第78話 霧

 今は朝という時間の筈なのに、どこを見ても真っ白だ。


 カーテンを開いて現れた窓の向こう側。透明な硝子の先に映ったのは先の見えない世界。

 昨日までは確かに、そこには見慣れた町の風景が広がっていた。邪魔だなと感じる電信柱から伸びた電線が、目の前にあったはずなのに、今は何も見ることが出来ない。

 完全なる濃霧。それが、今目の前で起こって居る現象だった。

「母さん! 外!!」

 慌ててベッドから飛び降り、部屋を飛び出る。二階から一気に階段を駆け下りキッチンへ飛び込むと、ふんわりとした朝食の美味しそうな香りが鼻孔を擽った。

「母さん!」

 しかし、そこに母親の姿は見つからない。確かに人がいた気配はあるのに、そこに欲しい相手の姿だけが見当たらなかった。

「トイレにでも行ってるのか?」

 付けっぱなしのコンロを消し、鍋の蓋を被せてからトイレに向かう。用を足している最中だと悪いから、ドアを数回ノックして向こう側に居るかどうか声をかけるが、返事が返ってくる気配は全く無い。

「母さん?」

 もしかして、中で倒れているのだろうか。

 嫌な想像が頭を過ぎり、乱暴に扉を叩き母親を呼ぶが、これだけ声を張り上げても母親からの応答は無かった。

「開けるよ!?」

 鍵がかかっていたらどうしようなんて一瞬考えたが、その時はその時。扉を壊してでも中に母親が居ないかどうかを確認するのが最優先だ。

「母さん!!」

 だが、その心配も杞憂に、トイレへと繋がる扉は呆気なく開いてしまった。

「…………かあ……さん…………?」

 小さく音を立てて開いた扉の向こう側には、無人の空間が広がっている。

「トイレじゃないのか……」

 個室で意識を失っている訳では無いことが分かり安心したと同時に、それならばどこに行ったのだろうという不安が再び顔を擡げる。

「母さん?」

 バスルームに洗面所。リビング、ダイニング、キッチンに寝室。クローゼットや物置も軽くチェックしてみるが、やはり母親の姿は見つからない。

「……どこ、行ったんだろう……」

 ふと、壁に掛かったカレンダーに視線が止まる。昨日の日付を思い出し、今日が日曜日だという事を思い出した瞬間、またしても違和感を感じた。

「そう言えば、父さんと妹は……」

 母親だけでは無い。父親と妹の姿も見当たらない。

「マルもどこに行ったんだろう?」

 それどころかいつもなら飼い主の姿を見ると、嬉しそうに尻尾を振って駆け寄ってくる筈の愛犬の姿も見当たらない。確かにさっきまで人がいた気配はあるのに、一瞬にして姿を消してしまったように家の中がしんと静まりかえっている。

「お……おい……。冗談、よせよな?」

 うちの家族はこんな悪戯は好まないはずなのに、なんだってこんな日に限ってそう言うことをするんだ、と。悪態を吐きながらもう一度家中の部屋を確認して回る。

 しかし、どこにも家族の姿は見当たらなかった。

「何だよ……これ……」

 リビングのカーテンを開くと、相変わらず外は真っ白な霧に包まれている。休日に庭いじりが趣味の父親が一生懸命手入れした植物たちは、霧に食べられその姿を確認することが出来ない。

「こんな日に勘弁してくれよぉ……」

 溜息を吐き頭を抱えたと同時に鳴り響いた腹の音に、緊張感の無い自分の体が情けなく感じ憂鬱になる。

「……どうしよう」

 幸いにも食事は用意されている。それでも、自分一人だけが食事をするのは気が引ける。何より、この奇妙な状況で呑気に食事をしようとは思えない。空腹を訴える腹を軽く叩き、どうするべきかを考えるべくリビングのソファへと腰を下ろし天井を見上げた。

「そうだ……携帯……」

 もしかしたら携帯電話を持ってで抱えたのかも知れない。何故そんな単純なことに気が付かなかったのだろうと笑いながら自室に戻り、充電機に繋がれていた携帯電話を手に取り家族の番号をプッシュする。

