第42話 パン

 こんがりきつね色に焼けたパン。中の具材は何が好き?

 あんこにクリームカスタード。コロッケ、卵にハムレタス。カレーを包んで油で揚げても、もちろん美味しい。

 シンプルな食パンや、控えめな塩味がバターの甘さを引き立てる塩バターパン。もちもちの食感も良いし、歯ごたえのしっかりある堅さもたまらない。ガーリックバターをたっぷり塗ってトースターでカリッとやいたら、それだけで立派なご馳走だ。

 そんな素敵なパンが、私はとっても大好き!

 でね。昔からずっと好きで通っているパン屋さんが、すっごい近所にあるの。

 「ドリームベーカリー」っていう名前のパン屋さんで、ちょっと可愛らしい外見のお店なんだけど、新しく出来たような店舗じゃなくて、もう数十年も前からずーっとそこで営業しているという老舗のパン屋さん。

 お祖母ちゃんの子供の頃からあるパン屋さんだから、ほんとに長い事、地元の人に愛されてきたっていう感じのお店なんだろうね。

 そのパン屋さんね、本当にどのパンも美味しいの。

 種類は普通に他のパン屋さんに置いてあるような一般的なものが殆どなんだけど、一つだけ、ちょっと変わった『特別なパン』があってね。それは、お店の常連さんじゃないと注文出来ない裏メニューなんだ。

 そのパンは、お客さんの注文を貰ってから作る一品もの。注文の度に仕上がるパンが変わるから、出来上がるまでどういったパンが買えるかは分からない。

 それでもそのパンを買いたいと思うのは、このパンを食べるととっても幸せな気分を味わえるから。

 多分、味が美味しいというのもあるが、それ以上に、自分しか味わえない特別感というものを感じられるのが影響しているのかもしれない。

 お客さんにあわせて、一人一人仕様を変えているのだから、全く同じ味のものは存在しない。だからこそ味わえる優越感というのは、言葉では表現出来ない程強く感じる事が出来るんだ。

 だから私はこのパンが大好きだった。

 私だけのために作ってくれる、私だけが味わえる究極の一品。


 でも……なんだろう。

 最近、ちょっと味が落ちたように感じるんだよね。


 私の味覚が変わってしまったのか、材料をちょっと変えたのかは分からないけれど、特別パンの味がちょっとだけ前よりも美味しくないと感じるんだ。

 気のせいだと思ってたんだけど、どうやらそうじゃないみたいで。注文する毎に少しずつ、そのパンの味が落ちちゃっている気がする。

 他のパンは前と同じように美味しいのに、何故かこの特別な注文パンだけが、どんどん美味しく無くなってきてる。

 その事についてお店の人に言うべきかどうか、随分と長い間悩んでいた。

 だって、突然「お店の味変えたんですか?」って聞くのは失礼じゃない?

 いや。うん。普通に聞く分には失礼じゃないのかも知れないけれど、美味しく無くなったってどう説明していいものか凄く悩むから……その……。

 やっぱり食べ物に関して「美味しく無い」っていう言葉は不名誉だし、他のお客さんの居る手前、そう言うことは言い出し難い。

 だからね。閉店間際にこっそり、店長さんに聞いてみたの。


「最近、味、変えたんですか?」って。


 そしたらね。店長さん。とっても吃驚した顔して固まっちゃったんだ。

 あっ。ヤバイ。何か拙い事きいちゃったかな? って焦ったんだけど、何やら難しい顔をして「分かりました」って言って黙っちゃった。その日はそれで終わり。

 

 それから暫く、そのパン屋さんに行く事が出来なかったんだけど、この前久し振りにパンを買いに行こうとしたら、パン屋さん、休業の札がかかってたのよね。

 今までこんな事なかったから、どうしたんだろうって凄く不安になった。

 で、それからずーっと休業が続いている。ネットで検索すると営業中って出てるのに、お店に行ってみると扉はずっと閉まったまんま。美味しそうなパンの匂いも一切してこない。

 お気に入りのパン屋さんだったから、このままお店を閉めちゃったらどうしようって不安になった頃かな? 偶然店長さんとお店の前で会ったんだ。

「最近、お店、お休みしてるんですね」

 それは何となく聞いた一言だった。

「そうですね」

 店長さんは私と目を合わせたくないのか、視線を逸らしながらすいませんと一言。

「大変なんですね」

 どう声を掛けて良いのか分からなくて、どう捉えてもいいような曖昧な言葉で答えると、店長さんは小さく溜息を吐いてこう呟いたの。

「今まで、どうもありがとうございました」

 それを聞いて私、凄く焦っちゃった。

「え!? お店、閉めちゃうんですか!!」

 動揺を隠しきれず震える声でそう訪ねると、何とも言い難い表情を浮かべた店長さんが、言いにくそうにこう返してくれた。

「私どもは、もう、貴方にご提供出来るパンを作ることができないんです」

 どういうことなのだろう? 言われている言葉の意味が分からない。

 そんな気持ちが顔に出てしまっていたのだろう。店長さんは困った様に笑いながら、こう言葉を続けた。

「味が変わったって仰っていたでしょう?」

「……え? ええ……」

「味が変わってしまったのでしたら、もう、貴方の舌にあうような材料が準備出来ないということなんですよ」

 つまり、それは、私の味覚が変わってしまった事が原因? そう言葉にしようとしたところで、店長さんが言葉を遮る様にして首を横に振り口を開く。

「貴方、もう、夢を見る事も出来ないのでしょう?」

「え?」

「夢を見れないのなら、美味しいパンをご提供することは出来ません。私どものサービスは、これでお終いと言う事です」


 今までご愛顧頂き、有り難う御座いました。


 「またのお越しを、お待ちしております」。とは言われず店長さんは私の前から姿を消してしまう。残された私は何も出来ずにその場に立ちすくむばかり。何だか、とても悲しい気持ちだけが胸の中に広がっていった。


 あれからお店の扉は、一度たりとも開いているのを見たことがない。

 相変わらず、ネットで営業時間を確認すると、いつも通り開店してるし夜遅くまで営業はしてるようだ。

 それなのに、私が店先を通る時は、店内の電気は消え、「クローズド」の看板がぶら下がった状態が続いている。

 少しずつ、私は夢を見なくなっている。

 美味しかったはずのパンの味も、日に日にその記憶が薄れていくようで怖い。


 ただ、一つだけ分かる事は、あのパン屋の扉が私のために開く事は、もう二度とないのだということ。


 大好きだったあの味……もう、殆ど、思い出せない……や。

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