最終話 勤労令嬢、街へ行く
「結婚を、取りやめる……?」
驚きとともにアレンの手からポロリと落ちたティーカップがソーサーに当たってガチャンと音を立てた。カップの中身がクロスにこぼれたので、ジリアンが慌ててそれを拭う。その様子を、アレンが呆然と見つめた。
「な、なんで……!」
思わずジリアンの肩を掴んだアレンだったが、その手はすぐに離さなければならなかった。
「あっつ!」
彼女の精霊、『
「ダメよ、エフレム」
ジリアンに付けてもらったお気に入りの名前で呼ばれて、『
──小僧の分際で、我のジリアンに口答えするな。
随分な言い種に、ジリアンは苦笑いを浮かべるしかない。神にも等しい力を持つ精霊からすれば、確かにアレンは小僧に違いない。
「エフレム、私だってただの人の子ですよ」
──お前は違う。我の契約者だ。
「特別に思ってくれて嬉しいですけど、アレンだって私の特別なんです」
──……気に入らん。
エフレムがブスッと頬を膨らませるので、ジリアンはその頬を優しく撫でた。その様子を見たアレンが不機嫌を顕にする。魔大陸から帰ってきてから、何度も繰り返された光景だ。
「彼と大事な話をするので、少しだけ待っていてくれますか?」
──いいだろう。少しだけだぞ。
「はい」
ジリアンの返事を聞いたエフレムは、アレンの方をひと睨みしてからフワリと空へ飛び上がった。少しの間、空の散歩に出かけてくれるらしいとわかって、ジリアンがホッと息を吐く。
「座って、アレン」
「ああ」
アレンは渋々といった様子を隠しもせずに、椅子に座り直した。
彼らは今、王宮の庭園でアフタヌーンティーを楽しんでいる。少し休んだ後には、結婚式について相談しようとアレンは考えていた。そこへ突然、ジリアンが『結婚を取りやめたい』と言い出したのだ。
「結婚、嫌になったのか?」
「そうじゃないわ」
ジリアンはテーブル越しに、そっとアレンの手を握った。
「私が好きなのはアレンだけだもの。それは信じて」
いつまでたっても
「じゃあ、なんで?」
「あれからエフレムの手を借りて世界中を調べてもらったんだけどね。……『
アレンがはっとしてジリアンを見た。
「他にも、『死者の国』と同じように『欲望』を溜め込んでいる場所があるってことか?」
「そう」
それは看過できない事態だ。
溜まりに溜まった『欲望』は、いずれ溢れる。そしてヒトの心に巣食い、その心を支配してしまうのだから。
「これは、私がやらなければならない仕事だわ」
言い切ったジリアンに、アレンは返す言葉が見つからなかった。
彼女の言う通りだ。『欲望』が眠る場所に赴き、それを解放する。それができるのは世界中にただ一人、ジリアンだけなのだ。
「結婚してしまったら王子の后でしょう? 簡単には動けなくなるわ」
「そうだけど」
「だから、できれば、その……」
『待っていてほしい』
そのセリフを口にするには勇気が必要だ。
彼はジリアンを待たずに他の令嬢と結婚することができるし、王子という立場を考えればそうするべきなのだから。
不安げに瞳を揺らすジリアンの手を、アレンが優しく撫でた。彼女を促すように。おずおずと顔を上げれば、そこにはジリアンを見つめる優しい金の瞳。
「待ってるよ。必ず」
はっきりと言い切ったアレンに、ジリアンはうんと頷いた。喜びに、目頭が熱くなる。
「むしろ、何で俺が待てないと思うんだよ」
「それは……」
口ごもるジリアンに、アレンがため息を吐いた。
「いや、俺に信用が無いのは俺のせいだな」
「そんなこと……!」
ないと言おうとして、ジリアンはやめた。そういえば、彼には散々振り回されたことがあったと思い出したのだ。
「……ふふっ」
先に我慢できなくなったのはジリアンだった。喉が鳴り、唇が震える。とうとう我慢できずに声を立てて笑うと、つられてアレンも笑った。
「まあでも。実際問題、笑い事じゃないよなぁ」
しばし二人で笑い合ってから、アレンが深い溜め息を吐いた。
「お前を一人で行かせたら、また変なのを連れて帰ってきそうだし」
精霊を『変なの』とはあんまりな言い種だが、これは前科があるのでジリアンは何も言い返すことができない。エフレムがかつての護衛騎士のような存在になりつつあることは、ジリアンも自覚しているのだ。
「……うん、そうだな」
「何が?」
何やら一人で納得した様子のアレンに、ジリアンが首を傾げる。
「新婚旅行が先になったって、それほどおかしくはないよな?」
アレンがあまりにも爽やかに微笑むので、ジリアンは嫌な予感がして背筋に冷たいものが伝った。だが、それも一瞬のことだ。彼の望みは、ジリアンの望みでもあるのだから。
* * *
港には、大勢の人が詰めかけていた。
国を救った英雄が今度は世界を見て回る遊学に出るらしいと聞いて、その見送りをするために集まったのだ。
さらに、その旅には王国の第3王子が随行するという。二人は婚約者同士なのでそれほどおかしな話ではないが、何かと話題の二人なので人々は彼らの動向に興味津々なのだ。
「……やはり、中止しよう」
これから旅立つ二人の前には、渋い顔のマクリーン侯爵が仁王立ちしている。ジリアンとアレンが乗る予定の船は、彼の背の向こうだ。
