第174話 タオル
用意するのは洗い立てのタオル。柔軟剤の良い香りが、お日様の匂いと混ざりあって心を穏やかにさせてくれる。それは変哲も無い一本のタオルだったが、私はこのタオルがとても大好きだった。
私がタオルに拘るようになったのは、実家から引っ越したことが切っ掛け。新しい学校に通うため、一人暮らしをすることになったのが理由だ。
今までは実家で暮らしていたせいか、タオルなんて気にしたことはなかった。
タオル自体に興味を持ったことがなかった事と、親が洗濯をしてくれていたためか、タオルから香る匂いに魅力を感じたことがなかったことも原因の一つなのだろう。そうで無くとも、家にあるタオルなんてデザインはバラバラ。統一性は全く無く、中には工務店や公民館の名前が印刷されているものもあるくらいなのだ。機能性的には十分だとしても、愛着を持って使えるかと思ったらそんなことはあり得ない。そんなタオルだったが、一人暮らしをしてみると、タオルによって使い心地が全く異なる事に気が付いた。
そのことに気が付けたのは、隣で暮らしている品の良いご夫婦のお陰。その方達は、最近結婚したばかりの新婚で、随分と離れた土地から移住してきたのだと聞いた。とても幸せそうな二人ではあるが、詳しいことを語ろうとしない辺り、何か事情があるのかも知れない。あれこれと詮索するのも失礼だと感じ、お礼の言葉を伝え別れたのが初日の出来事。
こんな世の中だ。それほど深い付き合いをするつもりは無かったはずだが、どうやら向こうはこちらのことを気に入ってくれたようで、顔を合わせると軽く交わす挨拶。それから少しずつ仲良くなり、気が付けば食事を共にするほど親しくなってしまっていた。
向こうとしては、若い女性の一人暮らしと言うことも気になったのだろう。知らない土地に引っ越してきたばかりで、奥さんに友人が居なかったというのもあったのかもしれない。それでも、その条件私も同じで、気楽に話せる知り合いが増えたことは素直に嬉しいと感じてしまう。何だかんだと私の方が、この夫婦の優しさに甘えていたのかもしれない。
そんな彼らから貰ったものが、タオルの詰め合わせだ。
引越祝いでタオルとは思ったのだが、手触りがとても良いこのタオルは、直ぐに私のお気に入りになった。
使い心地も良く大切にしたいという気持ちから、洗剤や柔軟剤にも拘り洗濯を楽しむ。いつしか、家事の中で一番すきなのは洗濯に成る程、私はタオルの魅力に取り憑かれてしまっていた。
引っ越してから二年が過ぎた頃だろうか。隣のご夫婦にお子さんが出来たのは。
妊娠の初期段階から色々と相談され、他人ながら新たな生命の誕生を共に喜ぶ。授業やバイトの落ち着いている時は、率先して奥さんのサポートに入り、旦那さんにそのことを連絡することも当たり前のこと。この二年で築いた信頼関係は、私が思っていた寄りも大きなものだったのかもしれない。奥さんのお腹が大きくなるにつれ、私は未だ見ぬ赤ちゃんと会える日をとても楽しみに感じていた。
出産予定日が近付くにつれ、奥さんの体調が悪くなっていることに気が付いたのは、一週間前ほどの話だ。
つわりが酷いのだろうか。一日中怠そうにソファで項垂れている彼女の姿を見ると、心が痛くて仕方が無い。
食欲がない言われても、元気な赤ちゃんを産んで貰いたい一心から、私は彼女が食べられそうなものを探し慰める。私の好意を無理に作った笑顔で受け取ると、彼女は苦しそうにしながらも、自身と赤ちゃんのために頑張ってくれた。
こういう時感じるのは強い無力感だ。
苦しみの後の喜びがあることは分かっていても、それを肩代わりできる訳では無いもどかしさ。悲しいが、私が出来る事と言ったら、滞ってしまった家事を代行することと、彼女を励まし元気づけることくらいしか思いつかない。
そんな中、遂に始まってしまった陣痛。丁度在宅していた私は、隣から聞こえてきた大きな音に不安を感じ、慌てて隣の家に飛び込んだ。
案の定、床の上には苦しそうに倒れ込んだ奥さんの姿。慌てて救急車を呼び、同伴した病院で旦那さんを待つ。お願いだから無事に生まれてきて欲しい。ただ、それだけを願い待つこと何時間が経過したのだろう。気が付けば、私は病院のベンチで意識を失ってしまっていた。
旦那さんに起こされ通された病室では、疲れ果てたスタッフが暗い表情を作っている。
幸いにも出産した赤ちゃんは健康で、今は保育器の中で眠っているらしい。それでは奥さんは……と疑問に思い尋ねると、その言葉には答えずそっと視線を逸らされてしまった。
その態度から私は全てを察知する。恐れていたことの一つが現実になったとき、とてつもない喪失感を味わうんだという事を、身を以て理解した。
妻という存在を失った旦那さんは、酷く落ち込んでしまっていた。それもそのはずで、彼は彼女の事をとても愛していたのだ。新しい命の誕生で新たなる家族の形が作られていくことを楽しみにしていたのは、奥さんだけではなく旦那さんも同じ事。それなのに、必要なピースは新しい命と引き換えに欠けて消えてしまった。もう二度と、そのワンピースが嵌まることは無いのだと言う事が、とても悲しくて仕方が無い。
それでも、時間は少しずつ前へと進んでいく。新しい命を育てる事を託された彼は、自分の意志で生を終える事を許されなかった。不慣れながらも懸命に子育てを始め、沢山の失敗を経験しながら少しずつ逞しくなっていく姿は、とても格好良く私の目に映った。
いつしか、私は、直ぐ傍で彼らの事を支えてあげたいと思うようになっていた。
勿論、私は彼らからしたら仲の良い他人にしか過ぎないのだろう。それでも、彼らの形作るドラマの一部にエキストラとして出演した以上、その結末を見たいと思うのは仕方が無いことなのだ。
シングルで子育てを行う旦那さんのサポートを進んで引き受け、少しずつ、私という存在が彼らの中に溶け込んでいく。
そして、気が付けば。
私はいつの間にか、彼の隣に立ち、共に子育てを行うためのパートナーとなっていた。
取り出したのは一本のタオル。
それは、あの時と同じように柔らかく、とても良い匂いをしている。
カウンターに立てられた写真立ては二つで、とても綺麗に笑う女性と、豪快に笑う私が写る写真が一枚ずつ。息子はどちらの写真も好きだと言って嬉しそうに笑ってくれる。娘はもう一人のお母さんに会いたかったと口を尖らせながらも、照れくさそうに顔を逸らし、そして笑ってくれるのだ。
もう暫くすれば旦那さんが帰宅してくれるだろう。
「早く、顔を拭いてきなさい」
そう言って息子に手渡した真っ白なタオルは、彼女が私にくれた思い出の品。
「そうねぇ……じゃあ、今日のご飯は何が食べたい?」
彼女が出来なかった事を私がしている罪悪感はあれど、彼女が彼に託した大切なものを、私はずっと守ってあげたい。今日選んだ夕飯のメニューは、息子が大好きな料理のレパートリー。
それは、私が彼女から教えてもらった、とても美味しい家庭料理で、私も大好きなものだった。
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