第48話 歌

 放課後になると、いつも決まって音楽室から歌声が聞こえてきた。

 それはとても透き通るように綺麗なソプラノボイス。

 歌われる歌詞は、その時によって異なってはいたが、瞼を閉じると歌詞として切り取られた情景が目の前に広がるような、不思議で温かな音色だった。

 その歌に始めて気が付いたのは、赴任して一ヶ月たった頃。

 なかなかクラスに馴染むことが出来ず、一人落ち込んでいた私は、中庭の花壇で、項垂れるようにして座り込んでいた。

 頭上に広がるのは憎たらしいくらいの青なのに、その晴れやかな明るさとは裏腹、私の心はどんよりと曇り空。もう、何日もそんな状態が続いていることに、いい加減気が滅入ってしまう。

 ただでさえ人との付き合いは苦手なのだ。一対一でも精一杯なのに、一クラス分の人間を相手に上手く立ち回ることが出来るほど、経験が豊富な訳でもない。

 まだこの校舎のことすら把握出来て居ないのに、どうやって一人一人の人間を覚えて行けば良いのかと名簿を睨む。

 悲しい事に、私が学生だった頃に比べて今の子は名前が読みにくい。時代による流行というものがあると分かってはいるのだが、読み仮名を振ってやっと読める漢字や、読み仮名が振られていてもどうしてその読み方をするのか分からない漢字も多数あって、頭はますます混乱してしまう。

 顔と名前が一致しない。

 山積みのまま増えていく課題に軽い頭痛を覚え、思わず深い溜息が出てしまった。

「あー……もう。嫌になっちゃう」

 何故、この仕事を選んだのだろう。

 その後悔は、定期的にやってくる。

 勿論、この職業に就きたいと願ったのは自分自身だ。そのために勉強し、実習を経てちゃんとした教師になったのだから、本来は後悔をする方がおかしい。

 それでも、憧れと現実は大きな隔たりがあり、その溝を埋める事はなかなか難しい。理想が高くなれば成る程、思い通りに行かない現実に苛立ちが積もり何もかもが嫌になってしまう。

 完璧を求めすぎなのだと頭では分かって居る。

 それでも、それを受け流せるほど器用な人間には、まだまだなれそうにないことが悔しくて仕方が無い。

「今日、飲みに誘ったら付き合ってくれるかなぁ……」

 学生の頃からの親友の顔が、ふと思い浮かぶ。彼女はいつでも、私の話に真摯に向き合ってくれる。時には優しく慰められ、時には厳しく突き放され。それでも不思議と、彼女に悩みを相談することで、私の中の気持ちが綺麗に整理されていくのだ。

 とても有り難いことだといつも思う。

 携帯端末を手に取り簡素なメッセージだけを入力して押す送信ボタン。返事が返ってくるのは多分もっと後。出来れば断られませんようにと願いながら、顔を上げる。

「……あれ?」

 ふと、耳に届く歌声。

「この歌、懐かしいなぁ」

 学生の頃、よく親友と口ずさんでいたその歌が、とても綺麗な声とともに風に乗り私の元へと辿り着く。

「とても、綺麗」

 無意識に瞼を閉じると、あの頃の楽しかった思い出が蘇る。

 気が付けば、その歌に合わせるように、私もハミングを口ずさんでいた。


 その日から、私が落ち込んだときは必ずその歌声が聞こえてくるようになった。

 声の方向から考えると、多分、声の主は音楽室で歌っているのだろう。

 不思議な事に、合唱という形態ではなく決まって個人の歌声のみ。これだけ大勢の生徒がいるのに、そういうことは有るのだろうかと不思議に思いつつ、気が付いたらその歌声に耳を傾けてしまっている。

 いつしか、それが当たり前のことに。この歌声を耳にすることを何よりも楽しみにしている自分に気が付いた。


「そう言えば、歌がもの凄く上手い生徒がいるんですね」


 ある日、興味本位でそんなことを聞いた。

 質問した相手は音楽教師。彼女なら、あの歌声の持ち主の正体を知っているのではないかと思ったからである。

「音楽室から綺麗な歌声が聞こえてくるんですよ」

 その歌がとても心地良くて……と話を続けると、音楽教師は不思議そうに首を傾げて見せた。

「先生?」

 その反応はどういう事なのだろう。不思議に思い尋ねてみると、彼女はとても言いにくそうにこう答えたのだ。


「うちの学校、合唱部なんてないですよ」


 始め、何を言っているのかが理解出来なかった。

「合唱部って……えっと……」

 何も部活動が無くても歌を歌うことはできるはず。そう言葉にしかけて口を噤む。

「確かに、部活動じゃなくても歌は歌えるんでしょうけれど、毎回、わざわざ音楽室で歌うっていうのは、ちょっと考えられないですね」

 何とも歯切れの悪い答えに対して感じる違和感。どう会話を進めて良いか悩んでいると、音楽教師はとても言いにくそうにこう呟いた。


「……偶に、居るんですよね。貴方みたいに『歌声が聞こえる』っていう人が」


 始めは吹奏楽部の部員が歌っているのかと音楽教師も思って居たらしい。しかし、部員に聞いてもみな口を揃えて知らないと答える。

 確かに、彼女自身、その歌声を聞いたこともなければ、その歌声を持つ生徒の姿を見たこともない。幸いにも、その噂は学校中に広まったりはしなかったが、一部の人間の間では有名な話であるというように彼女は答える。

「余り、深入りしない方がいいですよ」

 その言葉にはどういう意味が含まれているのだろう。

「美しいものに引き込まれると、囚われて逃げ出せなくなる事もありますから」

 それでは、お先に。そう言い残し、音楽教師は姿を消した。


 残されたのは状況を受け止められず混乱している私一人。


 今まで声の主が居ると思って居たことが、真っ向から否定されてしまった今、私は一体どうするべきなのだろう。


「あの歌声……一体……誰の……」


 もう少しで黄昏が訪れる。

 今日もまた、あの美しい音色が私の耳に届くのだろうかと思うと、背筋がゾッと凍り付いた。

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