第207話 種
ここに一つの種がある。
形状はいたってシンプルなもので、どういった植物が育つのかは種を見ただけでは判断出来ない。
ただ、この種がこの土地に生きる者達にとって救いとなることは間違い無いという予感はある。
それならばさっさと与えてやれば良い話なのだが、それを躊躇ってしまうのは何故なのだろうか。
土地が枯渇したのは何も、この土地に訪れた者達が悪いわけではない。
元々、この土地自体が随分と弱っていたのだ。その事を見抜けなかった先住民にも悪いところはあるのだろう。
だが、彼らにとってこの土地は、とても大切な物であり、特別な意味を持って居るもの。そこを離れ新しい場所で暮らすということは考えられないようだったし、なによりもそれを受け入れるという選択肢が彼らには存在しなかった。
よって、この枯れた土地でなんとか生を紡ぐしか方法は無く、それは彼らにとって頭を痛める悩みの種として存在している事である。
そんな時に現れたのが南方から訪れた旅人だ。
その旅人はとても不思議な雰囲気を持つ人で、行く先々で奇跡を起こしていると有名な人物だった。
彼が起こす奇跡の種類は実に様々。
病理に侵され滅びかけた国を救っただの長年続いてきた争いを止めただの、その土地に起こる問題をあっと言う間に片付け世を平和に導くのだ。これを奇跡と言わずして何と表現しようと言われても、それ以外の言葉を見つける事は実に難しい。
いつしかその旅人は救世主と言われ、その者が訪れる事を心待ちにする人間も増え始めていた。
そうして漸くこの土地にも、その奇跡を起こす救世主が訪れたと言う事である。
彼の見た目は実に素朴で見窄らしかった。
服装は襤褸を纏ったような状態、髪の毛もぼさぼさで、髭もまばらである。
筋肉こそあるようだがそれでもふくよかな体型とは程遠く、どちらかと言えば健康状態はそこまでよろしくは無いという印象すら受ける。
それでも気さくな性格と朗らかな笑顔、人当たりの良さで相手に対して悪い印象だけを与えているわけではなく、会話をすればすぐにでも、周りの人間が手を差し伸べ旅人のことを歓迎してくれるのだ。
そうやって迎え入れられた旅人は、その土地に棲まう者達の悩みに耳を傾け、一つずつそれに対しての答えを返していく。
それは個人的な問題から、土地全体の大きなものまで様々で、嗚呼、こうやってこの人が色々な問題を解決していったのかと耳を傾けていた者達はそう思い頷くのだ。
さて。
今回の問題はと言うと、枯渇した土地をどう使うのかということである。
土地の肥沃さは土地にある蓄えの量に比例するのだが、たくさんのものを育み、営みを支えた結果、少しずつ渇き枯れていった土地に残された力などたかが知れている。
大地はひび割れ、僅かばかりに天から注ぐ水を蓄える力もないほど痩せ細った土壌に、どうやって農耕を定着させるのかというのはとても難しい課題だ。
勿論、技術と予算があればそれを行う事は可能なのだろう。
だが、それが出来るのかと問いかけると、皆一同に首を振り肩を落とす。それほどにまで、この土地で暮らす者達の生活は困窮しており、少しずつ始まる死へのカウントダウンが止まることは有り得無い。
目に見えて迫る絶望に誰しもが覚悟を決めたときに、その旅人は一つの袋を取り出してこう告げた。
「この種を痩せた土地に蒔いてみなさい」
何の種なのかは告げず、ただそれだけを伝え手渡された小さな麻袋。開いてみると真っ黒で小さな種が数十粒ほど入っている。
「これで飢えを凌ぐことが出来るのですか?」
手渡された種が本当に恵みに繋がるのか疑心暗鬼になる者が居るのも当然だろう。その言葉を疑いたくはないのだがと付け加えつつ、敢えてそんな意地悪な質問をするのは仕方が無い。
「それを信じるか信じないかは貴方たちで決めなさい」
具体的な答えなど何も無い。そう言って旅人は笑うと、次の日には種だけを残して土地を去ってしまった。
残された種をどうするのか。
それを決めるのは種を受け取った人間達である。
正直に言えば、これで餓えがしのげるのならば、それを植えるということをしてみたいというのが本音ではあるが、種の数には限りがあるのも事実だ。
土地の状態が宜しくない以上、育てるのに失敗したら後はない。
だからこそ躊躇ってしまうというのも考えれば分かる事である。
結局、話し合いの末に種は数回に分けて試験的に植えてみようと言う結論に至った。
勿論、失敗は許されないのだから、種の育成は慎重に事を進めるということが前提で。
意外にも、種は枯れた土壌でも育つ種だったらしく、少ない水だけで思った以上の実りを見せてくれた。
不思議な事に真っ黒な種から採れる作物は、種の形状とは異なる野菜や果物、穀類など形態が異なっている。
勿論、実った後に手に入る種子は、実った作物が作る種の形状なのだから、旅人から託された種の使用は一度限り。それは使ったら無くなってしまうのだと言う事に気が付いたのは、何度目かの年を越した後だった。
今はこうして枯れていたはずの土地が豊かになり、飢えていたという過去は随分と懐かしいこととなってしまっている。
ただ、いつまたこの土地が、実りを忘れ枯れ始めるのかは分からない。
そんな不安を抱えているというのに、目の前には隣の領地から来た来訪者が跪く。
理由など簡単で、食べ物が無くなってしまったから助けて欲しい、と。そういうことだ。
生きるために食べ物を得ることがとても大変なことだと知っている以上、手元に残った種を分けてあげるのが優しさなのだろう。
とは言え、付きまとう不安は種を手放す事でより強く大きくなる事も否定はできない。
守るべきは自分たちの命。
それでも、天秤に掛かる他人の命を見捨てることも心苦しい。
果たしてどちらを選択するべきなのだろうか。
二つの皿に乗せられたのは、同じ数の分の命の重さ。
その天秤のどちらを傾けるべきなのかという決断は、未だ下せそうにない。
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