第118話 タンブラー

 定期的に通うコーヒーショップに向かう足取りは軽い。肩に掛けたトートバッグの中には、お気に入りの本とタブレット端末。筆箱に手帳、化粧ポーチとその他色々。そしてマイボトル代わりに使っているタンブラー。

 中身はまだ空っぽで、今日は何を入れようかなんて。そんなことを考えながらのんびりと歩く。これから待っているのはちょっとした楽しみ。それは、私に取って何よりも贅沢で充実した時間である。


 そのコーヒーショップを見つけたのは、本当に偶然の事だった。

 数日間、家に籠もって仕事。その目処が経ちデータを納品してやっと得られた開放感。気が付けば買い置きの備品や食材も底を尽きかけていることに気が付き、久方振りに家の外に出たのがきっかけ。いつもならば目的地に自転車で行って直ぐに帰ってくるのだが、その日は何だか外を歩きたい気分。だから少しだけお洒落をしてのんびり外を歩いていた。

 天気が良かったというのも理由にあるのだろう。気温が上がり多少感じる蒸し暑さはあるものの、風が吹けばそれなりに涼しい。足元に出来た影を選びながら、直射日光を避けるように移動して行けば、普段は見落としてしまっていた路地の存在に気が付いたのだ。

「あれ?」

 こんな所にこんな道なんてあっただろうか?

 ふと湧いた興味。芽生えた好奇心を抑えることが出来ず、そのままその道へと足を進める。

 路地は見た目よりも大分道幅が大きく開けていて、思ったよりも開放感があった。

「あ。もしかしてここ、ショートカットできるのかも」

 暫く歩いていると見慣れた道の景色が見えてくる。目の前には良く見る看板。ずっと前から気にはなっていたコーヒーショップのロゴが目に止まった。

「へぇ。ここに出てくるんだ」

 新しい発見をするとそれだけで楽しい気分になれる。どうせ今日はこの後何も予定が無いのだ。ずっと気になっていたのだから、思い切って入ってみようかななんて。そんな気持ちで店の入り口へと近付けば、困った様に店頭で悩み続けているお爺さんの姿が目に止まった。

「……あの」

 今日はお店に入ってみる。そう決めてお店の前まで来たのに、これではお店に入れない。申し訳ないと思いながら声を掛けてみれば、お爺さんは飛び上がって驚いた後、私の方を見て申し訳なさそうに頭を下げたのだ。

「お店、入らないんですか?」

 非常に気まずい空気が流れる。何か会話をと思い店のドアを指差しながらそう尋ねると、お爺さんは恥ずかしそうに俯いてこう答えた。

「入りたいんだがね……なんというか、恥ずかしくてね」

 私は始め、何を言われているのかが分からなかった。だが、その言葉はお店のドアを開けて直ぐに分かってしまう。

「あ」

 なるほど。そう言う事か。と。

 店内はクラシックな雰囲気が漂う落ち着いた空間だが、そこに居る客は予想に反して年代が若い。確かにお爺さんが一人だと浮いて見えるだろう。彼には申し訳ないが、思わず納得し小さく頷く。

「じゃあ、お爺さん」

 そうだ! と。私は軽く手を叩きこう提案してみた。

「私と一緒にお店に入りましょう!」

 その誘いは吉と出るか凶と出るか。正直どうなるかは賭だった。これで断られたら恥ずかしいが、もし私が同伴することでお店に入りやすくなると感じるのだったら、小さな人助けが出来るというもの。にこにこと笑いながらお爺さんの返事を待っていると、彼は困った様に鼻の頭を掻いた後、頬を真っ赤に染めながらぽつりと呟く。

