第5話 Fix you
標本の届け先
3,000メートル級の山の頂にしつこく残っていた残雪が、ようやく溶け始めた初夏の頃だった。
比較的山岳の低いあたりでは、かなり緑が濃くなりつつある。
数十年も昔にあった世界的な大戦の置き土産として、あらゆる平地を覆い尽くして消えることのない黄色い
高山の頂の周辺に広がるジョーネン市では、柔らかな初夏の日差しに照らされて、コー、レン、シーナの3人が自宅兼事務所の1階にある居間で思い思いにくつろいでいた。
3人は飛行船「ジーシェ」号で運送業を営んでいる。ゆえにこの自宅兼事務所にも、普段なら仕事の依頼が舞い込むか、さもなくば自分たちでいつもの倉庫へと出向いて荷を受けに行くところだ。
しかし船長のコーが、「最近休みがなかったから」という単純な理由でその日を休日と決めたため、レンもシーナもこれ幸いとばかりに日頃の疲労を癒すことにしたのだった。
「ダイセツ自治区との停戦協定がようやく締結になる見通し、だとよ」
古びた革張りのソファに寝そべって新聞に目を通していたコーが、坊主頭に顎ひげという強面を少ししかめながら、誰ともなしに言った。
「これだけの犠牲出しといて、まだ停戦すらおぼつかないんだから困ったもんだな」
「メロ、元気かな」
ダイニングテーブルでお茶をすすっていたレンが、同じように誰ともなく呟く。先日16歳の誕生日を迎えたばかりだが、そのトレードマークともいえるもじゃもじゃとした黒髪は、益々勢いを増している。
その向かいでは白衣姿のシーナが顕微鏡を覗き込んでは何やらスケッチをしていた。白衣の下は今日はブラウスにショートパンツといういで立ちである。咥え煙草のまま形の良い白い脚を投げ出している姿を見ていると、とても生物学者とは思えない。
「レン、明日荷受けする予定のリスト、その辺にないか」
「ああ、これかな? はい」
レンがテーブルの片隅に積まれていた数枚の書類を手渡すと、コーは新聞を適当に畳んでソファの端に投げ出して、リストに目を通し始めた。
「石炭がメインだな。それと個人宛の荷物が少し。食品、機械製品、ガラス細工……あとはなんだこれ? 標本?」
「何の標本だ?」
顕微鏡を覗き込んだままシーナが尋ねた。流石にこういう部分に興味を惹かれるところは生物学者らしい。肩眉を挙げたコーがリストを読み上げた。
「どれも昆虫や植物みたいだな。ヒメシロエンマムシ、ウラギンタテハチョウ、アカバナトウダイグサ、クマドリヤナギ……見たことも聞いたこともないもんばっかりだ」
「ほう、どれも絶滅種だ。かなりのシロモノだぞ」
シーナが目を光らせて顔を上げる。コーとレンにはわからないが、どうやら貴重な種であるらしかった。
「何かシーナの研究に関係したりするの?」
「いや、残念ながら。ただ珍しいってだけだな。私の研究で使ってる植物はそこらにいくらでも生えてるよ」
「ふうん……でもそんな珍しい標本を送るなんて、何者なんだろうね。科学者なのかな」
レンが首を傾げると、シーナはふ、と笑い声を漏らした。
「いや、どっちかっていうとコレクターだろうな。生物学者なら自分が研究している種や、少なくともそれに関係する種を集めるもんだ。今聞いた限りじゃ珍品を見境なく集めてる奴だろうよ」
「そうなのか。あんまり高価なものだと専用の保険をかけた方がいいかもしれんな」
コーはしばらく前に北の端にあるダイセツ自治区まで、高級品であるウィスキーを運んだことを思い出しているらしかった。何しろ荷受けしたのが10樽、そしてそのうち1樽は密航者が無駄にし、2樽を政府への賄賂として渡してしまい、受取人の元に届いた時には7樽しか残っていなかったのだ。
お陰で後から損害賠償を請求されてすっかり赤字の仕事となってしまった。
「確かに珍しいことは珍しいが、それでも絶滅種の中では比較的よく見かけるやつだ。あまり心配しなくてもいいよ」
シーナはひとつ伸びをして立ち上がると、ソファへと歩み寄り、コーの手元を覗き込んだ。
「ふうん、チョウカイ市への荷物か。そうだな、ここにある種はどれもそこまで高価ってわけじゃ――」
突然シーナの言葉が止まった。どうしたのかとレンが振り返ると、シーナはぼんやりとした目つきでコーの手元の書類をじっと見つめている。
コーも不思議そうにシーナの顔を見上げた。
「何だ? 何か問題でもあるのか?」
「シーナ? どしたの?」
しばらく見つめていた二人が揃って声をかけると、シーナはハッとしたように瞬きをし、それからコーの横にどさりと腰を下ろした。
「おい、一体――」
「父親だ」
シーナの形の良い唇が、吐き捨てるように動いて言葉を絞り出した。
「この標本の届け先、チョウカイ市のタイジ。これは私の父親だ――いや、父親だったと言った方がいいかな」
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