第19話 囚われの令嬢


「まったく、計算外だな」


 天蓋から垂れる薄ピンクの紗のカーテンを通して、わずかな月明かりに照らされるベッドの上。そこには、栗色の髪の美しい少女が横たわっていた。


「『仮面ペルソナ』に、これほど魔力が必要になったのは、初めてだ」


 ベッドがギシリと音を立てる。傍らに佇んでいた青年が、ベッドに腰を下ろしたのだ。


「本来なら、君の存在など綺麗サッパリ忘れるはずなのに。わずかな違和感を消すことが、どうしてもできないとは」


 『仮面ペルソナ』は、対象となる人物の存在を、全く別の存在に挿げ替える魔法。周囲の人々からはその人物に関する全ての記憶が消し去られ、その穴は代わりの記憶によって補完される。それに違和感を覚えることなど、余程のことがなければあり得ない。


「それほど、ジリアン・マクリーンは彼らにとって大きな存在だったということか。補完すべき記憶の穴が多すぎて、どんどん魔力を消費している」


 青年の青白い手が、少女の頬を撫でた。少女が僅かに身動ぎするが、目を覚ます気配はない。深い眠りの中にいるらしい。


「ははは。叱られてしまったよ。お遊びに無駄な魔力を使って、と」


 栗色の髪を一房手にとった青年は、そこにそっと口づけた。甘い香りがして、うっとりと微笑む。

 これは目的達成のために必要なことではない。彼にとっては遊びに過ぎない。しかし、彼は今たしかに満たされている。


「なあ、ジリアン」


 再び、ベッドがギシリと音を立てた。

 少女の身体に覆いかぶさるように身を乗り出せば、薄暗い中でも少女の陶器のような美しい肌がよく見えた。もとより、彼の目は人のそれとは違うので、暗闇の中でも視界が奪われることはないのだが。


「ジリアン」


 少女のまぶたが震えて、青い瞳が顔をのぞかせた。


「……スチュアート?」

「こんばんは。私の眠り姫」

「朝、ですか?」

「いいや。まだ真夜中だよ」


 ここまで言われて、ソフィーはようやく状況を察したらしい。頬を染めて、スチュアートから視線を逸した。


「……今、誰の名を呼んでいたのですか?」


 ソフィーの唇が少しばかり尖っている。すねているらしい。


「もちろん、を」

「そうでしたか?」

「そうだよ」


 スチュアートが、再びソフィーの頬を撫でた。青白い手は、そのまま耳をくすぐり、首をつたい、鎖骨を撫で上げる。羽で撫でられるような感触に、ソフィーの身体が震えて。


「……あっ」


 バラ色の唇から、吐息が漏れた。


「スチュアート……」

「なんだい?」

「良くないわ」

「どうして?」

「まだ、結婚したわけではないのよ?」

「今更だよ、ソフィー」


 言葉では拒否しながらも、ソフィーはされるがままだ。スチュアート・ディズリーに恋をする、お人形のような可愛らしい令嬢。それが、今の彼女なのだ。


「大丈夫。私に身を任せて」


 スチュアートが切なく微笑むので、ソフィーの胸がぎゅっと締め付けられた。


「……はい」


 引き寄せられるように互いの唇が近づく。


「愛しているよ、ソフィー」




 ──バチィッ!




 唇が触れる直前、緑色の光がぜた。

 驚いて二人の距離が離れる。


「何!?」


 光の元は、ソフィーの右手だった。その薬指から、なおも緑色の光が迸っている。


「……ああ、悪い魔法だね」


 スチュアートの表情が歪んだ。彼には、その魔法の正体が分かったらしい。


「あの時に、植え付けられたみたいだ」

「あの時?」

「君が襲われたときだよ」

「そんな……」


 スチュアートが慎重な手付きでソフィーの右手に触れた。


 ──バチッ!


