第223話 愛情

「愛情をこめて育てれば、きっとあなたに良い事がありますよ」


 ふと、目に止まったフラワーショップ。

 何となく興味が沸いて店のドアを開くと、そこだけ切り取られた空間のように清涼感が漂う。

 たった一枚のガラスを隔てた此方側と向こう側では、こんなにも空気が違うものかと驚いたが、この店の中に溢れる【自然】という存在を考えると、その疑問に対しての答えは自然と得られるものだ。

 随分と長い事忘れていた安らぎは、コンクリートに囲まれた忙しい日常の中で少しずつ削り取られ消えていく。何かが満たされないと感じていたものの、その正体が分からず、ただ、退屈な毎日を繰り返していく。

 だからこそ今回見つけた【偶然の出会い】は、驚きつつもとても嬉しいと感じていた。


 普段は花を見ることなんてしないはずなのに、入ってしまった手前何もせずに出るのは申し訳無いと感じる辺りが、実に日本人的な考え方なのだろうか。それほど広い訳でも無い店内を、目的も無く歩く。店内には名前の分かる花や観葉植物から、余り目にする機会の無い珍しいものまであり、それらがお行儀良くこちらに向かって【買って欲しい】とアピールしているようだった。

「いらっしゃいませ」

 突然声を掛けられ、驚いて肩が跳ねる。反射的に振り返ると、笑顔が素敵な女性の店員さんが「お探し物ですか?」と尋ねてきた。

「いや……探し物と言う訳ではないんですけど……」

 店に入った理由なんて何も無い。何となく目に止まり、何となく足が向いた。ただそれだけ。誰かに花を贈りたいとか、自分で植物を楽しみたいとか、そんな目的が有ったわけでは無いため、恥ずかしくなり視線を逸らしてしまった。

「探し物が無くても、当店は大歓迎ですよ」

 こちらの言葉に嫌な思いをしていないかと気にはなったが、どうやら相手がそのことを気にしている様子は感じられない。小さく両手を合わせることで鳴る音で顔を上げると、彼女は嬉しそうに表情を綻ばせながら「ごゆっくりどうぞ」と奥へ向かって歩き出す。

「あっ、あのっ!」

 何故、引き留めようとしたのかは分からない。

「何か?」

「折角ですし、お勧めのものとか……ありますか?」

 余計な事を言わなければ、そっと店を立ち去る事も出来たのかも知れない。だが、口から出てしまった言葉を今更取り消すことは難しいだろう。顔を真っ赤にしながらも返事を待っていると、彼女は可笑しそうに笑いながら「それでは……」と品物の説明を始める。

「……へぇ」

 毎日の忙しさに追われ、周りを見る余裕がいつの間にか無くなってしまっていたのだろうか。小さなフラワーショップだというのに。次から次へと現れる様々な植物たち。勿論、説明を聞いても全てが理解できるという訳では無いが、知っていると思い込んでいた身近な草花ですら、改めてそれを教えてもらうと知らないことの方が多いのは新しい発見だった。

「簡単にお世話できる……って、訳じゃ無いんですね」

 花をより長く綺麗に咲かせるための方法。植物を元気よく育てるためのこつ。水をあげて日に当て、適当に肥料を加えておけば勝手に育つと思っていたそれらは、一つ一つに個性があり、手を加える場所も異なっている。

「この子達にもそれぞれ性格がありますので」

 興味を持って耳を傾けると、女性店員はそのことが嬉しいと感じているのだろう。弾むような声で店に陳列されている植物たちについて雄弁に語り続ける。

「それで……気になるものはございましたか?」

 彼女のプレゼンは見事な物で、先程までは全く植物に興味を示さなかった私が、何となく商品を買おうかなと悩み始めている。それでも中々決断に至らない理由があるのは、本当に花や植物の世話を継続出来るのかという不安があるからだろう。

「私でも育てられる植物って……やっぱり無いんじゃないかなぁって……そう思ってしまって」

 こんなにも長居して、折角色々な植物を勧めてもらったのに、最終的に下した決断がそんな答え。とても申し訳無いと感じ俯くと、彼女は暫く考えた後で幾つかの植物を勧めてくれる。

