第86話 はじめまして

 はじめまして、こんにちは。あなた様にお会いできて、大変嬉しく思います。

 私は当施設の管理人をしている者です。この度は、あなた様の案内係を務めさせていただけることとなりました。どうぞよろしくお願い致します。

 さて。

 あなた様は当施設のご利用は始めてでお間違いございませんよね?

 当施設は会員様限定となっているため、通常でしたら一般の方のご利用ははお断りさせて頂いておりますが、現在キャンペーン期間中のため、全施設を一般客にも開放しております。全ての施設をお楽しみいただけますので、お気軽にスタッフにお申し付け下さい。

 ただ、一点だけ。注意して頂きたいことが御座います。

 当施設では、会員様と一般のお客様との区別をつけるため、ご利用の際には『合い言葉』というものをお願いしております。

 合い言葉はそんなに複雑なものではございません。たった一言だけ「はじめまして」と仰って頂ければ問題ありません。

 当キャンペーンにおきましては、施設のご利用は全て無料でして頂けることとなっております。入場料のみ一律五百円となっておりますので、安心してご利用くださいませ。


 そう言って通された施設は、一般的な保養施設。会社で配られた優待券の使用期限が迫っているため急いで訪れた。そんな感じだった。

 施設自体は使用が初めてだったからだろう。こんな風に利用の案内を丁寧に説明されたのは。

 正直、会社で配られている優待券を使用しているのだから、一般の人と同じ枠の扱いというのはどうなのだろうと疑問に思う。とはいえ、一個人としてはこの施設を利用するのは確かに始めてなのだ。敢えてそう説明されているのであれば、そのルールに則っておいたほうが無難な気もしていた。

 そもそも、基本的には自発的に考えるより流される方が楽な気質。面倒くさい事を回避したいということもあり、予めルールが決められているのであればそれに準ずる方が楽だとは思う。だからこそ、この妙なルールについて、深く考えることはしなかった。

 この場所は敷地面積は予想より広く、保養施設の概要としては、リラクゼーション、宿泊施設、大浴場にサウナなど一般的なものから、温泉やレジャーなど思った以上にいろんなものが楽しめるようになっているようだ。これらは基本的には会員限定で受けられるサービスとなっており、一般客には公開されていない。そう言われても確かに納得はできる内容だと素直に頷けるほど充実している。ここで疑問に思うのは、何故キャンペーンと称して一般客にサービスを公開したのかということ。わざわざ利用の際にルールを説明するくらいなのだ。利用者が全く居ないと言うわけではないだろう。

 しかし、その疑問も次の瞬間にはアッサリと解決してしまう。

「ああ。なるほどな」

 掲示板に掲げられたポスターには、でかでかとした赤い太文字で「会員募集中」の文字が書かれている状態。年会費が思ったより高額のため、会員登録するには躊躇ってしまう人も居るのだろう。少なくとも自分はそのタイプなので、この施設がどれだけ使い勝手が良くても、継続的に利用するかどうかは考えてしまう。結果、経営が上手く回っていない。多分、そんなところなのだろう。

 これだけ巨大な施設を運営していくのだ。維持費だけでもバカにならない。割と現実的な理由から、一般客から今後の見込み客を集客したい。そういう狙いがあるのかも知れないと一人頷く。

 それにしても、これだけ施設の規模が大きいと、一日ですべてのサービスを利用するのはなかなか骨が折れるというものだ。

 幸いにも休暇は数日に渡って取得できているし、利用日数はこちらで決められるというかなり融通の利くスタイルのようで。折角なので思う存分堪能しておきたい。そんな出来心から、時間ギリギリまでこの施設に留まる事を決める。

 一日、また一日と、施設に滞在するたび受けるサービスの種類は増えていく。最初の頃はルール通り毎回「はじめまして」と言っていたのだが、こう何日も滞在していると、段々その合い言葉を言うのも面倒臭いと感じてしまう。

 それでも一応はルールに則って合い言葉を律儀に言っては居た。最終日、最後の施設を利用するまでは。


 合い言葉がないようですが、お客様は当施設の会員様でしょうか?


 その言葉を言われた瞬間、全身から血の気が引いたのを良く覚えて居る。

「あ……す、すいません」

 必ず言う事と念を押されていたのに、うっかりやってしまったミスに全身から吹き出る汗。

「合い言葉を言うのを忘れてしまって……」

 たった一回のミスではあるが、場の空気は非常に悪い。とはいえ、人間誰しも完璧に居られると言うわけではない。誠意を尽くし過ちを認めた上で丁寧に謝罪をすれば許してもらえる。なぜかそう信じて疑わなかった。だからこそ、忘れていたことを正直に話し、深々と頭を下げて許しを請うたのだ。


 申し訳御座いませんが、合い言葉を仰って頂けないのでしたら、当サービスをご利用することは出来ません。


 しかし、現実はそうそう甘くはないようで。どれだけ頭を下げても、案内人が分かりましたと許すことは一切無く、サービスの提供は出来ませんと突っぱねられてしまう。

 ここで諦められれば良かったのだが、これまで時間をかけて全てのサービスを利用してきたのだ。最後の最後で取りこぼしがある状況は何とも気持ちが悪い。

 どうにかして利用出来ないかと粘り強く懇願してみたところ、案内人は深い溜息を吐きながらこう言葉を返してくれた。


 サービスの内容に一部変更が御座いますが、特別にお客様のご要望にお応え出来るかどうか、検討させて頂きます。暫しお待ち頂いても宜しいでしょうか?


 この申し出は願ったり叶ったり。二つ返事でよろしくお願いしますと頭を下げ、結果が伝えられるのを待つこと数十分。


 お待たせ致しました。ご案内致しますので、こちらへどうぞ。


 案内人の誘導に従い施設内を移動しながら、最後のサービスを受けられることにほっと胸を撫で下ろす。案内人の後を追うこと数十秒。目の前には真っ赤で豪華な観音開きの扉が現れた。

 

 こちらで御座います。


 この時に引き返して置けば。そう思うのはもう少し後の事。重厚感のある音を立てて開かれる豪華な扉の向こうから溢れ出す臭いは、嗅ぎ慣れない独特の臭気。

「ちょっとまってください! コレは一体どういう……」

 慌てて案内人の方へと顔を向けると、いつの間に装着したのだろうか。案内人はガスマスクを着用し「中へどうぞ」と手招いている。


 如何なさいましたか?


 この先に進んではいけない。

 本能がそう告げている。

 だが、その警告に気が付いてももう既に遅い。

 身体の感覚が無くなり糸の切れたマリオネットのようにがくんと膝を突き項垂れる。自分の意思では動かす事の出来ない身体のなんと重苦しいことか。

 自由を失った身体は奥から現れた別のスタッフにより部屋の中央へと引き摺られていく。意識だけはハッキリとしているのに、何もかもが思い通りにいかない状況に、気持ちだけが焦り嫌な汗が噴き出てしまう。


 だから、合い言葉はしっかりと伝えて下さいと。


 あれほど強く言ったのに。そう伝えた案内人の、マスク越しの目が細く弧を描いた。


 以上を持ちまして、当施設の全てのご利用を終了させて頂きます。

 尚、この度のキャンペーンにつきましては、今後のアンケートの内容を参考に不定期で開催する可能性が御座います。

 その際には是非とも、またのご利用をよろしくお願い致します。

 その時は必ず、『はじめまして』の合い言葉を忘れぬよう、どうぞよろしくお願い致します……。

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