七十二 翠令、倒れる
野分の翌日の未明、翠令は寒さで目が覚めた。寒くて寒くてたまらない。歯の根が合わないほど身体がガタガタと震える。
歯を食いしばって耐えているうちに辺りが明るくなってくる。だんだんと陽がのぼるその午前の空には雲一つない。
夏の終わりであっても、このような昼日中は秋の気配を押し返す勢いがある。木々の葉は青々と茂って、湿度を含んだ空気は今日も残暑が厳しくなりそうな予兆に満ちている。
それなのに、どうして自分だけが真冬の中にいるように寒いのか。
うすぼんやりした意識の中で、斬りつけられた傷の辺りが妙に痒いことに気が付く。見ると傷口は土を食んだまま化膿し始めていた。
──しまった……。
錦濤でも刀傷を創ることはあった。ただ、そのような時には姫宮の邸の誰かが強い酒を傷口に塗るなど手当てをしてくれていた。
今回の傷は、翠令がつい何もせずに放置してしまっている内にどうやら膿み始めてしまったらしい。そして発熱の前駆症状として悪寒がしているのだ。
翠令はともかく歩き始めた。身体はふわふわと軽いのに、背にした荷物が重く感じられて仕方ない。すぐには使わないものは置いていき、少し迷ったが竹筒の水も半分ほど捨てて中身を軽くした。
しかし、ほどなくしてそれを後悔することになってしまう。
──喉が渇いた……。
一度にたくさんは飲めないものの翠令は頻繁に水を飲み、そして手持ちの水はすぐに尽きてしまった。
かといって都合良く湧水に行き会う訳もなく、熱を帯びた身体に焼け付く喉を抱えてふらふらと街道を歩く。
どこかの村はずれに差し掛かったようで、二人の子供連れに出会った。十歳前後の兄弟のようだ。弟の方が首から竹筒をぶら下げていた。
──水だ。
翠令はこの旅で初めて自分から人に声を掛けた。
「悪いが、その水を分けてくれないか」
「……!」
「……!」
膝丈の粗末な服を着た男の子どもたちが口々に何かを叫ぶ。
「何も取り上げようという訳じゃない」
翠令は腰から小袋を外し、中から一枚の貨幣を出して小さい子どもの手に握らせた。けれども子どもだからなのか、この土地に貨幣を使う習慣がないからなのか、子どもは何の頓着もなくそれを放りだしてしまう。そして決して翠令に渡すまいと自分の竹筒を抱え込む。
翠令の朦朧とした意識では、もう、その竹筒しか目に入らない。なりふり構わず、ただその竹筒に腕を伸ばす。
「……済まない。だが、私はその水がないと……」
翠令がその子どもの肩に手を掛けた時。翠令の襟首が誰か背の高い者に掴まれ、そして子どもから引き剥されて地に放り出された。道端に倒れ込んだ翠令が見上げると、子どもたちの父親らしい男が何かの棒を振り上げていた。
心と体のどちらの衝撃が重かったのか。鈍い痛みと共に翠令は気を失った。
気が付いて瞼を開けると、空の底がほんのりと朱に染まっていた。自分は仰向けに寝かされているらしい。自分を覗き込んでいた二人の女が、翠令が意識を取り戻したのに気づいて何か声を上げた。
夕暮れで農作業を終えたらしい人々が集まって来る。翠令は身を起こしたいが鉛のように重い身体は少しも動かない。
「済まないが……身体がおかしいんだ……どうか手当してくれないか……頼む……」
集まってきた人々は口々に何かを喋る。だが、何を口にしているのか皆目分からない。けれども言葉が刺々しいものであることは分かる。その顔に怒りと嫌悪を浮かべていることも。
──ああ……。
ここで助けは得られないだろう。このまま衰弱するのが先か、それとも……。
熱は更に上がったらしい。
眠ることも起きることも出来ず、うつらうつらと途切れ途切れに夢を見た。
心は空白なまま、色鮮やかな光景が断片的に脈絡もなく脳裏を横切って行く。
華やかな色目の少女の衣装。艶やかな黒髪を切りそろえてあどけなくお笑いになる姫宮。
そうかと思えば、新緑の森の中で馬を駆る武者姿が思い浮かぶ。すうっと馬上で伸ばされた背筋、しなやかに弓を引くその指先。矢が的に的中するあの、澄み切った音。
佳卓の顔がふと浮かぶ。あれほど皮肉気な人物なのに、翠令が思い返す佳卓はどこかはにかんだ色を目に浮かべている。
なぜそのような顔をなさるのですかと彼女は幻の中の彼に問う。その返事は……いくら耳を澄ませても聞こえない。
ああ、姫宮が花のほころぶような明るい表情で自分を見上げなさる。くすくすと笑んでいらっしゃるのに、その声が……鈴を転がすように高く澄んだの愛らしい笑い声は耳に届かない。
目に映る色彩や遠くの音は明らかなのに、近くにあるはずの音が聞こえない。
──なぜ……。
自分の魂魄はこの身から離れつつあるのかもしれない。そうか、人の命とはこのように消えてしまうものなのかと翠令はどこか他人事のように感じていた。
そんな翠令の耳に異質な音が突き刺さるように飛び込んできた。
「お、何か言ってるな」
翠令にも分かる言葉だ。翠令は眉間に力を入れて瞼をこじ開けた。
農民たちに並んで、小役人と思しき男が翠令を覗き込んでいた。辺りはすっかり暗く、その男が手に持つ松明が自分を照らしている。相変わらず翠令は野晒しに寝かせられているままで、夜空に星がいくつか見えた。
