第181話 おはよう

 一日のはじまりは「おはよう」から始まる。

 それは当たり前のように染みついた習慣で、特に意識したことも無く、当たり前のように繰り返される言葉。

 勿論、時間帯によってはその言葉を使うことに違和感を感じることもあるが、それを気にしてどうするんだとも思うから、敢えて考えないようにしている。

 でも……この人が言う「おはよう」だけは、絶対に聞きたくは無いと、毎日感じていた。


 いつも通学路で会うおばさん。全然名前とか知らないんだけど、毎日そこに居るから嫌でも顔を覚えてしまう。そのおばさんに会うのは憂鬱で、出来る事なら顔も見たくない。でも、通学路にいるからそんなわけにはいかなくて、毎日学校に行く時間がしんどくて仕方ない。

 そんなおばさんだが、彼女は決まって、同じ言葉を繰り返していた。

「おはよう!」

 特に何かあるわけではないし、朝の挨拶をされるだけだからそんなに警戒する必要は無いはずなのに、僕はどうしてもこのおばさんが苦手で仕方が無かった。

 どうして苦手なのかと聞かれたら説明に困る。

 それでも、このおばさんの顔を見ると、自然と表情が強張ってしまう。多分、生理的に苦手なタイプなのかもしれない。

 そのことをお父さんやお母さんに言ってみたことがあるけど、二人とも『朝の挨拶して貰えるのは良い事よ。どうしてそんなことを言うの』と、僕の話を真剣に聞いてはくれなかった。

 先生に言ってみたこともあったけど、先生もお父さんやお母さんと同じ反応で。「そんなことを言っちゃダメだよ」と困った様に笑うだけで、僕の話なんてまともに聞いちゃくれやしないんだ。

 だから僕は黙って居るしかなかった。だって、そのおばさんが僕に挨拶以外の何かをしてきたことなんて、一度も無かったんだから。


 夏休みが終わり新学期が始まった頃、時季外れの転校生がやってきた。

 その子は家の事情で祖父母の元に来たらしく、随分と都会的な雰囲気のある元気の良い男子生徒だ。偶然にも席が僕の隣になり、何となく話している家に仲良くしてもらえるようになった。

 彼の周りには自然と人が集まってくる。カリスマ性があるのだろう。何をやっても目立つというのが彼の印象だ。だからといって厭味なことは全く無く、どちらかというとお調子者で人気がある。そんな彼だから、クラスに馴染むのもとても早かった。

 そんな彼の一番仲が良い友達は、何故か隣の席の僕で、それがむず痒い反面申し訳無い気持ちもあった。まぁ、そんなこと、彼自身は全く気にしてなんかいなかったんだけど。

 正直に言えば、彼が僕の事を親友と言ってくれることに優越感は感じている。勿論それは、嫌な意味なんかじゃ無くて、僕みたいな平凡な人間でも、仲良くして貰えるんだって言う喜びの方が強くて。だからこそ、僕は距離感を間違えないように気をつけて居た。

 だからだろう。多少の嫉妬を向けられることはあっても、目立ったトラブルが起きることは無く淡々と毎日が続いてくれたのは。

 だが、それを良しとした僕とは異なり、彼の方は僕の態度に不満を感じていたようだ。

 それを知ったのは、彼が転校してきてから一ヵ月ほど経った頃。

 その日、僕は彼の家に遊びに来ないかと誘われたんだ。


 一週間前に新しいゲームが発売されたことは、とても鮮明に覚えている。

 そのゲームはクラスでも話題に上がっていたもので、シリーズの最新作だった。プレイしているクラスメイトも割と居て、男女ともに人気のタイトルだったんだけど、僕はお母さんとの約束でゲームをする時間は決まって一時間だけ。それに、予約のタイミングが合わなくて、今回は発売日に買って貰えなかった。

 当然人気のタイトルだから、売り切れという張り紙が無情に見えたし、入荷がいつなのかを聞いても店員のおじさんは判らないの一点張り。楽しみにしてい多分、落胆も大きくて、悔しくて泣きそうになってしまうくらいだった。

 そんな僕の不幸を救ってくれたのがこの転校生だ。

 彼は最新作のソフトを手に入れたから、一緒に遊ばないかと声を掛けてくれたんだよね。

 僕としては断る理由が無かったから、二つ返事で遊びに行くことに決めた。

 実を言うと、彼の家に行くのはこの日が初めて。一緒に帰宅することは何回かあったけれど、いつも途中で別れてしまう。理由なんて簡単で、僕と彼の向かう先が全くの逆方向だったからだ。

 だから結構楽しみにしていた。彼の家がどんな感じなのかってことを。


 彼の家は、思っていた寄りも大きな屋敷だった。後から聞いたところによると、地元に住んでいる大人は、彼の祖父母の事はよく知っているらしい。彼の両親は早くにこの地域を離れてしまったため、子ども達は近所に住む人は知っているがという感じだったが、確かにずっと小さい頃、彼の祖父は公民館の館長をしていたように思う。

