第194話 近距離

 私と貴方の距離はとても近くていつも距離感がおかしな事になってしまう。

 だから常に、言い争いが絶えないのだろう。

 今日もまた下らない理由で喧嘩が始まる。

 もういい加減にしたいと頭の何処かでは思って居るのに、なぜかそれを止める事が出来ずに泣きたくなる。

 私がこの人と出会った頃は、純粋にこの人の隣に居る事が心地良いと感じていたはずだ。

 喧嘩なんて滅多なことが無い限りしたことはなかったはずだし、常にお互い相手のことを気遣い良い関係を築いていたと記憶している。

 それがいつの頃からか、互いに遠慮が無くなり、喧嘩が絶えなくなった。

 本音を言える関係が嬉しいだなんて、そう思ったのは本の一瞬のこと。直ぐにそのやりとりがストレスだと感じ苛立ちを感じるようになった。

 それでもなかなか関係を終わらせる事が出来ないのは単純に、この関係が終わってしまうのが哀しいと思って居るからなのだろう。

 結局のところ、私はどこまでも臆病で卑怯者。一人になるのが怖いから、相手に縋り付き都合のよいように私の心を偽っている。

 だからこそ距離の取り方を忘れてしまっていたのかも知れない。踏み込んではいけない相手の領域に、無意識に足を踏み入れ荒らしていたことに気付けないほど、私は貴方のことが好きで堪らなかったのだろう。

 今日もいつもと同じ様に目が覚める。

 目覚ましの音が鳴るより少し前の時間。

 まだ暗い部屋の中でうすぼんやりと浮かぶ白い天井に張り付いた電灯。カバーが僅かに存在する光りを吸収し、微かな光りを放つ。

 重苦しい空気は閉め切ったカーテンのせいだろうか。貴方が好きだと言った色で統一したこの空間は、光りが無くなると途端に寂しいものへと変わってしまう。

 私はそれが少しだけ、苦手だと感じ溜息を吐く。

 寝返りを打つと、私が好きな貴方の寝顔。こうしているときはとても可愛らしく、愛おしく感じて思わず表情が緩む。

 瞼にかかる髪の毛を手で払い優しく頬を撫でた後、起こさないように注意しながら抜け出したベッドは、一人分の温もりが失われたことで少しずつ冷たくなっていくのだろう。

 貴方が起きてくる前に済ませなければならない準備はいくつかある。

 その中の一つが朝食作り。

 貴方の好みは長い付き合いのお陰である程度熟知しているつもりだったが、それでも偶に選択を間違える。人の好みは本当に予想するのが難しい。

 冷蔵庫の中を見ながら軽めに済ますかちゃんと作るか考えて悩む事数分。幾ら考えても出ない答えに諦め、私が食べたい物を優先に作る事にし作業に取りかかる。

 私は朝は余り食べられない方だから、正直軽食で済ませられるのならそちらの方が都合が良い。

 手を動かしながら考えるのは、一人だった頃の気楽さである。

 自分のために用意する朝食は常に簡易的な物で味気ないもの。動くためにエネルギーが確保できるのならそれで構わないのだから、深く考えることなく食べられる物を口にしていた。

 それが出来なくなって随分と経つことに無意識に溜息が零れる。

 簡単なプレートが用意でき、パンが焼け、珈琲が淹れ終わったところで貴方は漸く目を覚ます。

 寝起きでだらしのない貴方。まだ意識が完全に覚醒しきっていないせいで、欠伸をしながら洗面所へと消えていく。

 私と違ってそんなに時間の掛からない覚醒までの儀式はあっと言う間で。気が付けば卓に着き、私が作った朝食を口に運んでいた。

 「美味しい」とも「不味い」とも言わないしんとした朝食。ただ、こんがりと焼けたトーストを囓る音だけが色のない部屋に響く。

 その向かいで私は、少しだけ不機嫌な表情を浮かべながらサラダを口に運ぶ。

 味なんてあるのかどうかも分からない。貴方のそんな態度が、私の心をざわつかせ、そして不安に変えていく。

 どうしたら分かって貰えるのだろう。

 そんな不安が付きまとうようになって随分と経つ。

 相手との距離感が近付くにつれ、貴方の心がわからなくなる。この部屋を覆う暗い色のカーテンのように、貴方は私に心を見せてくれない。それが嫌で仕方が無い。だからついつい厭味を口にしてしまう。それをやると、また喧嘩が始まるのだと言う事を理解しながら。

 

 そしてまた、今日も。

 同じ様に喧嘩が始まってしまった。

 

 食器の割れる音が響く。

 折角作った朝食も、一瞬にして床の上に転がり落ちる。

 カップの中の珈琲は足元に広がり、絨毯に汚い色の染みを作るのだろう。

 泣き喚く私と、怒鳴り散らす貴方。

 髪の毛を掴まれ頬を叩かれ、罵声を浴びせられても、私は尚も食ってかかる。

 

 最後に貴方から出る一言が耳に届くまで、何かが変わるのかも知れないという淡い期待をこめて。

 

 でも、今日もそれはどうやら叶わないらしい。

 

「もう嫌なら別れればいい」


 それは、絶対に聞きたくなかった言葉だ。

 私は慌てて貴方に縋り、こう行って許しを請うのだろう。


「私が悪かったから、許してください」


 人は私が暴力を奮われていると思うかも知れない。

 でも、もしかしたら、私自身が貴方を追い詰めているのかも知れない。

 それでも私は貴方から離れたくないと声を上げる。

 

 何故なら私は臆病だから。

 一人になるのが怖いから、この狂った距離感をどうすればいいのか悩みながら、今日をまた生きていくのだ。

 

 


 貴方が、私の前から、完全に姿を消してしまう……その日……まで……。

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