第216話 満月

 昼に見える月を見つけると、何だか不思議な気持ちになる。

 いつもは空から光りが消えた後にしか顔を覗かせることのない月が、「私はここに居るんだよ」と訴えるように姿を見せるそんな違和感。

 だが、いつも、優しく寄り添う月の存在が、私はとても愛おしく感じてしまう。

 それはまるで、何処にも存在を認められていないと感じてしまう私に「頑張れよ」と声を掛けてくれているようで、励まされていると感じるからなのだろう。


 私の居場所はここではない。


 そんな風に感じる様になったのは、いつの頃からだっただろうか。

 別に誰かから邪険に扱われているわけではないし、家族仲が悪いわけでも、友人関係が拗れているわけでも無い。仕事も今関わっているプロジェクトチームは仲が良い方だし、成果もそれなりに出ていて高評価を頂けている。

 それでもここは【私の居場所では無い】。そんな風に感じる日が、日に日に強くなっている事に気が付き、無意識に溜息が出てしまう。

 ウォーターサーバーの中で大きな音を立てて昇る気泡。スティック状の即席で作れるコーヒーの瑚奈に目がけて勢いよく流れ落ちる水の温度は大分熱く、プラスチック製のインサートカップに触れる度小さな悲鳴のような音を立てている。

 白いカップの中に満たされる黒に近い濃い色。その嵩が少しずつ高くなっていくに連れ、カップ内で出口を求めて逃げ惑っている香りが、我先にと飛び出て辺りに広がっていく。

 その心地良い芳しさが好きで、思わず大きく深呼吸。鼻孔を擽る大好きな香りは、疲れた私の心と体を癒やすように私の内側へと染み渡っていった。

 担当している作業自体はそれほど多くないものの、主な作業がデスクワークのため圧倒的に足りない運動量。長時間モニターに齧り付きキーボードを叩き続けているのだから、気が付けば肩が凝り身体は硬くなってしまっている。意識的に身体を解すよう心掛けては居るものの、気付かないうちに堪ったストレスで思わず零れてしまう欠伸。感じた眠気を吹き飛ばすにはこの苦みの強い嗜好品を接種するのが、とても便利で効率が良い。

 自分のデスクに戻り中断していた作業を再開すると、直ぐにでも忍び寄る睡魔が邪魔をしてくる。未だ湯気を立てているカップの中の嗜好品。それを軽く口に含めば、予想以上の熱さで口の中に小さな痛みが走った。


 切りの良いところで中断した作業は、データの損失を防ぐ為に指が勝手に保存のコマンドを入れる。

「ふぅ」

 小さく息を吐き出すと、覚えたのは空腹感である。

 いつもより少し早い休憩時間。だが、作業はまだまだ残っているのだ。残業をしないためにも先に休憩に入る事にしよう。

 作ってきた弁当は昨日大量に作りすぎたおかずの残りを詰めただけのもの。どうせ自分一人しか食べないのだから、盛り付けや彩りは余り気にしないことにしている。備え付けの電子レンジで軽く温めデスクに戻ると、誰とも会話をすること無く黙々と食事を開始する。学生の頃、友人に自分の作った弁当を見て言われた一言は「年寄り臭いね」。それを思い出し思わず笑ってしまった。

 今まではそれが美味しいと感じていたはずなのに、最近から少し味覚が変わってしまったように感じて戸惑いを覚える。

 確かに不味い訳では無い。それでも、以前ほどその味が美味しいとは感じられない。

 自分で作ったものなのだから、自分好みに味付けをしているはずなのに、おかしい事もあるものだ。そう思いながら残った食べ物を口の中に片付けると、すっかり冷めてしまったコーヒーで一気に流し込む。

 弁当箱を片付けていると不意に、チームリーダーから声を掛けられた。


「今日、この後打ち合わせに出るから」


 それに対して「行ってらっしゃい」と答えたはずなのに、返ってきたのは意外な言葉で。

「お前も一緒に行くんだよ」

 そう言われて急遽決まってしまった予定に、私は露骨に嫌そうな表情を浮かべてしまった。

「今日は直帰して良いから」

「えー……でも……」

「先方が君を指定してきているんだよ。頼むよ、この通り!」

 取引先のお相手の指定と言われてしまうと、無理ですと断ることは難しい。仕方が無いと諦め、リーダーと共に打ち合わせに出る準備に取りかかる。どうせ作業はある程度目処が付くところまでは進めてある。一日後ろに伸びたところで進行に大きな支障はないだろう。


 外に出ると、頭上にはとても綺麗な青空が広がっている。

 外回りをする事に後ろ向きだったはずなのに、新鮮な空気を吸うと何だか心が軽くなり心地良かった。

「んーっ…………」

 リーダーを待つ間、私は取り出した携帯端末で打ち合わせの内容の確認を進めている。疲れを覚え無意識に上げた顔。伏せた瞼を軽く揉んだ後ゆっくりと瞼を開くと、青い空に白くぼやけたまん丸の月が浮かんでいることに気が付いた。

「あ……」

 大きく鳴る鼓動。見開かれた目が今にも消えてしまいそうな幻想的な月に釘付けになる。

『おいで……』

そう言われているようでゆっくりと進める足は、何かに導かれるようにして自分の意志とは関係無く動いてしまう。

「はぁ…………はぁ…………」

 歩く度に強くなる喉の渇き。吹き出す汗が服に纏わり付きとても気持ちが悪いと感じてしまう。

「なん…………で…………」

 そして辿り着いたのは薄暗い路地。そこに何があるのだろうと不安に思いながらも、引き寄せるように突き動かされる衝動に抗えず、ふらふらをそこへ足を踏み入れてしまう。

「……………………」

 切り取られた四角い空の下で、光りが殆ど届かない地べたに座り込んでいるのは傷付いた一人の男性だ。

『大丈夫ですか?』

 そう言葉にするつもりで口を開いたはずなのに、言葉は私の中に留まったまま音となって外に吐き出されることは無い。

「……はぁ……はぁ……」

 その代わり出てくるのはとまる事の無い唾液で、思わず喉が鳴り口が吊り上がる。


 嗚呼、ナンテ美味シソウ…………。


 避けた皮膚から溢れ出す赤が醸すのは実に美味しそうな芳しい香り。美味しい料理では満たされない。コーヒーの芳醇な香りなんて比では無い。

 私の身体が欲しているものはきっとそれで、矢張りこの世界には私の居場所は無いのだろう。


 切り取られた小さな真四角から見える青空には、先程見つけた白い月の姿は無い。

 だが、満たされた大きな円がこう囁きかける。


 お前の居場所は何処だ?

 お前はそれを知っているはずだ。


 私はそれに小さく頷くと、ゆっくりと、静かに壁に凭れ、項垂れている男性へと近付いたのだった。

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