第8話 私だって子どもじゃない


「あなたは他の仕事で忙しいんでしょう? 放っておいてよ」


 書斎の机の上には、書類が山になっている。公表はされていないが、アレンは王子の一人として仕事が山積みだとは聞いていた。しかし、休日に私的な書斎にまで仕事を持ち帰るほどとは、ジリアンは知らなかったのだ。その事実も、ジリアンを苛立たせた。


「あなたは私に何も話してくれないのに。どうして、あなたは私のことに口を出すの?」


 アレンの美しい顔がゆがむ。それでも、ジリアンは言葉を止めることができなかった。


「こんなところまで私を招き入れて、婚約者にはどう説明するつもりだったの?」


 彼の私的な生活空間だ。が入って良い場所ではない。


「それは……」


 言いかけて、アレンがジリアンから目を逸らした。

 その様子に、とうとうジリアンの我慢が限界を迎えた。


 ──ガタン!


 音を立てて立ち上がり、そのまま扉へ向かう。


「ジリアン!」


 追いすがったアレンが、ジリアンが開こうとした扉を押さえつけた。アレンの身体がジリアンの身体に覆いかぶさるような格好になり、二人の距離が近づく。


「まだ話は終わってない」


 ジリアンはビクリと肩を揺らした。思っていたよりも、アレンの声が近くで聞こえたからだ。


「これ以上、話すことはないわ。だって、あなたは何も話してくれないんでしょう?」


 ジリアンは俯いたまま言った。顔を見たら、もっと酷い言葉を投げつけてしまいそうだったから。


「今は話せないだけで」


 喉からぎゅっとしぼり出すような声だった。彼にも何か事情があるのかもしれないとは思った。けれど、今日だけは冷静になることができない。


「それなら、今日はこれで失礼するわ」


 ジリアンを見つめるアレンを、見つめ返すことなどできない。


(私じゃない誰かと婚約するんだもの)


 ぎゅっとドレスの裾を握る手に力が入る。


「なあ、ジリアン」

「やめて」


 ──パシン。


 ジリアンに触れようとしたアレンの手を、思わず振り払ってしまった。


「私だって、子どもじゃないのよ」


 アレンの目が見開かれて。その後にどんな表情をしたのかを、ジリアンは確かめることなどできなかった。


「失礼いたします」


 形ばかりの礼をとって、今度こそジリアンは書斎から出て行ったのだった。





「お嬢様」


 無言のまま帰宅したジリアンの不機嫌な様子に、使用人の誰もが戦々恐々としていた。こんなことは初めてなのだ。そんな中で、勇敢にも彼女に声をかけたのは執事頭のトレヴァーだった。


「手配が整いました」

「もう?」

「はい。『ソフィー・シェリダン子爵令嬢』、北部の田舎の出身です。子爵が貴族派のバーナード伯爵に謝礼金を渡して、首都ハンプソムの賃貸住宅を世話してもらいました。首都ハンプソムでの社交界デビューのためです」

「そういう設定、ということね」

「はい」


 トレヴァーが、ジリアンの手に一枚のカードを手渡した。『ソフィー・シェリダン子爵令嬢』の名と住所が記されている。この住所の賃貸住宅には、ソフィー嬢が暮らしているように見えるよう、偽装がされているはずだ。


 ジリアンは、貴族派の令嬢の名と身分を手に入れた。


「さっそく、お茶会への招待状が届いています」

「出席すると返事を」

「かしこまりました」


 ジリアンはカードを手に頭を振った。雑念を振り払うように。


(こんなことで悩んでいる暇はないわ。私は、私の仕事をするのよ)