「あんた、都の人かね? うわごとで何か喋っててもここの訛りじゃないからな。この村の連中もそれで俺を呼びに来たんだよ。ええと、あんたの繰り返していたヒメミヤってのはなんだ? それからカタクと口にしていたが、まさか近衛大将の佳卓様のことを言っているんじゃないだろうな?」
ここで何を明かしていいのか考える前に、思わず口から問いが出てしまった。
「佳卓様を知っているのか?」
小役人は口を曲げる。
「知っているも何も、俺のお仕えする人の、そのまたお仕えする人だよ。なんでそんなお偉い人を知ってるんだ? あんた、物乞いじゃないのか?」
「……物乞い……」
いや、と男はさらに苦い顔をした。
「ただの物乞いならともかく。子どもから物を奪おうとした
翠令はとっさに首を振った。ただ、ほとんど動かない。
「違う、対価を払おうとした」
へっと男は嗤った。
「ああ、貨幣を握らせようとしたんだってな。だが、あんな金属片なんか貰ったって何も使い道なんかねえよ、ここでは」
「ああ……」
そんなところではないかと思っていた。
「だが……私は盗むつもりなんかじゃなかった……」
「そんなこと、こっちの者に分かるかよ。言葉の通じない奇妙な風体の女が竹筒を取り上げようとする。その子がどんだけ怖い思いをしたんだと思うんだ。親だって誰だってみんなかんかんに怒っている」
「……」
言葉が通じない。だから、相手には自分の意図が分からない。そして、分からないから怖ろしい。聞かされてみれば、単純な話だった。
「だいだい、あんた、なにしにこんなところにいるんだ。佳卓様の名前をそう易々と口に出すなぞ、あんた何者だ?」
「京の都の……東宮様から佳卓様に遣わされてきた使者だ。そう佳卓様に伝えて来れば分かる……」
「朝廷からの使いだって?」
翠令は話が通じたかと思った。話が早ければ助かる。翠令はもうこれ以上口を動かすのも辛いのだ。
だが、相手は思っても見なかった返事を寄越した。
「朝廷の使者だってんなら、ついこの間きちんとしたのがもう来たがなあ」
「きちんとした?」
男の声が遠い。翠令は気力を振り絞って聞こえ辛いそれに耳を傾けた。
「ああ、馬に乗った、いかにも都の人間らしい格好の使いがな。言っておくが、俺は何年か前に徭役で京に上ったことがある。だからあっちの言葉もこうして喋れるし、あちらの身分のある人間がどんな衣を着てるかも知っている。朝廷からのきちんとした使者ってのは都風の装束に馬に乗って来るもんだよ。それくらい分かるぜ、俺にはよ」
男は心底呆れたという表情を浮かべた。
「あんた、そのなりで俺から信用されると思うか?」
翠令は唇を噛む。このようにみすぼらしい、しかも服が破けて土にまみれた格好の女がどうして信用されるだろう。
翠令は男の問いに応える気力がない。必要最低限のことだけを声に出す。
「その使者を信じては駄目だ……。頼むから私が……東宮からの使者が来たことを佳卓様に伝えてくれ……」
「って、おい、あんた!」
翠令は再び意識を失った。
目を閉じていると翠令にとって愛らしく、そして愛おしい人々の姿が現れる。姫宮がにこにこと微笑み、佳卓が静かに翠令を見る。白狼が豪快に笑い、趙元が微笑み朗風が軽口を飛ばす。そして梨の典侍や佳卓の兄が竹の宮の姫君と宮殿の中で楽しげに語らっている。
そんな幸福なものを見ている合間に、酷くぼやけた光景が目に映ることがある。
いや、こちらの方が現実なのだ。幻の方が澄んで明快で、現実の方が濁っているけれども。
気を抜くと夢の中に滑り落ちて行ってしまいそうな自分を叱り飛ばして翠令は薄目を開く。
男が感情のない声で説明してきた。
「ここは国衙だ。あんたが気を失っている間に運んできた」
「……」
微かにでも自分は笑みを浮かべでもしたらしい。冷ややかな声が返ってきた。
「言っておくが、お前が得体のしれない者だとここの皆も思ってる。それだけに、その辺で死んで貰っちゃ気味が悪くて仕方ない。呪いでも降りかかったらことだからな。とりあえずくたばるなら他所でくたばってくれ。生きている間はここでつかまってろ。朝廷に逆らう人間なら、京から来た役人に引き渡せば褒美が貰えるかもしれん」
男の声は、耳鳴りにかきけされて、ところどころしか聞こえない。
「私は怪しい者じゃない……。朝廷を私物化する
男には雲をつかむような話にしか聞こえないだろうと思うが、もう詳しく話をするのもままならない。喘鳴も混じる途切れがちの声は、相手にもよく聞き取れなかったらしかった。
「はあ? 何を言ってるんだかよく分からんな。まあ、どちらにしろ佳卓様に判断してもらうさ」
「……佳卓様に……会えるのか……」
眩暈と息苦しさに耐えて翠令は声を大きくしてみた。
「ああ、馬で来たきちんとした都の使者が『京の都に戻ってくるように』と伝えに来たからな。今頃、東国の奥からこちらに引き返しておいでだろう」
翠令は呟く。
「お一人で……京に戻ってはならない……」
男は冷淡に言い捨てた。
「まあ、佳卓様に直接申し上げるんだな。ただ、生きて会えるか分からんが。あんた、顔が土気色だぜ。死相が出ている」
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