第193話 水族館
水槽の向こう側で優雅に舞う鱗に、光りが反射してキラキラ光る。触れたアクリル板はただ冷たく、此方側にはない光りにとても羨ましいと思ってしまった。
子供の頃、水族館はあまり身近にあるものではなかった。
両親とも共働きで所謂鍵っ子だった私は、一人でいる時間の方が多かったためだ。
当然、週末に家族で何処かに行くと言うこともなく、「ごめんね」という言葉を何度聞いたのか忘れるほど言われた気がする。
それでも決して不幸だと感じる事は無かったのは、父親も母親も私の事を大切にしてくれていると言うことがとてもよく分かったからだろう。
だから我が儘を行ったことは無かったと思う、余り。
それでも、両親と一緒に行きたかった場所は確かに有るのだ。そう、例えば【水族館】とか。
水族館に憧れを抱くようになったのはいつの頃からだっただろうか。
別に魚がとても好きだという訳では無かったはずなのに、いつの頃からか水族館という空間が特別なものに感じる程気になる場所になってしまっていた。
テレビで見たからなのか、旅行雑誌の特集で取り上げられていたからなのかはもう記憶も定かではない。それでも、閉じられた空間の中で優雅に泳ぐさ魚の姿をずっと眺めていたいと。そう思う様になって随分と経つ。
もしかしたら、過去に一度だけ。両親に水族館に連れて行って欲しいと強請ったことがあったかもしれない。
だが、その願いはきっと、叶うことはなかったのだろう。
何故なら、それが叶ったという幸せな記憶が、私の中には存在しないからである。
それは決して両親が悪い訳では無い。
どちらかというと、私に訪れた運命が悪かったのだ。
その約束が果たされなかった理由なんて単純なもので、私の両親はその約束の直後に居なくなってしまった。
生きている姿をみたのはそれが最後。
鮮明に覚えているのは、病院の死体安置所で横たわる二つの両親だったものの抜け殻である。
空っぽになってしまった私には、何も残っていなかった。
幸せも、悲しみも。少しずつひび割れた隙間から逃げ出し溶けて消えていく。
流すだけ流した涙が枯渇すれば、ただぼんやりと色の消えた天井を眺めるだけ。
音のない空間で『ゴポリ』と濁った水の音がする。
無意識に立ち上がると、私は何となく大きな水槽を注文し部屋に飾る事にした。
魚なんて飼うのは始めてだから、無駄に大きな水槽はとても歪なものとして私の目には映る。
それでも私は構わなかった。
この空っぽな水槽が少しずつ満たされる度、私自身が少しずつ感情を取り戻し笑う事が出来るようになっていく気がしたからだ。
そうして作り上げた箱庭は、いつの間にか私以外が幸せになれる空間としてそこに存在する事になった。
私は今、こうして薄暗い水族館の中で、ぼんやりと優雅に舞う鱗を見て居る。
部屋の中に作り上げた理想郷に私の居場所がないと悟ったとき、自然と足が向いたのは水族館という憧れを抱いた場所だった。
普段は公開されないエリアに特別に入る事が出来たのは実に幸運だったのだろう。
そこで出会うことが出来た唯一の存在が、私に向かい微笑みかけている。
私と彼女を阻む分厚い透明な板。決して触れる事の出来ないそれに、彼女の水ヒレの付いた白い指が触れる。
それを追うようにして私は指を近付け、体温を感じる事のない彼女とそっと手を合わせ瞼を伏せる。
視界が閉ざされれば耳に届く不思議な音。
それはまるで海の精霊が奏でる美しい歌のようで、何処かしら寂しい旋律には違いない。
いつか私もどこかへ帰るのかも知れない。
それがこの様に閉ざされた水の中ではなく、何処までも広がる深い海の底で有ればいいなと。
そんなことを思いながら、私は静かに涙を流すのだった。
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