 ジリアン自身の幸せのために、そうすると決めたのだ。



 * * *



 今日のジリアンは、ジリアン・マクリーン侯爵令嬢ではない。

 ソフィー・シェリダン子爵令嬢、それが彼女の名だ。


「ごきげんよう」

「本日はご招待いただき、ありがとうございます」

「いいのよ。首都ハンプソムの暮らしには慣れた?」

「それが、まだ……」

「そうでしょうとも。何かあったら、いつでも頼ってちょうだいね」


 招待されたお茶会の主催者は、バーナード伯爵夫人。ソフィーの首都ハンプソムデビューのために骨を折ってくれた伯爵の妻。もちろん、彼女はソフィーの正体を知らない。


「それにしても、ソフィー嬢」

「はい」

「そのドレスは、少しばかり流行遅れね」

「申し訳ありません」

「責めているんじゃないのよ。今度、あなたのために仕立て屋を呼んで差し上げるわ」

「まあ! ありがとうございます!」


 ソフィーは手を打って喜んだ。


「さあ、座って。皆様に紹介するわ」


 バーナード伯爵夫妻に娘はいない。そこへ、一人の令嬢が社交界デビューのための世話を頼んだのだ。世話好きの彼女がソフィーに肩入れすることは、想定済み。


「みなさん、こちらソフィー・シェリダン子爵令嬢です。首都ハンプソムへ来たばかりなの。仲良くしてやってくださいね」

「もちろんよ」

「なんて可愛らしいお嬢さんでしょう!」

「お人形みたいね!」


 さらに、ソフィーの容姿がそれを後押しした。

 艶々つやつやの栗色の髪に、透き通るような青い瞳、美しい弧を描く桃色の唇、バラのように色づく頬。陶器でできた人形のような完璧な容姿に、出席している女性たちがうっとりと目を細める。


 田舎からやって来た、流行遅れのドレスに身を包む可愛らしい令嬢。


 これは、バーナード伯爵家にとってはチャンスだ。自分の息のかかった娘を自分たちの手で育て上げ、より良い条件──身分が高く、かつ財産を持っていて、社交界で力を持っていればなお良い──の男性に嫁がせることができれば、彼らにとってかなりの利益になる。


「さあ、お茶にしましょう」


 この日の主役は、もちろんソフィーだった。

 みんながソフィーのことを知りたがったし、ソフィーと友達になりたがった。どんな話でも興味津々で、つまらない話でもコロコロと笑ってくれる姿にすっかり魅了されたのだ。

 自分で話すことは得意ではないようで、話し方は少し幼い。それが彼女の可愛らしさに拍車をかけた。


(第一段階は成功ね)


 魔法で姿を変え、今日のお茶会に潜入した。その成果は上々だ。多くの貴族がソフィー・シェリダン子爵令嬢を自分の主催するお茶会や夜会に招待したがるだろう。バーナード伯爵は貴族派の一員なので、当然、他の貴族派からも招待があるはずだ。


「ソフィー嬢、今度は私のお茶会にも来てくださいね」


 特に仲良くなったのはフェリシア・ディズリー伯爵令嬢だった。


「ありがとうございます。ぜひ!」


 飛び上がらんばかりに喜んで見せれば、フェリシア嬢も喜んだ。一つ年上の彼女は、ソフィーにとって良い友人になるだろう。


「さっそく、お手紙を書くわね」

「私も」


 二人でカードを交換した。ディズリー伯爵家は、郊外に居を構えているらしい。かなり大きな屋敷が立ち並ぶ地区だ。


(トレヴァーに詳細を調べてもらわなくちゃ)


 首都ハンプソムには多くの貴族が住んでいる。ジリアンでも、その全てを把握しているわけではないのだ。


「それでは、今日のところは」


 バーナード伯爵夫人の挨拶で、お茶会はお開きとなった。


「ソフィーさんは、お迎えの馬車がいらっしゃるの?」

「いいえ。恥ずかしいのだけど、うちには馬車がないの。住んでいるのも賃貸住宅だし」

「まあ」

「そんなに遠くないから、街を見物しながら歩いて帰ろうかと思って」


 フェリシア嬢が眉をしかめた。年若い令嬢が、一人で街を歩くことを可哀想だと思ったに違いない。


「疲れているでしょう? うちの馬車でお送りするわ」


 そう言って、フェリシア嬢の馬車に招かれた。


「おや。新しいお友達かな?」


 その馬車の中には、すでに一人の青年が座っていた。


「お兄様!」


 フェリシア嬢に『お兄様』と呼ばれた青年が、にこりとソフィーに笑いかけた。

 彼女と揃いの、鳶色とびいろの髪と瞳を持つ優しげな青年だ。


 ──ジリアンは、その男が誰なのか知っていた。


 なぜかは分からない。容姿も声も年齢も、何もかもが違うのに。

 それでもジリアンにはのだ。



(ハワード・キーツ……!)

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