七十七 翠令、策を授けられる

 まるで野分の夜が明けたようだ──浅い眠りから覚めた翠令はそう感じた。まだ日が昇らぬ仄白ほのじろい空気の中、意識が少しずつ明瞭になっていく。


 昨夜は心にも身体にも嵐が吹き荒れて行ったような気がした。自分が自分でいられなくなるほど目くるめく甘くて快い波に何度攫われたことだろう。

 心地よい倦怠感に包まれながら、翠令はぼんやりと開けた目を、隣にいるはずの佳卓かたくに向けた。


 その視線の先、彼女の顔のすぐ傍で佳卓が天井を睨んでいる。間近で見ると、本当に良く整った美しい顔だと改めて思う。


 ──しかし、今。彼の表情には迂闊に声を掛けられないほど尖った気配が漂っていた。


 翠令は哀しみを覚えながら、おずおずと問いかける。


「後悔しておいでですか?」


 佳卓がすっと翠令に顔を向けた。


「うん……そうだね……」


 翠令は胸が潰れる思いだ。佳卓自身がいくら女性に誠実でありたいと願っても、左大臣家の貴公子と商家の娘に過ぎない自分とでは身分のつり合いが全く取れていない。感情の昂るままに結ばれても先のない恋だった。


「私のことはどうかお気遣いなさいませんよう。昨夜の一度限りの関係でも、私に後悔などありません。一生の思い出でございます」


 佳卓は翠令にがばりと身を向けた。


「なんだって?」


 翠令は彼の目を見ていられず、彼の鎖骨の辺りに視線を彷徨わせる。細身ながら綺麗に筋肉のついた若々しい身体の美しさを惜しんでいると、視界の隅で佳卓の咽喉が再びごくりと動いた。


「いったい何の話だ?」


「とても美しい思い出です。ありがとうございました」


「待て待て待て待て!」


 佳卓は肘をついて勢いよく上半身を起こした。そして翠令をまじまじと見つめる。


「翠令は何を言っているんだ?」


「……」


「ひょっとして……翠令は……私が貴女と夜を過ごしたことを後悔しているとでも勘違いしているのか?」


 それ以外に何があるのかと翠令は思う。


「だって……。後悔なさっているかお尋ねしたら、『ああ』とお答えでしたでしょう……」


 佳卓はぱっと体を持ち上げて褥の上に胡坐をかいて座った。


「そうじゃない! とにかく違う! 違うんだ!」


 佳卓は両手で頭を抱え、髪をわしわしと搔きむしった後、一息ついて後ろに撫でつける。東国風に首の後ろで一つに結わえられただけだった髪は、翠令との一夜に寝乱れて顔に纏わりついていた。


「翠令と朝を迎えられることは私にとって喜びだし、これからだって、ずっと二人でこうしていたい。……だから……後悔しているんだ。ただし、それは別件だ」


「はあ……?」


 佳卓は小さく息を吐き、傍らの敷布を腰に巻いて呼吸を整えてから話し始めた。


「いや。恋人と夜を明かしたというのに、私が全く甘やかな顔をしていないものだから、それで不審に思ったんだろう。悪かった」


「いえ……」と言いながら翠令もかけ布を胸に当てながら、身を起こして佳卓の前に座る。


「では、何に後悔なさっていらしたのです?」


 佳卓は目を瞑って唸った。


「策を思いついた」


「策?」


「……円偉を排し、姫君を白狼の元に解放し、姫宮を京に呼び戻せるための方策だ」


 翠令の口から歓喜の余り思わず高い声が上がる。


「佳卓様……!」


 だが、佳卓は首を横に振った。


「そんな顔を輝かせてもらえるようなものじゃない。ろくでもない策なんだ。なんで私はこんなことを思いついてしまったんだろうと思う」


「……」


「もっといい案が他にないかとさっきから考えているんだが……。一度一つの案を思いついてしまうと、それが邪魔をするので他の案が出てこない。さっきから困っている。だから、こんな策を考え付くんじゃなかったと後悔しているところなんだ……」


