卓様についても、あの男は自分の中だけで自分に都合の良い幻想を育て、そしてそれを相手に押し付けようとして上手く行かなかった。それだけです」
「……」
「多分、竹の宮の姫君も佳卓様も姫宮と同じようなご感想だと思います」
姫宮は首を傾げられた。
「同じような……って?」
「円偉が憤怒にかられたほどには、竹の宮の姫君も佳卓様も、そして姫宮も円偉に強い感情をお持ちになることはない、ということです」
愛情の反対は憎しみではなく無関心だという。
「そこが、あの男の哀れとも滑稽ともいうべきところかと。彼の最期は単なる自滅と表現するべきでしょう」
姫宮が目を見開いて呟かれた。
「辛辣ね……」
「……」
「だけど、翠令は酷い目に遭わされたもの……そう思うのが当然ね……」
翠令は顔をしかめて頷いた。
その翠令の憤りを否定しないように気を使うお顔で、姫宮はお続けになった。
「でもね……翠令」
「はい」
「円偉もまた私の臣下だったわ」
「……」
翠令には思いがけない発想だった。
「学識豊かで、その名のとおり円満な人柄でもあったのでしょう? あのようなことにならずに、その学才を活かせてあげたかったように思う……」
されど……と反論したい気持ちがあるが、翠令にはどう言っていいのか分からない。
「『仲良くしなきゃ』と思いながら、同じ御所で何度も顔を合わせた相手がもう同じ世を生きていないというのが奇妙に思われもするし、何らかの能力があったのに使いこなせなくて残念だと思う」
「それは姫宮には責のないことです」
「翠令は私のせいじゃないって言ってくれるし、その言われて確かに私は救われた気分になれるのだけど。──でも……やっぱり、私がもう少し慎重であれば色んなことが防げたのではないかしら……」
「色んなこと……」
「叔母上様も、折角白狼とご静養中だったのに、あの後に忌まわしい記憶の残る御所に連れ戻されることになって……。とてもお淑やかにお育ちになったはずの叔母上様が、関契を手に、弓矢も使われるような緊迫した場面をご自身の脚で逃げ出されるなんて……。おみ足の骨を折ってしまわれて、どんなに、怖く、そして痛い思いをなさっただろうかと……」
「……」
「白狼もそうよ。自分の好きな女君がこうも危険な目に遭うことになって辛かったでしょうに。姪のために懸命になって下さった叔母上様の脚の手当をしながら、彼は何を思っているかしら」
「それから誰よりも……翠令」
姫宮は両手で翠令の手を取った。幼い子供が手を繋ごうと大人の手を求める仕草ではない。実際、姫宮はもう翠令の胸くらいの背丈になられた。そして、その動作は相手を気遣うものだ。
「東国まで慣れない山道を歩いて、疲労と病で命を失いかけたと聞いた時には、本当に本当に怖かった……。今だって……思い出すたびに背筋が凍る思いがする。自分のせいで翠令が死んでしまっていたら……円偉と同じように二度と会えないなんてことになっていたら……」
姫宮はぐっと手の力を強くする。
「ごめんね、翠令」
「ですから、それは姫宮のせいではありません。何度も申し上げておりますが……」
「そうね、何度も蒸し返して謝っているのはただの自己満足だって私も分かってる。何度謝っても謝り切れないけれど……、その気持ちをこれからに向ける」
翠令、と言う声はとても大人っぽい声だった。
「これからは翠令たち、自分に仕えてくれる人々をきちんと守れるように……そんな主公になりたい。そう思ってる」
「……」
翠令はふうっと息を吐いて姫宮の御手を握り返した。
よい主公になりたいとおっしゃっても、今の姫宮に具体的にこうだという像はおありではないだろう。むしろ、今は臣下に背かれて自信を無くした状態であられる。この時点で将来の抱負を語るのは、いささか空元気のようにも感じられる。
けれども……。姫宮と翠令は手を離した。
それでも人は前を向いて歩くよりない。そして、この先、姫宮が歩まれるのは理想の君子となる道だ。一介の武人に過ぎない翠令には、そのお悩みを理解して差し上げることができない。
──騎射の夜。佳卓から君子であることの厳しさを聞かされた夜。あの時も似たようなことを思った。
政をどう執り行うのかなどという高度な問題はいずれ、ただの女武人に過ぎない翠令の手に余るようになる。姫宮が翠令に甘えてこられ、翠令がそれに応えて差し上げる年月ももうすぐ終わる……。
翠令は故郷の錦濤とは反対の河上、京の都を見つめた。佳卓をはじめとする人々。姫宮はこういった人々の中で、理想の君子の在り方を模索していかれるのだろう。
──佳卓様……。
佳卓もまた国の中枢を担う貴人だった。いずれその重いお立場に相応しい結婚をなさる日も来る。
姫宮は手を離れ、佳卓には手が届かない。そう思うと翠令の胸に押しつぶされそうな寂寥感がこみ上げてくる。
だが、翠令は首を振ってそれを振り払う。
──いつかはお別れするなら、それまで悔いの残らないように努めるべきだ
錦濤の姫宮の守刀、女武人・翠令が闘うべき敵は、当面は武器を持った賊ではなく、己の胸の中の孤独感であるらしい。
そして、これまでそうしてきたように、女武人翠令は戦うべき敵と戦ってそれを退けていくだけのことだった。
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