恐怖と苦痛、そして選択
「何言ってるの。僕が喋るわけないでしょ、何する気か知らないけど」
震える声で精一杯強がり、レンは口を引き結んだ。しかしその様子を見てもライネの表情は変わらない。それどころか益々にやにや笑いが大きくなったように見えた。
「なあに、喋るさ。彼の様子を見ていればな」
「何を――?」
するとライネは、ゆっくりとレンの方に向き直り、唐突に質問をした。
「君は我々学会が何をしようとしているのか、わかるかね」
「知らないよそんなの。人体実験でしょ」
「何の実験なのか、という話さ。いいか。君も知っての通り、ハロスという厄介な霧は、分解されることなく平地に滞留し続けている。こいつを消滅させようと何人もの科学者が何十年にもわたって努力を続けてきた。しかしハロスは未だに残ったままだ」
ライネは話しながら部屋の中をゆっくりと歩いていた。
「ハロスが消せないならどうするべきか。科学者たちは考えた。それならばせめてハロスの毒性を中和することだ。それができれば少なくとも人類の活動範囲は広がるからな。そして同時に、人類共通の敵であるハロスを無効化できる技術ができれば、それは莫大な富と最高の栄誉を与えてくれる。だから」
言葉を切ると、ライネは深くため息をついた。
「その技術の開発に近づいたシーナには是非とも協力してもらわねばならんのだ。その人体実験のデータと共にな」
「……それじゃトラーフド社も同じことを考えてるの?」
「ああ、あのゴロツキどもか! 連中の考えはちょっと違う」
レンが思わず質問すると、ライネは鼻を鳴らした。
「あいつらの狙いは軍事力だ。単純な話だ。ハロスの中和剤を自分たちだけが持っていたらどうなると思う? 敵対勢力の本拠地にハロスをばら撒き、中和剤をちらつかせて交渉すれば、街を破壊することなく簡単にそこを乗っ取ることができるだろう」
なるほど、とレンは思わず納得した。ようやく疑問が少し氷解した。つまり学会とトラーフド社は、それぞれ異なる事情を抱えて、シーナという共通の目標を奪い合っていたわけか。
「それで、どうしてそんな話を僕に?」
「まだわからないか? 鈍い小僧だ。我々は、ハロスを無効化する技術開発をしている。そしてそのためにはまず、ハロスの影響を調べる必要がある。それはつまり、こういうことだ」
ライネが合図をすると、オランが壁にあるスイッチを入れた。
ガラスの向こうではコーが憮然とした表情でこちらを睨んでいる。
が、一瞬の後、突然コーがきょろきょろとあたりを見回し始めた。そして何やら慌てた様子で何事か叫び始めた。
なんだろう。一体何が――。
その時レンの視界にもその原因が入り込んできた。
コーのいる部屋の天井付近から、徐々に黄色味がかったガスが噴き出し、部屋中を満たし始めたのだ。
その黄色い気体は、徐々に下へと降りて行き、コーの足元を覆い隠し始めた。
「おい! やめろ!」
レンは叫んだ。あの色、あの挙動、あれは――ハロスだ。
非情な毒の霧が、ゆっくりと漂い、コーを包み込んでいく。
「やめて! ねえ! コーが死んじゃう!」
「安心したまえ。濃度は薄めてある。すぐに死ぬようなことはないさ。わかったか? ここはハロスの影響を調べるための施設だ。君のお仲間にはモルモットになってもらう」
レンは部屋の外へと駆けだそうとした。
しかし一歩踏み出した途端、強い力で腕を掴まれ、強引に引き戻される。振り返るとジスがレンの二の腕をがっちりと握り、こちらへ向けて銃を構えていた。
「さあ、改めて聞こう。シーナはどこにいる?」
「そんなこと……!」
「これでも言わないつもりか。だがこのままだと、君の大切なお仲間がどうなるかな。この濃度のハロスでも、ある程度の量を吸い込めば中枢神経系に影響が出始めるぞ。思考能力の低下、記憶の混濁、意識の消失――そして勿論、最後には死に至るがね」
今やライネの目には狂気の光が宿っていた。
レンはその恐ろしい目に射竦められ、そして直感した。こいつはもはや金や栄誉を求めてるんじゃない。人間で実験することを楽しんでる。
もはや一刻の猶予もなかった。
ガラスの向こうではコーが口元を抑えて咳き込みながら、膝をついている。
あんまりだ。僕にコーとシーナの命を天秤にかけろというのか。僕はどうすればいい。どっちを選べばいい。
ふと、レンの脳裏に痩せこけた少女の顔が浮かんだ。
アキ。彼女は撃たれて死ぬ間際、にげて、と言った。
レンはゆっくりと顔を上げた。その頬には薄汚れた肌を流して涙の跡がくっきりと浮かんでいる。
もう目の前で人が死ぬのは沢山だ。ましてやそれが大切な相手なら尚更だ。たとえその決断がもうひとりの仲間を危機に晒すとしても。
「シーナはチョウカイ市にいる。彼女のお父さんのところだ」
振り絞るようにして告げたのと、分厚いガラスの向こうでコーが床に倒れ伏したのがほとんど同時だった。
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