第153話 お手本

「このお手本を見て作品を作って下さい」

 目の前に置かれた一つのオブジェ。それは決して上手いとは言い切れない奇妙な造形をしている。

 芸術の善し悪しなんて分からないが、目の前の人が美術の講師だということは辛うじて分かるため、素直にその指示に従って手を動かす。

 正直、このオブジェはそれほど良いものなのかと疑問を感じているのは否めない。それでもこの美術教室は彼が経営しているわけだし、それなりに受賞経歴もあるようだから、一応このオブジェには価値というものは存在しているのだろう。

 そもそも、美術品の中には一見するとセンスを疑うように先進的なものも存在している。

 評論家がこぞって彼を称えるのは、彼の先見性に焦点を当て絶賛しているからなのかもしれない。

 だが、私のような凡人にはその良さは分からない。だからこそ、彼の作品を見ても気の利いた言葉なんて何一つ出てくることは無かった。

 それならば何故私がこのような教室に通っているのかというと、単純に暇つぶしが出来る趣味が欲しいと思ったからだ。

 恥ずかしい話だが、私には趣味と呼べるようなものが殆どない。

 好きなものが何かと聞かれると、大分長い時間悩んで漸く「散歩?」と答えるのが精一杯。読書や映画鑑賞などスタンダードにアピールしやすい回答をすれば良いのだろうが、作品について突っ込まれると言葉に詰まるためそれは出来ず、スポーツで適当な物を選ぼうと思っても運動音痴のため身体を動かす誘いは、どうしても参加の難易度が高くて背を向けてしまう。

 色々悩んだ結果辿り着いたのが近所の美術教室に通うこと。そんな単純な理由から、今、私はこうしてこの場所に居るというわけだ。

 意外なことにこの教室に通うようになってから、一つ発見した事がある。

 私自身芸術的なセンスが有るわけでは無いが、何かを作るという行為をすること自体はどうやら好みのようだということだ。

 何も考えず手を動かし、真っ白な空間に新しい形を作り出す。漠然とした偶像が目に見える形になっていく様はとても気持ちが良い。

 何故それを作るのかという理由は私自身にも理解出来ているわけでは無いが、仕上がった自分の作品は拙いながらも嫌いでは無かった。

 とは言え、私は芸術に関してはずぶの素人。まだ入口に立ったばかりのヒヨコの状態である。

 だからこうして、先生のお手本にそって、複製物を作るという事に重点を置き学んでいると言うわけだった。

「この形を見て感じた思いを、自分の作品に混ぜ表現して貰っても構いません」

 独りよがりの芸術品は相当な自信作なのだろうか。やけに熱の入る物言いに首を傾げながら私は粘度をこね上げ形を削り出す。

 見える角度が異なると、造形の印象が変わる不思議なオブジェ。

 これを見て何を感じろと言うのだろう。そんな疑問を感じながら手を動かしていると、不意に不思議な感覚に襲われ手を止めてしまった。

「……………………」

 目の前にあるのは歪な形をしていた意味を成さない造形だったはずだ。

 それなのに、私の手元にあるものは、見本とは全く異なる形を形勢している事に気が付く。

「へぇ」

 いつの間にそこに居たのだろう。先生が私の後ろに立ち手元の作品を覗き込んでいた。

「貴方にはこのように見えていたのですね」

「え?」

 驚いて振り返ると、彼は楽しそうに目を細め小さく頷いた後、私の肩を叩き離れていく。


 先生は、一体何を考えているのだろう。

 不安に捕らわれ、震える両腕。


「芸術とは、心で感じるものだと私は思います」

 突然先生がそんなことを口にし、手を叩き大きな音を立てた。

「だから、自分に素直になって、好きなように表現するのが正解ですよ。必ず見本の通りにならなくても構いません。それは、皆さんだけの唯一の素晴らしい作品なのですから」


 その言葉は一体何のためにみんなに伝えたのだろうか。

 見本とは全く異なる形となった私の作品は、一体何を表現したいものなのだろう。

 私へと真っ直ぐに伸ばされた一本の腕が、私の手を握ろうと今にも動き出しそうな造形に、思わず背筋に怖気が走ったのだった。

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