「こんなお爺さんが一緒でいいのかい?」

 どうやらお誘いは快く受けてくれるようだ。

「大丈夫です! 私も始めてこのお店に入るので、ちょっと緊張してますから」

 それじゃあ行きましょう! そう言ってお爺さんの手を取ると、涼やかなベルの音を鳴らして開かれるドアを潜り店内に入る。

「いらっしゃいませー」

 その日、私はお爺さんをナンパして新しいお気に入りの店を手に入れた。これがお爺さんとの初めての出会いだ。


 お爺さんはどうやらこの近所に住んでいるらしい。

 出会いは偶然。何度かお店の前でばったり出会い、その内約束をしてお茶を飲み会う程仲の良い友人関係へと変わっていく。

 流石年の功とでも言うように、お爺さんのお話はとても面白かった。

 未熟な私にはためになる話の方が圧倒的に多く、様々な助言も頂けたりととても有り難い。きっかけは予想外だったが、その出会いには素直に感謝している。

 いつまでもこんな穏やかな日々が続くものだと。

 次の約束を繰り返す度、いつしか私はそんな風に考えるようになっていた。


 それでも、いつまでもそれが当たり前であるということは有り得無い。

 別れは常に突然に訪れる。

 いつの頃からだろう。お爺さんがお店に訪れなくなってしまったのは。

 連絡先は交換していたが、いつも店内で次の約束をしていたから、今まで連絡を取ったことは一度も無い。なかなか持てない勇気からか、電話をする手が震えてしまう。

 やっとの思いで番号を呼び出し電話が繋がることをただひたすらに待つ。

 ワンコール、ツーコール。鳴り響く呼び出し音の音が繰り返される度広がる不安。

 コール数のカウントを諦め通話を止めようと指を動かした瞬間、今まで反応の無かった送話口から知らない声が聞こえてきた。

『もしもし』

 電話を取ったのは女性。私は暫し黙った後、恐る恐る口を開く。

「あ……あの……」

 私が誰であるのか、この電話はどういう目的でかけて居るのかを相手に伝えれば、充分の沈黙の後、女性はゆっくりと喋り始めた。

『あなたが、父のお茶のみ友達だったのですね』


 語られる内容は考えたくもなかったそれだ。

 何となく予感はあった。

 それでも、出来る事なら嘘であって欲しいと。そう願わずには居られなかった。

 だが、始めて訪れたこの場所で、真っ黒に縁取られた額の中に収まる笑顔のお爺さんは、確かに私がいつもお話をしていた大切な友達。ゆらりゆらりと立ち上る線香と、まだ新しい遺影が、彼がもうこの世に居ないのだと言う事を物語っていた。

「いつもありがとうね」

 そう言って涙ぐむのは、電話に出てくれた女性。お爺さんの娘さんのようで、私の手を取り何度も、何度もお礼の言葉を告げる。

「父がね。いつも楽しそうにあなたのことを話すの。今日は何があったんだよ、どういう話をしてどんな風に喜んでくれたんだよって」

 娘さんの話を聞く限り、お爺さんにとって私と会うお茶の時間はとても楽しいものだったらしい。お礼を言うのは私の方なのに、そんな風に言ってもらえたことが嬉しくて思わず泣いてしまった。

「私の方こそっ……いつもっ……いつも、たのしかった……ですっ……」

 もっと早く出会うことが出来て居れば、もっともっとお爺さんとお話が出来たのに。

 もっと早く家を尋ねることが出来て居れば、こんな風にさようならが言えなかった別れになんてならなかったのに。

「でも、父は本当にあなたのこと、大切なお友達として大好きだったと思いますよ」

 宥めるように背中を撫でて貰ったとで、娘さんは一度場を離れる。暫くして戻ってきた彼女の手にあったのは一つの箱だ。

「これね。父があなたにって買ってあったみたいなのよ」

 受け取ってくれない?

 差し出された箱を受け取り促されるまま開いてみると、中にはシンプルなデザインのタンブラーが一つ。

「あなたがいつも美味しそうにお茶を飲むから、それを是非使って欲しいんだって。はりきっちゃってね」

 それはずっと前、私がお店で見て居た商品。手持ちのお金が無かったのと、今は必要じゃないと判断して店頭に戻したのを、お爺さんはしっかりと見てくれていたのかもしれない。

「是非受け取ってほしいの」

 こんな高価な物もらえません。そう言葉に出しかけたが、それをぐっと呑み込むと、私は小さく頷きこう答える。

「ありがとうございます」

 精一杯の笑顔で受け取ったタンブラーを抱きかかえると、娘さんも嬉しそうに笑いながら「ありがとう」と手を重ねてくれた。


 定期的に通うコーヒーショップに向かう足取りは軽い。肩に掛けたトートバッグの中には、お気に入りの本とタブレット端末。筆箱に手帳、化粧ポーチとその他色々。そしてマイボトル代わりに使っているタンブラー。

 お店に入ると必ず決まって窓際の席に。マイボトルにその時の気分で飲みたいお茶を注文し、向かい側には一杯分のダージリンを一つ。

 もう言葉を交わす事はできなくても、その時の空気だけは大事にしたいし忘れたくない。


「ねぇ、今日ね……」


 今日は何の味を楽しもうか? 空っぽのボトルが今、柔らかい思い出を求めて蓋が開かれたのだった。

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