第209話 波

 寄せては返す緩やかな流れは、耳障りの良い小波の音と共に何度も何度も繰り返す。

 伏せた瞼の向こう側に浮かぶ映像。

 それはどことなく、穏やかな懐かしさを感じさせるものだった。


 幼い頃から海のある環境で暮らしてきたせいか、昔から海という場所にはやたらと縁があるように感じてしまう。

 勿論、そこに良い思い出ばかりが有るわけではない。

 相手は自然なのだから、楽しいこともあれば哀しい思い出も確かに有る。

 それでも、私は何処までも果てなく広がる青の光景が、とても好きで堪らなかった。


 サンダルを脱ぎ晒した素足。乾いた砂に足を下ろすと、太陽の光により温められた細かな粒子が足の裏に熱を移す。日差しを遮る様な雲はなく、本日の天気は快晴という一文字のみ。鍔の広い麦わら帽子に結ばれている白いリボンが、潮風に吹かれてゆらりと揺れた。

 普段は着ることが少ないワンピースは少し古いデザインのシンプルなもので、軽めの素材のせいか強い風が吹くと簡単にスカートが大きく広がってしまう。黄色い声を上げて女性をアピールするような盛りは過ぎたものの、それでも下着を見られるという羞恥心が完全に無くなった訳では無い。だからこそ見た目は悪いが裾を軽く縛り広がる事を予め阻止。歩きにくくはなったがこれで強い風に煽られても安心だろうと胸を撫で下ろした。

 カレンダーの数字の色が赤であることから本日が休日という日だという事は分かるが、天気予報のせいだろう。そこに居る人の数は疎らで少ないと感じている。珍しいこともあるものだ。そう思い足を止め、ゆっくりと周りを見回せば、少し離れた場所で行儀良く座りこちらを見ている一匹の犬と目が合った。

 その犬の種類はラブラドールレトリーバー。ハーネスを付けているところから介助犬としての役割を担っていることが分かる。この犬のパートナーは何処に消えてしまったのだろうと不思議に思い視線を巡らせるが、知覚にそのような人影は見当たらず、介助犬はずっとこちらを見たまま視線を逸らそうとしない。

「…………どうしよう」

 彼なのか彼女なのかは分からないが、この犬が介助犬である以上、下手に声を掛ける訳にはいかない。何故ならそれは、お仕事の邪魔をしていると言うことになるからだ。

 とは言え、このパートナーを必要としているらしい人間が見当たらないのも気になってしまう。

 結局悩んだ結果、ハーネスに連絡先に繋がる情報がある事を期待し介助犬に声をかけることにした。

「パートナーとはぐれてしまったの?」

 パートナーとはぐれてしまったのかと聞いたのは態とで、この犬がペットとは異なる役割を持っているのだという事を自分自身に言い聞かせるようにして敢えてそう口にしただけのこと。胴に装着されたハーネスに触れる事を断ってから主に繋がりそうな情報が無いかという事を調べる。

「ハッ、ハッ」

 しかし、残念ながらこの子が介助をサポートしているはずの人間に関しての情報は一切無く、結局誰がパートナーなのかは分からずじまい。

「どうしよう」

 念のため警察に連絡しておこうと取り出したスマートフォンの画面を点灯すると、今まで大人しかったはずの介助犬が突然大きな声で吠えた。

「え? ちょっと!?」

 行儀良く座っていたはずの介助犬が立ち上がると、真っ直ぐに海へと向かって走り出してしまう。反射的に手を伸ばし慌てて後を追いかけるのだが、ハーネスという荷物を身に纏っていても介助犬の方が足が速く追いつけない。気が付けば介助犬は海の中に。足元には打ち寄せる波が直ぐ傍まで迫っていた。


 波に救われた足がもつれ、傾く視界と身体のバランス。

 水面に触れた衝撃に咄嗟に閉じた瞼の向こうで、澄んだ青とは異なる赤が広がる。

 遅れてくる息苦しさに必死に手を伸ばし藻掻くのに、次から次へと押し寄せる水が自由を奪い、絡みついた糸のように纏わり付いて離れない。

 遠くから聞こえてくるのは犬の吠える声。

 うすれゆく意識の中で、私はそっと涙を流した。


 耳が捉えた音は規則正しい電子音だ。

 身体は上手く動かす事が出来ず、色々な場所が痛みを訴えている。

 直ぐ近くで感じる生温かな風に驚き身構えるが、その正体がなんなのかに気が付くと直ぐに表情を緩め全身の力を抜いた。

 くぐもった音で聞こえてくる誰かの声。それは喜びと怒りと、そして嘆きが含まれているように感じる。

 瞼を開き何があったのかを確かめようと顔を動かすのに、濁った視界に捕らえる象は形を結ぶことの無いものばかりで。「クゥクゥ」と鼻を鳴らすパートナーの声だけはやけにはっきりと聞こえてきた。

 

 私は多分、夢を見ていたのだろう。

 波の音と風の心地よさを感じられる海の夢を。

 そこに居る私はとても自由で、自らの目で見て、自らの肌で感じ、自らの足で動く事で誰にも頼らず前に進んでいたように思う。

 何処までも鮮やかに広がる色に覚えた感動は消えること無く、私の中で輝き続けるのだろう。

 例えそれが一度たりとも、見ることが叶わない言葉だけの意味の色だとしても。

 傍らには整った毛並みの暖かな存在。

 指に触れるハーネスの冷たさに、私は少しだけ小さく溜息を零す。

 戻ってこられた現実と、心地よさを感じていた夢の世界とどちらが私にとって幸せを与えてくれるのかなんてそんなことは分からない。


 ただ。一つだけ。確かなことがあるとするのならば、私のパートナーは私がこの世界から消える事は望んで居ないようである。

 お行儀良く座りこちらをじっと見つめていたラブラドールレトリーバー。

 それは私の目の役割を担って寄り添ってくれる大切な相棒。

 あの時に聞いた波の音とパートナーの吠える声は、まだ忘れる事が出来なさそうだ。

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