第179話 新規
ここに一冊の名簿がある。
名簿というからには、そこに記されているのは様々な人の名前だ。
勿論、名前だけではなく住所や電話番号、連絡の取れるメールアドレスと緊急連絡先などなど。その名簿を見ればある程度のことは把握できるというほど、詳細な情報が記載されている。
ただ、その名簿の中で一つだけ。不可解な記載欄が存在していた。
「…………これは?」
その名簿を目にしたのは本当に偶然だった。
「これ、何のための名簿だよ?」
その名簿を持っていたのは、俺の友人だ。ソイツとは幼少期の頃からの腐れ縁で、付き合いは随分と長い。
「何か、知ってる奴の名前もあるけど、知らない奴の名前もあるみてぇなんだが」
何故俺がその名簿を見ることが出来たかというと、ソイツがうっかり、それを落としてしまったからだ。
鞄を開き、中身を取り出そうと動いた拍子に、中から飛び出したものは一冊の黒いファイル。親切心で拾い返してやろうと差し出したタイミングで、皮肉にも強い風が吹き数枚ほどページが捲れてしまった。
当然、見る積もりなんて無かった。
彼の所有物なんて特に興味は無かったから。
だが、目に止まってしまった情報は、俺の好奇心を刺激するには十分だったらしい。
思わず差し出した手を引っ込め、自分の元へと名簿を引き寄せると、自らの意志で紙面に印刷されている情報を閲覧してしまったのだ。
それは、明らかに管理を目的とした作りのリスト表だった。
記載されているものは、フルネームを始め住所、電話番号、メールアドレスと言った一般的な個人情報がメインのようで、それ以外にも家族構成や年齢などと言った情報が掲載されていた。
ただ、この名簿の奇妙な所は、彼の知り合いの人間だけでは無く、見聞きした事の無い相手の情報も記録されているというところである。
それ意外にも、気になる箇所はまだあった。
例えば、この年齢を記載する欄。
「この数字って年齢のことだよな?」
年号を現すアルファベットと、その後に続く6桁の数字。それらは、記載されている人と記載されていない人が混在していて、とても中途半端な印象を受ける。
「どうして書かれている人と居ない人が居るんだ?」
その疑問は純粋な興味から出たものである。
「まぁ、お前が答えたくないって言うんだったら、深くは聞かねぇけどもよ」
そうは言っても気になるのは事実で、聞いた疑問に対しての返答が来ることを期待し待機してみるが、彼は一切答えること無く視線を逸らすだけ。
「分かったよ」
これ以上追求しても、欲しいと求める答えは手に入らないだろう。
そう判断した俺は、素直に名簿を返し歩き出す。
「何に使うつもりなのかは知らねぇけど、個人情報を集めるなんてあんまり良い趣味とは言えねぇぞ」
この時は未だ、【自分の言った言葉に対しての違和感】に気が付いて居なかったのだろう。
「……話せる時になったら話すよ」
「え?」
漸く口を開く彼が絞り出すように呟いた一言は、とてもか細く、風に掻き消されるように消えていった。
一人ずつ、身の回りの人間が消えていることに気が付いたのは、それから数ヶ月経った頃のことである。
消えたというよりは正確ではなく、実際は事故や病気で亡くなったという方が正しいかもしれない。
初めは地味なクラスメイト。次に素行の悪いクラスメイトと続き、近所に住む老人や、よく餌をやっていた野良猫、元気だったはずの教師など、突然の不幸に見舞われてどんどんこの世を去って行った。
人数が増えてきたところでその異常性に気が付き、二桁に到達した頃に漸く、この状況があり得ないものだと思い至る。
もしかしたら夢を見ているだけなのかも知れない。
そう考えたこともあるが、何度頬を抓ろうと、確かに残る痛みがこれが現実なんだと訴える。
何が起こって居るのかが分からず混乱したところで思い至ったのは、名簿の存在だった。
その名簿がこの奇妙な事件と関連しているかは分からなかったが、何となくそんな気がするという予感は確かにあった。
それが気になると、どうしても確かめたくなるのは人の性なのだろうか。
まるで取り憑かれたかのように彼を探し、名簿を見せてくれるように頼み込んだ結果、俺はあの時に見た名簿の中身を確認することに成功した。
「…………っ」
手渡された名簿には新規と言う文字と新しい名前。それは、思っていた寄りも多くの空欄に追記されてしまっている。
記載された名前に共通点はなく、掲載順番も規則性はない。情報は、備考欄に詳細が事細かく記載されている者も居れば、ほぼ空欄に近い者もいる。そして……最も不可解なのは年齢の項目。
「なぁ……この、年齢なんだけどさ……」
その言葉を口にした瞬間、俺は今まで感じた事の無い恐怖を感じた。
「……いや……何でも無い」
目の前に居る男が知らない人間に見える。
「見なかったことにするわ! ごめんな! 悪かったよ!」
慌てて名簿を閉じ友人に返すと、無意識に彼の視線から逃れるように走り出していた。心臓を鷲づかみにされたような苦しさに身体が痛みを訴える。
『見てはいけないものを見た』
本能的にそう感じたのは、友人だと思っていた男の顔から一切の表情が消えてしまったから。
好奇心は時として、大きな代償を払うことに繋がる。
「危ないっっ!!」
何処かからそんな叫び声が聞こえてきた次の瞬間。
「あ」
世界の全てが崩れ始めた。
強い衝撃が全身に伝わり、己の制御を離れてしまったそれぞれのパーツが動くということを放棄し始める。身体から逃げ出していく大量の赤い液体は、俺という存在を取り囲むようにしてアスファルトの上に広がっていった。
「……しょうがないよね」
最後に聞こえてきたのは抑揚のないそんな声。
「だって、君、見ちゃったんだから」
名簿に書かれていたのは沢山の氏名。その一番最後の欄に、新規として付け足されたものは…………紛れもない、俺自身の名前だった。
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