「サボテンでしたら、そこまで手は掛からないと思いますよ」

 小さな鉢の中に収まる小さな植物。自らの身を守るために纏う鋭い棘が、多方向へと伸び触れる事を拒むようだ。

「サボテンは乾燥地帯の植物ですので、頻繁に水をあげる必要が無いですし、日光に当ててあげれば元気になりますし。どうでしょうか?」

「あ。それなら、私でも大丈夫……かな?」

 提示された幾つかのサボテン。その中から形が可愛い物を選び買うかどうかを暫し悩む。

「あー……でも、お客様ならあっちの方がいいのかなぁ?」

「え?」

 告げられる意味深な一言。気が付けば店員の姿は無く、私は狭い店内に一人残されている。店を出る訳にもいかず大人しく待っていると、一つの鉢植えを持った女性店員が戻ってきた。

「この植物、入荷が余りなくて表には出してないんですけどね」


 彼女が持ってきた植物は、とても奇妙な形をしていた。

 造形としてと言う意味では無く、何となく不思議な雰囲気を持っている、という意味でだ。

 見た目としてはカネノナルキに似ているような気がするが、よく見ると葉っぱの形が異なっている事に気が付く。

「この植物は?」

「×××××××と言います」

「×××××××?」

「ええ」

 確かにそれは音として存在している言葉なのだろう。だが、名前の部分だけ異様に不鮮明で、まるで水の中に潜ったときに聞く声のようにくぐもって良く聞き取れない。

 ただ、不思議な事にその植物の名前が分からないことに疑問を感じることはなく、逆にこの植物の事が気になって仕方が無いのだ。

「これはどうやって育てれば良いんですか?」

 サボテンの形とは違い、水も肥料も必要な雰囲気に、本当に私が育てる事が出来るのかと疑問に思いつつ、私はそう問いかける。

「愛情を注ぐだけです」

「え?」

 鉢植えを机に置くと、店名ロゴの入ったエプロンのポケットから彼女が取り出したのは、一枚のプリント用紙だった。

「詳しいお世話の方法は此処に記載されていますが、基本的にはサボテンと同じように世話をしてあげれば大丈夫です。お水もそこまで沢山上げる必要はないですし、適宜に日光を当てて貰えれば青々しい葉っぱをつけてくれます」

「ふぅん」

「ただ、一日一回。必ず話しかけてあげてください」

 手渡された紙を読んで行くと、女性店員の行った通り、複雑な世話をする必要は特になさそうで。気になったところは《可能な限り沢山話しかけてあげて下さい》という特記事項だが、これは多分、最近流行の【植物を元気にするには】というものとしてオマケで書かれている情報なのだろう。

「そうだなぁ……」

 私にお勧めですと提案されているのは二種類の植物。片方はよく見るタイプのサボテンで、片方が名前がうまく聞き取れない不思議な植物。

「どうせ育てるなら珍しいものを育ててみたいので、こっちにします」

 鉢のサイズも然程大きくないのと、値段も手頃そうに見えたことから、私はこの不思議な植物を購入することに決める。


「ありがとうございました」


 店のロゴが入ったビニール袋の中にその植物は行儀良く収まっている。

「愛情を持って育ててあげれば、必ずこの子はあなたのことを幸せにしてくれるはずですよ」

 それは店員なりの冗談だろうと判断し、「そうですね」とだけ曖昧に返すと、私は店のドアへと手を掛ける。

「もう一度言いますが、くれぐれもこの子のことをぞんざいに扱わないで下さい」

 店の中と外を隔てる一枚のガラスが開き、向こう側と繋がった瞬間、店内へと雪崩れ込んでくる様々な雑音。


「愛情を注ぐのを忘れたら、この子はあなたの愛情を得ようとどんなことでも行います。その部分だけは注意して下さい」


 既に店の外に出てしまった私は、彼女の放った警告をきちんと理解すること無く店を離れてしまっている。


「もし、それが守られなかった場合…………」


 完全に閉ざされた店のドア。

 灯っていた明かりが消え、薄汚れたガラスの向こう側に覗くのは乱れた店内の様子。


「その子があなたを×××しまうかもしれません、よ」


 確かにそこに在ったはずのフラワーショップは、跡形も無く消え失せ、私が立ち寄ったはずの店舗は廃墟同然。薄暗い建物の中で、確かに何かが笑う声が響いた。

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