 再び緑の光が爆ぜる。まるで、彼が触れることを拒絶しているように。


のろいの類だね。……忌々いまいましい、ソロモンの犬め」


 後半の恨み言は、ソフィーにはよく聞こえなかった。不安そうに首をかしげるソフィーに、スチュアートが優しく微笑みかける。


「大丈夫。すぐに消してあげる」


 スチュアートは、ソフィーの右手を見つめた。胸元に下げた黒い宝石にも意識を集中させる。黒いモヤがソフィーの右手を包み、すぐに消えた。同時に、緑色の光も消え失せる。


「ほらね」

「よかった」


 ソフィーが嬉しそうに微笑む。

 刹那、その瞳がわずかに揺れた。ガラス玉の青い瞳が、グルリと色を変えて。


 ──の瞳から放たれた鋭い眼光が、スチュアートを射抜いた。



「私に触れるな」



 可憐で歌うようなソフィーの声とは違う。戦うことを知る、強い声だ。

 その声を聞いた途端、青年の胸が喜びに震えた。


「まさか、自ら『仮面ペルソナ』の魔法を打ち破るとは」


 少女の髪は、栗色から黒へ。陶器のような肌は美しさを保ったまま健康的な肌色へ。

 あっという間に姿を変えた少女──ジリアンは、間髪入れずに青年に飛びかかった。

 青年の腕を後ろ手にひねり上げながら、その背に乗り上げて身動きを封じる。その間に水魔法で生成された氷のナイフを、その喉に突きつけた。


「なるほど。あの小僧、その指にトリガーを仕込んだな。成功する見込みは低いが、強力なまじないだ」

「黙って。質問に答えなさい」


 ジリアンは、拘束する腕に力を込めた。そうすると息が苦しくなったらしい、スチュアートがうめき声を上げた。


「ここはどこ」

「ディズリー伯爵の屋敷」

「私に何をしたの?」

「『仮面ペルソナ』という、いにしえの魔法を使った」

「それは……」

「君自身を、ソフィー・シェリダンに変えてしまう魔法だよ」


 魔法の正体を聞かされて、ほんの一瞬たじろいだ。その一瞬を、スチュアートは見逃さなかった。


 ──ドサッ。


 身体の位置が入れ替わる。今度はスチュアートがジリアンの身体をベッドに押さえつけた。


「くぅっ!」


 思わず呻いたジリアンに、スチュアートがほくそ笑む。


「惜しかったな。ジリアン・マクリーン」


 スチュアートの顔がドロリと溶けて、ハワード・キーツに入れ替わった。それを見たジリアンが唇を噛む。彼の魔法を一つ破ったところで、状況は最悪だ。


「無駄だよ。ジリアン・マクリーンは消えた」

「消えたりしないわ」

「いいや。『黒い魔法石リトゥリートゥス』で強化した『仮面ペルソナ』の魔法を打ち破ることは、誰にもできない」

「たった今、私が破ってみせたじゃない」

「これは、たまたまだよ。君が一番良く分かっているだろう?」


 ハワードが、唇が触れそうな程にジリアンに顔を寄せた。両腕を拘束しているのとは反対の手であごを押さえつけられて、顔を逸らすことができずにジリアンが表情をしかめる。


「離れて」

「ふふふ。こうなってしまえば、君も哀れな女の子だな」


 ジリアンは全身を使って抵抗するが、ハワードの身体はびくともしなかった。

 再び唇が近づく。


 しかし、それが触れ合うことはなかった。


 ジリアンの胸元で、何かが光って。その光が、ハワードを遮ったのだ。


「何だ?」


 ハワードがジリアンの胸元に視線を向けるが、そこには何もない。ただ、淡いピンクの光が溢れ出して、ジリアンの身体を守るように包み込んでいくだけだ。


「なるほど。君に守りのまじないをかけたのは、マルコシアスの小僧だけじゃなかったらしいな」


 しばし考え込んだハワードだったが、ややあって頷いた。何かに納得したらしい。


「ふむ。これも消し去ってもいいが、少しばかり手間がかかりそうだ。……放っておくか」


 ──ズズズズ……。


 はしばみ色の瞳の中で、黒い陰が妖しくうごめいた。


「やめて!」


 思わず叫んだジリアン。しかし、それを聞いたハワードは嬉しそうに微笑むだけ。

 

「さよなら、ジリアン」


 次の瞬間には、ジリアンの意識はプツリと途切れていた。





「おはよう、ソフィー」


 ソフィーが目をさますと、目の前にとび色の瞳があって。ソフィーは驚いて飛び起きた。


「スチュアート!?」


 寝間着姿のスチュアートが、眠っている間にソフィーのベッドに入り込んでいたのだ。驚くのも無理はない。


「どうして……!」

「どうしてって、私達は婚約者だろう?」

「でも……」

「大丈夫、何もしなかったよ。神に誓って本当だ」


 スチュアートが嬉しそうに笑いながら、降参とばかりに両手を上げた。


「本当に?」

「本当だよ。……私の眠り姫」


 言いながら、スチュアートはソフィーの頬に唇を落とした。


(唇だけは許さないということか。なかなかに嫉妬深い呪いだな)


 内心でスチュアートは苦笑いを浮かべた。同時に、胸を躍らせる。


(さて。次はどうしてやろうか)



 * * *



「これは?」


 仕立屋が持ってきた礼装を試着する。特に仕上げにも問題はないようだった。

 最後に、仕立屋が差し出したのは金色に光る宝石をはめ込んだ、カフスボタンだった。


「カナリアダイヤモンドです。たいへん珍しい宝石でして。王族の方に身に着けていただくのに、ぴったりのお品でございます」


 仕立屋の隣にいた男が言った。宝石商だろう。


「こんなものは注文していないはずだが」

「いいえ。確かに、ご注文いただきまして。お品代も頂戴しております」


 宝石商が鷹揚に頷いた。


「誰に?」

「……はて。どなた様、でしたでしょうか」


 問われて、今度は首を傾げる宝石商。あまりにも不自然な様子に、アレンは眉間にシワを寄せた。


「とにかく、こちらを王子殿下のお誕生日のお祝いにお届けしてほしいと、ご注文をお受けしまして……。そうそう。送り主の名は伏せてほしいと、そういうご注文でした」


 怪しいことこの上ないが、すでに品代は支払われているという。詐欺の類ではないらしい。


「カナリヤダイヤモンド、といったか」

「はい。こちらは特に黄色みが強く……。ああ、殿下の瞳のお色とよく似ていますね」


 彼の言う通り、黄というよりも金に近い輝きを持っている宝石だ。


「どうぞ、お手にとってご覧ください」


 言われるがままに、アレンはカフスボタンを手にとった。



 その瞬間、アレンの頭の中に嵐が吹き荒れた。



「ぐっ」


 思わず呻いて、その場にうずくまる。


「殿下!」


 慌てた侍従が走り寄ってきたが、アレンはそれどころではない。



 吹きすさぶ嵐の中、ぼんやりしていた何かが像を結ぶ。

 愛しい少女の姿が、はっきりと見えた。



「ジリアン……!」



 

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