「ん?」

 本来なら数秒の待機時間の後に相手の端末を呼びだすコール音が耳元に届く筈だった。

「え?」

 しかし、何故かコール音が鳴る前に電話は一方的に切られてしまう。

「充電されてない?」

 慌ててディスプレイを確認すると、電池マークの隣に表記されている数字は100%。電池の残量はたっぷりある状態だ。

「ネットは……」

 通信アプリを起動しメッセージを送ると、メッセージ自体は送れるようだった。数秒待ってみるが既読マークは一切付かないため、もう一度連絡が欲しいとメッセージを飛ばす。

「外、どうなってんだよ」

 少しでも情報が欲しいとブラウザを立ち上げサーチエンジンで情報を検索するが、役に立ちそうな情報は一切無く、同じ様な状況に見舞われている人達が困っているとSOSを送っていることだけを確認して終わってしまう。

「テレビ……」

 何でも良いから情報が欲しい。そんな気持ちが働いたのだろう。リビングへ戻ると、テレビの電源を入れチャンネルを片っ端からチェックして回った。

「……………………」

 こういう時に限って速報が役に立たないとはどう言うことなのだろう。ニュース番組は全滅、テレビはどの番組もバラエティとトーク番組ばかりで、画面の端に速報ニュースが入っている気配も無い。

「うーん…………」

 再び家の中を家族の姿を探して歩き回っていると、玄関の鍵が開いていることに気が付いた。

「……もしかして……外に……行った?」

 こんなに濃霧が出ているのに、外出するのはどうなんだろう。そんな疑問を抱きながら、もしかしたら、出掛けたときはまだ天気が良かったのかも知れないとも考え玄関へと向かう。

「……………………まさかなぁ」

 ドアノブに手を掛けたところでいやいやと首を振る。この扉を開けて外の状態を確認しても、窓硝子越しに見えた濃霧の状況は変わらない。そうでなくとも、この扉を開けるなと本能が警告を発しているのだ。嫌な汗が頬を伝う。


『ドンドンドンドンッッ!!』


「ひぃっ!?」

 突然、強い力でドアを叩かれ咄嗟にドアノブから手を離した。二、三歩後ずさり、驚いて大きな音を立てる心臓を抑えながら荒い呼吸を繰り返す。

「なんっ……」

 もう少しでパニックが起こる。そんな気がするからだろう。じわりと涙が滲み悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えてしまったのは。

「誰だ!!」

 ドアを叩くのを止めて欲しい。そんな思いから精一杯の虚勢で大声を張り上げる。

『ちょっと! 居るの!?』

 ドアの向こう側から聞こえてきたのは探していた母親の声。

「母さん!?」

 慌ててドアに駆け寄りドアノブに手を掛けたところで、母親が扉の向こうでこう叫んだ。


『早く開けて頂戴!! 鍵が閉まってて開かないの!!』


 それを聞いた途端、体が硬直して固まったように動かなくなってしまった。


 母は一体、何を言っているのだろう。


 相変わらずドアを叩く音は続いている。


 鍵がかかっていると言っているが、そんなことはあり得ないのに。


 ドアノブを握った手が小刻みに震え出すのを止められない。


『お願いだから早く開けて!!』


 ドアの鍵はずっと開いている。ドアノブを倒せば直ぐにでもこちら側と向こう側が繋がるというのに、おかしいことを言っているのはどうしてだろう。


『ハヤクアケテヨォォ……』

「うわぁぁぁあっっっっっっ!!」


 この扉の向こう側に居るのは一体何だろう。

 数歩前も見えないほどの濃霧の向こうで、一体何がドアを叩いているのかが分からず、急いで鍵を掛けると、その正体を確認することもせずその場で蹲る。

 鳴り止まない催促の声。

 それを聞きたくなくて、強く耳を塞ぎキツく瞼を閉じてから、ただひたすらに「帰ってくれ」と叫び続ける事しか出来なかった。 

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