「格闘家」後編
王仁慈との試合での敗北から数日後……。
小田中の動きのキレは変わらなかった。
トレーニングでも、敗北前と変わらない身体の動きを見せた。
小田中は敗北のショックから立ち直ったと、周囲も、小田中本人もそう思った
しかし、メンタルは立ち直っていなかった。
それは敗北後、久しぶりの試合の日のことだった。
試合開始前。小田中の脳にあの日のことがフラッシュバックした。
そして、小田中は試合前、控室で何度も嘔吐した。
今まで、こんなことはなかった。
あの日のショックが心に焼き付いたのか、小田中の身体……いや、心がリングに上がるのを拒み続ける。
こんな状態で試合をすることはできない……。
小田中は、予定していた試合をすべてをキャンセルした。
身体は動く。
だが、心が凍り付いたままだった。
長期の休養を取ることにした小田中は実家に帰り、学生時代によく行った中華料理屋「散々軒」で好物の担々麺を食べていた。
ずるずると麺をすする小田中。
昔から変わらない担々麺の味だった。
だが、小田中の舌には辛みも旨味も感じない。
小田中は好物すら味わえなくなった自分に対し、怒りと哀しみ、なにより惨めさを感じた。
すると……。
ガラガラガラ……と店の扉が開いた。
「……らっしゃい」
店の中に入ってきた客に、店主が不愛想に挨拶をする。
小田中は見向きもせずに麺をすする。
「フハハハ。聞いていた通り、随分、落ちぶれたものだな。元・天才格闘家の小田中小平」
その声に、小田中の背筋が凍りつく。
思わず、持っていた箸を落とす。
小田中は声の方に顔を向けた。
そこには……。
「て、てめぇは!!?」
スーツ姿で笑みを浮かべる王仁慈が立っていた。
「やあ、久しぶりだね。元・天才格闘家の小田中くん」
クスクスと笑い、王仁慈は入り口近くのカウンター席に座った。
店主がカウンター越しに、愛想なくお冷を置く。
小田中は険しい表情で立ち上がった。
「王!なんで、お前がこんなところに……うっ!」
小田中は青い顔で口を押さえた。
強いトラウマが体に焼き付いているせいか、担々麺が胃から口に逆流してきた。
小田中は、手元にあるお冷を掴み、口に水を流し込んだ。
王仁慈は笑った。
「ハハハ。店主。彼が食べている物と同じ物をひとつ」
「ヘイ」
小田中はゼーハー、ゼーハーと口で呼吸した。
彼の脳には、リングに倒れ込んだ瞬間が何度も何度もフラッシュバックした。
身体は震えていたが、それでも、小田中は声を出した。
「てめぇ、なんでここに……」
王仁慈は笑みを浮かべた。
同時に、カウンターに担々麺が置かれた。
「笑いに来たんだよ……。令和の天才格闘家と呼ばれていたが、私に敗れ、ドン底に落ち、今では薄汚い負け犬と化したキミをね……。あと、この店、ラーメン来るの早いな」
王仁慈は箸を手に取った。
小田中は拳を強く握った。
王仁慈は、箸でどんぶりの中にある麺をすくい上げる。
「あの日のキミは本当に無様だったよ……。デビュー戦以降、常に勝ち続けてきたキミが……」
王仁慈は麺を口に入れる。
「辛っ!!」
王仁慈から笑みが消えた。
「え!ちょ、やだ!辛っ!!なにこれ、辛っ!!」
顔が真っ赤になった王仁慈は、手元にあったお冷の水をがぶ飲みした。
「店主!水!水くれ、水!!」
「はいよ……」
店主は愛想なく、カウンターにお冷を置いた。
水をがぶ飲みする王仁慈を見つめる小田中。
水を飲んで、落ち着きを取り戻す王仁慈。再び笑みを浮かべて、箸で麺をすくう。
「えっと……。天才格闘家と言われたキミが、あんなにも情けなく、たった一発のパンチで沈んだ姿は今思い出しても笑えて仕方がないよ、フハハ」
「くっ!」
小田中は唇を噛んだ。
王仁慈は喋りながら、麺を口に入れる。
「どういう気分だった!?天才格闘家のキミが、たった一発のぱん……辛っ!!!」
「……」
笑みが消えた王仁慈は水をがぶ飲みした。
「ちょっと、やだ、辛い!辛いって!!なにこのラーメン!?すっごい、辛いんだけどォ!!水!水くれよ!!水!!」
余裕なく叫ぶ王仁慈。
愛想なく、カウンターテーブルに水を置く店主。
「辛いよ、もうー!やだー、なにこのラーメン!?」
「……」
王仁慈は白けた表情の小田中に目を向けながら、箸で麺をすくう。
そして、喋りながら麺を口にした。
「えっと……。どんな気分だった?天才格闘家のキミが、たった一発のパンチで……辛っ!!」
「てめぇ!喋るか、喰うかどっちかにしろ!!!」
小田中は叫んだ。
「だって、辛いんだもん!!!」
王仁慈は泣きそうな顔しつつ、余裕のない声で叫んだ。
数日後。
小田中は急にスランプから脱した。
そして、王仁慈と再戦。開始数秒で王仁慈をマットに沈めた。
完
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