研究者の残滓
「コー! 危ない!」
シーナが咄嗟に叫ぶが、コーはしっかりと梯子を捕まえていた。
空中にぶら下がりながら、なんとかもがいて両手両足を梯子にかける。ガス袋の側面やや下側にとりついたコーは、そのままそろそろとゴンドラに向かって降りて行った。
閉じられたゴンドラの搭乗口の真横まで来ると、取っ手に手を伸ばし何度か揺すってみる。扉は微かな軋みと共に開き、コーはそこから中へと転がり込んだ。
乗り込んだところは操舵室だった。決して大きな造りではない。ジーシェと違い、二人も乗れば窮屈なくらいだ。そこから船の後方へと続く扉があり、そこは開け放たれたままだった。
「アツさん? 誰か、いませんか」
コーの問いかけがゴンドラ内に響く。その声はゴンドラ内にもたっぷりと入り込んだハロスの中に吸収されるように消えていった。
誰もいないのだろうか。とすると、やはり無人で漂っていたということか。
いずれにせよ、シーナと逸れるのはまずい。
コーは後ろへと続く扉から向こうを覗いた。動くものの気配はない。というより、船内に積もった埃と充満したハロスの状態からすれば、誰かが乗っているとは思えなかった。
もし誰かがいたなら後で謝罪すればいいだろう。
操舵席のパネルに取り付けられた計器類に目をやる。エンジンはすっかり冷え、圧力計は下がり切っていた。エンジンを始動するにはボイラーを沸かすところからやらねばならない。かといって推力がなければ昇降舵もほとんど意味を為さない。
仕方なくコーはガスを抜くことにした。幸いバラスト量はまだそれなりに残っている。ということは万一の場合にはバラストを放出することで多少は浮力を取り戻せるだろう。
計器の端にある小さなレバーを引く。
上の方から微かなしゅうっという音が鳴り、がくん、と船体が沈み始めたのがわかった。
そのまましばらくガスを抜いていると、船体は静かに地面に接触し停止した。
搭乗口に駆け寄ってきたシーナがマスクに覆われた顔を操舵席に突っ込んだ。
「無茶するね。よかったよ無事で」
「無茶ってほどじゃないつもりだったけどな。防護服を着てたのを忘れてたよ。危うくジャンプが届かないところだった」
マスクの下でコーがにやりと笑うと、シーナも少し目を細めた。
「それで? 誰か乗ってたか?」
シーナがコーと同じように後ろへと続く扉に目線をやる。コーは首を振った。
「中はハロスが充満してるような状態だ。誰か乗ってたとは思えないな」
そう言って席を立つと、コーは扉を潜った。乗り込んできたシーナも後を追う。
扉の先は居室兼寝室のようになっていた。とにかく物が多い。そこかしこに本や書類、実験器具といったものが積み重なり、その中に埋もれるようにして辛うじてベッドが見える。
何年も放置されていたように土埃に塗れたそれらのものは、明らかに主人が不在であることを示していた。
「この飛行船の主はどこへ行っちまったんだ? なんでこの状態で漂ってたんだろう」
「おそらく係留してた索具が劣化して切れたんだろう。ほら、一本垂れ下がってたろ。この船は硬式だ。ガス袋の外側が金属板で保護されてる。だから致命的なダメージを受けることなく何年も彷徨い続けてたってとこだろうな」
コーが部屋の中を見回しながら言った。
そうなると飛行船の主はこのハロスの中に取り残されたのだろうか。防護服を着ていて、方角さえ誤らなければ山岳地帯まで歩いて抜けることは可能だろう。現に一部のスカベンジャーたちはバギー等の乗り物を使ってはいるが、陸伝いにハロスへ潜っている。
「コー、これ。見てみな」
シーナが不意に後ろから声を掛けてきた。
振り返ると何やら机の上にある四角いものを指さしている。写真のようだ。
厚く積もった土埃を防護服の太い指で払いのける。そこには見覚えのある男女が一組、にこやかな表情で写っていた。
「アツとシズだ。時計についてた写真と同じやつだな。てことはやっぱりこれが……」
「大当たり、ってわけだ。ツイてたな」
シーナはそう言って辺り一面に積み上げられた本や書類の束をひっくり返し始めた。時々、ほう、とかこれは、などと呟いている。コーも試しに一冊手に取ってみると、何やら複雑な化学式が所狭しと書き込んであり、慌ててそれを閉じた。
どうやらアツがハロスの研究をしていたというのは間違いないようだ。ここにある大量の紙類はどれもその研究に関わる書籍やノートなのだろう。
ふとコーの目に、他の本とは違う、ノートのようなものが飛び込んできた。何の気なしにそれを手に取って開く。今度はコーにも内容が理解できた。
「シーナ、これは日記だ。アツの日記」
「へえ、何書いてある?」
「待ってよ、多分最後の方が……ああ、ここがラストのページだな。ええと、『10月10日、ようやくウォーカーの修理が終わった。これで研究所跡に潜れる。近くは高い鉄塔が密集していて危険だと思われる。南部総合公園に着陸して歩いて行くことにする。南へ30分も歩けば着くはずだ。スカベンジャーも地下室の存在にまでは気付いていないことを祈ろう。そういえばもうすぐシズの誕生日だ、彼女は元気にしているだろうか。私のことなどすっかり忘れているだろうな』……ここで終わってる」
「研究所跡、か。南部総合公園っていうのがさっきの私たちも目印にしたところだよな。たしかあそこから北の方へ捜索に来たから……逆側か。どうする」
「ここまで来たからには行くべきだろ。歩いて小一時間だ。しんどいか?」
「しんどいさ。何しろ大荷物だからな」
シーナは意味ありげに言うと、やおら先ほど部屋の片隅で見つけたらしいリュックサックの中身を捨て始めた。
「おいおい、一体――」
「何をしてるかって?コー、あんたこれだけの研究成果をスカベンジャーどもにくれてやるつもりか?」
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