「どんな策なのですか?」


 佳卓は天を仰いだ。


「ほんっとうに、ろくでもないものなんだよ……」


「伺わせてください」


「他にまともな策はないかとずっと探している……」


「ですが……」


「こんな策を思いついたことを後悔しているんだ……」


「佳卓様、まどろこしいです。とにかくその策を教えて下さい」


 佳卓は軽く両手を挙げる。


「分かった。言う。頼むからそんな低い声で脅さないでくれ……」


 その策を翠令に説明する間も、しょっちゅう佳卓は先を言い淀む。翠令が苛立たしい思いでいると、それが顔に出ていたらしい。


「翠令、睨むのは止めてくれ。この期に及んでまで翠令から隠そうとしている訳じゃない。なんとか計画を少しでもに出来ないか、考えながら喋っているだけだ」


 確かに、内容が明らかになるにつれ、その策があまりにも大胆であり、実行するには相当な胆力が要る話だと翠令にも分かってきた。


「これは……奇計ですね……」


 全体像を聞き終えた翠令は、深々と感嘆したとも呆れたともつかない声をだす。


「これほどの奇策を思いつくことが可能なのは佳卓様だけでしょう。これなら一気に状況をひっくり返すことができます」


 佳卓の立てた策は、不鹿の関所を通過するために「関契」を手に入れるというものだった。固関がなされた関も関契さえあれば開関できる。そうすれば、佳卓が集めた軍勢を穏便に通すことができる。


 朝廷の兵と正面切って争うことなく、円偉を交渉の場に引きずり出す。もうあの男の勝手にはできない。錦濤の姫宮と竹の宮の姫君、白狼、それから趙元たち近衛の麾下たちを苦境から救い、そして民のための朝廷を整えることができるようになる。


「上手くいけば素晴らしい……」


 佳卓は浮かない表情を変えない。


「成功すれば……ね。この策は最善でもあり、最悪でもある」


「関契を持ち出すことが難しいとは承知しております」


 内裏にあるものは全て帝の御物。例え扇一つであろうと外に持ち出すことはできない。ましてや、関契は朝廷の変事に関所を開けたり閉めたりするための重要な品である。古くは蔵司で保管され、今は帝のおわす清涼殿に収められている。


「されど、佳卓様の奇想天外な策なら不可能が可能となるでしょう。関契を手に入れることも──」


「私の策は一種の詐術だ。誰もが『こんなことは起こり得ない』と信じ込んでいる思い込みを利用する。だから一度しか試みることはできない。二度はない」


 翠令も表情を引き締める。そうだ、失敗はできない。


「何としても一度で成功させなければならない。そのためには、竹の宮の姫君をはじめ、実際に動く人々に計画の細部を正確に理解してもらわなければならない。だから……翠令に伝言を頼むしかない……」


「はい」


 何のためらいもなくきっぱりと応じた翠令に、佳卓は苦しそうな顔をして、頭をぼりぼりと掻きむしった。


「そんなに簡単に『はい』と引き受けないでくれ……」


「でも……私がその役割を引き受けなければ……」


「貴女は病み上がりだ。そんな身体で再び京まで旅をしなくてはならないんだぞ……」


 佳卓は一度立ち上がり、部屋の片隅に用意していた翠令の新しい衣を手に取ると、座ったままの翠令の前に腰を下ろして丁寧に着付けてくれる。


「翠令は疲労がまだ取れていないだろう……高熱からの回復にももっと時間が要る」


 佳卓は次に自分の衣を肩から羽織りながら、「京に到着してからだって翠令は大変だ」と眉根を寄せる。


「今でも翠令はお尋ね者で、帰京がばれたら捕らえられてしまうだろう。しかも、翠令は、今度は極秘の計略に関わっている。ことが明るみに出れば、翠令が更に重い罪に問われるのは必定だ」


「それでも私が使者に立つべきです。他に手段はありますまい。佳卓様の策を書面で送ろうとして途中で誰かに奪われでもしたら、そこで全てが灰燼に帰します。他に使者が務まる者もいないでしょう。佳卓様だけでなく、伝言を受け取る竹の宮の姫君にも信頼されていなくてははなりませんから」


「だが……」


「それに、竹の宮の姫君には子細を最も正確にお伝えしなければなりません。人伝ではなく、直接お会いするべきです。私であれば女装ができますから、竹の宮の姫君にも御簾内で対面できます。他の者ではそうはいきません」