「今更ですか? この遊学は国王陛下もお認めになった、いわば国家事業ですよ?」
アレンはにこやかに笑って言った。
「やはり若い二人では不安だ。今からでも私が随行できるように計画を練り直す」
これにはジリアンも苦笑いを浮かべるしかない。今日まで、何度も繰り返してきた問答なのだ。
「お父様、いい加減にしてください」
わざとらしく眉を寄せたジリアンに言われて侯爵が押し黙る。
「心配しないで。ちゃんと帰ってきますから」
ジリアンが、そっと侯爵の腕に触れる。侯爵は黙ったまま、彼女の頬に手を当てた。その温もりを確認するように。
「危険な旅だけどアレンも一緒だし。今はエフレムもいます」
応えるようにエフレムが鳴いた。彼はジリアンをしっかり守ってくれるだろう。
「……わかっている」
それでも侯爵は安心できないのだ。愛する娘を敢えて危険な場所に送り出すなど、父親ならば誰もが不安だし、できるなら行かせたくないと思うのは当たり前のことだ。
「きちんと務めを果たしてきますから」
「……ああ」
「それに、私は楽しみなんですよ? 世界中をまわれば、私たちの知らない魔法に出会うことができます」
かつて海を渡る船の上でノアも言っていた。『これから、もっと多くのことを知ることになりますよ』と。その通りになった。それをジリアンは喜ばしく思っている。
「だから、笑顔で送り出してくださると嬉しいです」
愛する娘に満面の笑顔で言われてしまえば、父親は頷くしかない。侯爵は、渋々といった様子で頷いた。
「気をつけて」
「はい」
侯爵がジリアンの手を握り、船に乗るのを手伝った。次いで船に乗り込もうとしたアレンだったが、その肩をグイッと引かれる。もちろん、彼を引き止めたのは侯爵だ。
「……わかっていますね?」
「もちろん。ジリアンは俺が守ります」
しばし睨み合っていた二人だったが、沈黙を破ったのは侯爵の方だった。深い深い溜め息を吐いてから、右手を差し出す。
アレンは驚きつつも、その手を握った。
「娘を頼む」
アレンは深く頷いた。
「アレン!」
振り返れば、笑顔のジリアンがいた。
「早く! 出港よ!」
期待に瞳を輝かせるジリアンに、アレンの胸が躍る。二人の行く先には喜びばかりではない、苦難もあるだろう。それでも、二人ならば大丈夫だと確信できた。
アレンが乗り込むと、船はゆっくりと港を離れ始めた。見送りの人々の歓声が、少しずつ遠のいていく。その様子を見つめるジリアンの横顔を、アレンはずっと見つめていた。
「……そんなに見つめられたら穴が空くわ」
「それじゃ、そのうちジリアンの顔は穴だらけになるな」
「もう!」
アレンの冗談に笑顔を向けるジリアン。ふと、目が合った。
二人の唇が触れる。
それは、ごく自然なことだった。
──離れろ小僧。
二人の間に邪魔さえ入らなければアレンは次へ進むつもりでいたが、やはりそう簡単にはいかない。エフレムの燃える翼に遮られて、あえなく後退することになってしまった。
「まったく、前途多難だな」
──前途などない。
「なんでだよ。俺はジリアンの婚約者だぞ」
──我は認めていない。
「あのな、俺のほうがジリアンとは付き合いが長いんだよ」
──はっ。貴様は
「なっ、お前、ジリアンのベッドで寝てるのかよ!」
──我は彼女と契約した精霊だ。片時も離れることはない。
「……俺だって、一緒に寝たことくらいある」
──小さな子どもの頃に、一度だけだろうが。
「うるさい! とにかく、いちいち邪魔するな!」
二人の息のあったやり取りに、ジリアンは声を上げて笑った。
「笑うなよ」
「うん。ごめんね」
「……それで、最初の行き先は?」
アレンはバツの悪そうな表情を浮かべて、話題を変えることにしたらしい。わざとらしい話題転換だとは思ったが、ジリアンもそれを遮ることはしなかった。
「まずはテオバルトのところに行くわ」
「なんで」
「これを返しに行かなきゃ」
ジリアンが取り出したのは、翡翠の指輪だった。テオバルトがジリアンに求婚した際に渡したものだ。
「それ、この前会った時に返したんじゃなかったか?」
「うん。返したはずなんだけど、私の荷物に紛れていたの。おかしいわよね」
首を傾げるジリアンの横で、アレンとエフレムが顔を見合わせた。
「あいつ、まだ諦めてないのか……」
──前途多難だな、小僧。
「まったくだ」
ジリアンは翡翠の指輪を見つめながら相変わらず首を傾げている。アレンはその表情すら愛しいと思った。
彼に見つめられていることに気づいたジリアンが振り返る。
「どうしたの、アレン?」
「なんでもないよ。可愛いなと思って見てただけ」
「そういうの、やめてってば。私たちは仕事をしに行くのよ」
仕事。
その言葉に、ジリアンの表情が引き締まる。
ジリアンは旅立ったばかりの故郷を見つめてきゅっと唇を引き締めてから、今度は反対の方向──西の方を見た。
水平線の向こうには、まだ行ったこともない街がある。ヒトがいる。魔法がある。そして、仕事が彼女を待っている。
「私たちには、やらなきゃならない仕事があるんだから!」
彼女の勤労の旅は、始まったばかりだ──。
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