 そんな彼の祖父母は、僕の事を快く迎え入れてくれた。

 それにもキチンと理由があって、都会から一人で預けられた彼に、親しい友人が出来るのかがとても心配だったらしい。おじいさんもおばあさんも良い人で僕は直ぐに好きになった。

 その日は結構遅い時間までゲームを楽しんだ。気が付けば空の色が茜に染まっているのに焦りを感じ、急いで帰宅する事を伝えると、おじいさんが送っていってくれる事になったのは幸いだ。

 彼と一緒におじいさんの車に乗り、我が家へ帰る帰り道。僕は彼との話に花を咲かせていた。

「あっ」

 ある場所に差し掛かった時、彼は小さく声を上げた。

「何?」

「あ…………うん」

 彼にしては珍しく歯切れの悪い返答。先程までの賑やかな雰囲気はどこへやら。何とも居心地の悪そうな態度で外を気にする様子に、僕は気になって彼の視線を追ってしまう。

「あ」

 そこで、漸く気が付いた。

「うん」

 彼が気にしていた場所は、いつも僕が通りたくないと憂鬱になる場所と全く同じポイントだった。

「お前も苦手なのか?」

 そう聞いてきた彼の言葉に、僕は素直に頷いて見せる。

「……みんなは気にすんなって言うけど、あのオバサン…………気味悪いよなぁ……」

 正直、僕はとても驚いた。

 朝に「おはよう」と挨拶をするだけのおばさんなのに、僕と同じように苦手だと感じている人がいるという事実に。

「うん。何か……怖い」

 そのことが何だか嬉しくて、何度も何度も首を縦に振る。

「そっかぁ。良かったぁ」

 そのおばさんのことを怖いと感じているのは俺だけかと思っていた。僕が同じように感じている事に気付いた彼も、同じように笑い胸を撫で下ろす。

「でも……なんで、あのおばさんが怖いって感じるんだろう?」

 改めて言葉にすると、違和感の覚える言葉。

「だって、あのおばさん、ただ『おはよう』って言っているだけなんだよね?」

 そう。そのおばさんはただ毎日、朝すれ違う人にあいさつをしているだけ。そのおばさんに暴力を振るわれたり、怒鳴られたりといったことは一切無いし、肩を叩かれたり腕を捕まれたりといったこともないのに、何故こんなにも恐ろしいと感じてしまうのだろう。

「隣のおばさんとそんなに変わらないのに何故……」

「……お前達は、一体誰の話をしているんだい?」

「え?」

 唐突にかけられた言葉。驚いて顔を上げると、フロントガラスの向こう側を見たままの彼のおじいちゃんが、不思議そうに言葉を続けた。

「毎朝、そこでおはようって声を掛けてくれるおばさんが居るんですけど、その人が何だか怖いって感じてしまって」

 感じている不安をどう説明して良いか悩みながら正直にそう答えると、おじいさんは困った様に首を傾げ小さく溜息を吐く。

「もしかしたらそのおばさんは、こんな感じの人じゃなかったかい?」


 おじいさんの言った女性の特徴は、僕たちが怖いと感じているおばさんととても良く似ていた。

「そうです。その人です」

 その質問にそう答えると、おじいさんは寂しそうに笑い「そうか……」とだけ答える。

「……あの人は、まだ、あの場所に囚われているんだなぁ……」

 それはどことなく悲しげで、虚しさをともなうもので。

 その一言で、僕たちはそのおばさんが『見えてはいけないもの』だったことに気が付いてしまった。

「大丈夫だ。あの人は、何もしてきやしないさ」


 あのおばさんが誰だったのか。

 気にはなったが最後まで聞く事は出来なかった。

 そして経つ年月。おじいさんが亡くなり、おばあさんも亡くなって。彼の両親が都会からこっちへ戻ってきて、彼は家族と一緒に暮らし始めた。

 いつの頃からか僕たちの目にはおばさんの姿は映らなくなり、あの道を朝に歩いても「おはよう」と言われることも無くなった。

 あれから随分経って、僕も今じゃ一児のパパだ。彼との友人関係も良好で、よく飲みに行ったりもしている。最近だと彼の方にも女の子が産まれたらしい。あと数年もすれば、僕たちの子どもも、あの道を通って学校へと通うのだろう。

「…………あのおばさん、一体、誰だったんだろうなぁ」

 あの日と同じように、僕は今、彼と共にあの道を歩いている。

「……さぁな。結局爺さん、なんも教えてくれなかったし」

 あのおばさんの謎は残ったまま。あの時に感じていた恐怖の正体も分からない。

「……もう、居ないと思う?」

 ふと足を止め、オバサンの立っていた場所に眼を向けると、彼は判らないと首を振り肩を竦めた。

「…………僕たちの子ども、あのオバサンが見えないといいね」

「そうだな」

 誰の目に映るか判らない者の正体。いつか、その謎が解ける日は来るのだろうか。

 そんな不安を感じながら、僕たちはそれぞれの家に向かって帰路についたのだった。

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