「……」


「つまり、私以外に適任者はいないのです」


 佳卓は悲しげだ。


「翠令、私は貴女の恋人なんだよ? 心配でたまらないし、それに私の傍にいて欲しい」


 その言葉が嬉しくないわけではない。けれど……。


「佳卓様、ここで情に流されるべきではありません」


「愛おしい女君を危険に晒したい男なんて、いるわけがないだろう……」


 それも佳卓の真情だとは思う。けれども、佳卓も翠令もすべきことはなさねばならない。


「佳卓様、ご自分でも心の底ではお分かりのはずです。この策しかないのなら、私を京の竹の宮の姫君への使者として送り出さねばなりません。それも早々に。感傷に浸っている時間はないのです」


「わかってるよ。でも、嫌なんだ……」


「四の五の言っている場合ではありません」


「でもね……」


 佳卓様、と翠令は言葉を改める。


「私を愛おしんで下さること、よく分かりました。でも、貴方様はいかに恋人に誠実であろうとしても、恋人との時間に溺れて他の人々を忘れてしまわれる方ではないはずです」


「……」


 佳卓は瞑目してから目を開けた。そこには人の奥を見透かす鋭い光があった。


「それを言うなら、翠令の方こそそうじゃないのか」


 その低い声にはどことなく哀し気な響きもあったが、ぐっと真剣なものだった。


「翠令だって、私とどんなに甘い時間を過ごそうと、姫宮をはじめとする他の人々を忘れることはない」


 翠令もまた短く「無論です」と返す。


「皆が助けを待っています。姫宮も、そして私が京で知り合った方々も、そして民も……。助けを求められて応じない武人など、刀を手に取る価値がありません」


「分かっている……」


「私は姫宮の守刀の女武人であるがゆえに、京に上ることになりました。姫宮が東宮となられた以上、私もその朝廷に微力を尽くします。そして、このような立場だからこそ私は近衛大将の佳卓様とも知り合うことができたのです。姫宮をお守り申し上げる女武人でなければ佳卓様に出会うこともなく、佳卓様が私にお気をとめることもなかった……」


 これからもそうです、と翠令は決然とした声を出す。


「女武人であることと、佳卓様の想い人であることは切り離せるものではありません」


 翠令は佳卓をキッと睨み据えた。


「近衛の一人としても申し上げます。麾下を適切に使えないような無能な上官など、男君としても何の魅力もありません」


「言うね……」


 佳卓は右手を額に置き、半ば呆けたように呟いて見せた。それから肩を上下させて大袈裟なほどに息を吐く。


「なんで恋人に甘い言葉もろくに与えてくれないのに、そういう威勢のいい啖呵だけはすらすら思いつくんだ?」


 翠令ははぐらかされることなく、毅然と言い切る。


「ご命令を」


 佳卓はごくりと唾を飲み込み、少し顔を背けて外を見やる。庭らしい庭も整えられていない無骨な光景を、雲一つない夜空が覆っている。きらきらと瞬く星辰を佳卓はじっと見つめていた。


 進むべき道は分かっている。けれど、危険は大きい。ここで翠令に京に戻れと命令することは、一生遭えなくなる可能性もあることだった。


 翠令は早く佳卓に命を下して欲しいと思いながら、苦しそうな佳卓の横顔を見て気づいた。佳卓の迷いは自分の迷いだ。

 自分だって、命拾いをしたばかりで、すぐに再び危地に飛び込むのは正直怖い。

 だから、上官に命令して欲しいのだ。自分の心が挫けてしまわない内に。自分の中の怯懦と戦わなくても済むように。


 けれど──それは、佳卓に責任を押し付けているということでもある。そう思い至って翠令は佳卓に声を掛けようとした。自分の人生だ。自分の決断で動いてしまおう。いや、そうしなければ。


「翠令」


 佳卓が翠令に視線を戻した。翠令の惑いなど見透かしたように。

 彼の顔が変わっていた。──「その為人、鬼神の如し」と謳われる、近衛大将の顔に。


 将たるもの、麾下達の心の内を把握せねばそれを率いることなどできはしない。麾下たちの命運を引き受けて立つのが主の度量だ。それが、どんなにわが身の負担となろうとも、将はその時に必要な判断をただ端然と下すのみ。


「翠令に命じる。京に上り、竹の宮の姫君、それから兄上や朗風などにも必ず正確な計画を伝えろ」


 翠令は胸元を掻き合わせて居住まいを正した。


「はっ」 


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