第2章 勤労令嬢と社交界

第10話 ハワード・キーツ


「ハワード・キーツについての調査報告です」


 ソフィー・シェリダン子爵令嬢として社交界に出る、その数日前のことだ。

 トレヴァーによってジリアンの書斎に持ち込まれた書類は、ほぼ白紙だった。この1年、新しい報告はない。


「足取りは、全く掴めていないというわけね」

「はい。1年前の事件の後、船に乗ったというところまで。それ以降は……」

「確か、ロージアン行きの船だったわよね」


 ロージアンは北部の港町。ハワード・キーツの故郷は、そのすぐ近くだ。


「そうです。彼の乗船記録はありましたが、ロージアンの港での下船名簿に名前はありませんでした」

「そうだったわね。……どうやって船の上から消えたのかしら」

「船の上で、魔法を使ったのでは?」

「確かに。夜中に魔法を使って船から消えたのなら、誰も気付かないかも」


「それは考えにくいのではありませんか?」


 口を挟んだのはノアだ。


「魔法を使ったところで、暗闇の中、しかも海の上を移動するのは簡単ではありません」

「ノアでも?」

「自信はありませんね」

「そんなに?」

「ええ。方向を見失って海に落ちるのが御の字です」


 三人は再び考え込んだ。


「彼は、どうしてわざわざ記録が残る船を選んだのでしょうか」


 ポツリと、ノアがつぶやいた。


「ただ姿を消すだけならば、船に乗る必要などなかったはずです」

「確かに、そうね」


 ある程度の規模の客船には、乗船と下船の際に名簿を記録して保管することが法律で義務付けられている。


「彼は、自分が『消えた』ということを我々に印象付けたかったのでは?」


 言われてみれば、その通りかもしれない。


「『消えた』ことを印象付けることで、私達に探ことが目的だったということ?」

「はい。我々に、無駄足を踏ませようとしているのかもしれません」


 その可能性は考えていなかった。

 黒幕は貴族派の誰かだろうということは分かっている。今のジリアンたちに必要なのは、それが誰なのかという確信と証拠だ。ハワード・キーツはオニール男爵や霜の巨人ヨトゥン族の男を裏で操っていた。だから、彼を辿れば黒幕に行き着くはずだと信じ込んでいたのだ。


「……彼を追うことにこだわるのは、やめたほうが良さそうね」

「ええ」

「彼が接触した貴族から探りを入れていきましょう」

「それも、『ソフィー・シェリダン子爵令嬢』が?」

「ええ。せっかく手配してもらったんだもの。有効活用しなくちゃ」



 * * *



 そのハワード・キーツが、今目の前にいる。



 ソフィー・シェリダン子爵令嬢の初めての友人となった、フェリシア・ディズリー伯爵令嬢の馬車の中で。ハワード・キーツとは似ても似つかない、とび色の髪と瞳の青年が微笑んでいる。


「ごきげんよう。ソフィー・シェリダンと申します」


 ジリアンは内心の焦りを隠したまま、可愛らしいソフィーとして笑顔で挨拶をした。


「はじめまして。スチュアート・ディズリーです」


 スチュアートと名乗った青年は、さっと手を差し出した。ソフィーがその手を取ると、優しく引かれる。スチュアートは、同じようにフェリシア嬢が馬車に乗るのも手伝った。


御者ぎょしゃにカードを渡してきたわ。先にあなたを送っていくわね」

「ありがとうございます」

「それにしても、どうしてお兄様が?」

「貸本屋に行きたくてね。迎えついでに行ってきたんだ」


 彼の隣には数冊の本が積まれていた。借りてきた本なのだろう。文学作品ばかりだ。


「またなの? お兄様ってば、本ばかり読んでるのよ」

「ははは。いいじゃないか」

「良くないわよ。今度の夜会には、一緒に行っていただきますからね」

「そう言われてもね……」


 苦笑いを浮かべたスチュアートが、チラリとソフィーを見た。


「その夜会には、あなたもいらっしゃいますか?」


 その声は少しだけ震えていた。その意味を、彼の優秀な妹はすぐに察知したらしい。


「もちろん。ねえ、ソフィーさん?」


 よく分からずに首を傾げたソフィーに、フェリシア嬢が耳元でささやいた。


「話を合わせてちょうだい。お願いよ」


 本ばかりを読んで外へ出ない兄。その妹は彼が結婚相手を見つけることが出来るだろうかとヤキモキしている、ということだろう。スチュアートがソフィーに興味を示したので、この機に乗りたいのだ。


「ええ。お会いできることを、楽しみにしています」


 ソフィーがにこりと微笑むと、スチュアートの頬がポッと色づいて。フェリシア嬢は満足気に頷いた。おそらく、その夜会にソフィーは招待される。彼女、もしくは彼女の両親が裏から手を回すだろう。


「私も、楽しみです」


 スチュアートが微笑むので、ソフィーもニコリとほほえみを返したのだった。


(彼はハワード・キーツ。間違いないわ)


 ジリアンには、確信がある。

 だが、その理由が分からない。とにかく、彼がハワード・キーツだとのだ。


(つまり、彼も魔法を使っているということだわ)


 その魔法が、何らかの理由でジリアンにだけ見破ることができたのだ。彼の様子から、ジリアンが正体に気付いていることは彼には伝わっていないらしい。


(この機会、ぜったいに逃さない……!)


 ようやく掴んだ尻尾しっぽを、絶対に離してはいけない。ジリアンはチラチラとソフィーに目線を送ってくるスチュアートに、その都度ほほえみを返した。彼が、夢中になるように。


(あちらも演技かもしれないけど、それならそれに乗ればいい)


 こちらの正体はバレていないのだから。


(この関係を、利用してやるわ)



「お兄様、ソフィー嬢をお部屋まで送ってきてくださいな」


 ソフィーが住む賃貸住宅に到着した。彼女の部屋は3階だ。


「わかったよ」


 フェリシア嬢に言われて、スチュアートははりきって立ち上がった。ぎこちないながらも、ソフィーをエスコートしてくれる。


「足元に気をつけて」

「ありがとうございます」


 ソフィーの部屋に到着してドアノッカーを叩くと、一人のメイドが顔を出した。


「おかえりなさいませ、お嬢様」

「ただいま、ケリー」


 ソフィーのメイド、という設定の女性だ。その正体はトレヴァーの部下。人には言えないような仕事を任せる部下が何人かいるのだと、最近になって教えてもらった。


(普通のメイドに見えるのに)


 彼女は、ここでのソフィーの護衛も兼ねているらしい。ソフィーの近くにノア・ロイドがいては、その正体がジリアンだと宣言しているようなもの。彼は侯爵邸で留守番だ。


「それじゃあ、また」


 スチュアートが、名残惜しそうにソフィーの手を離す。


(これが演技だとすれば、不世出ふせいしゅつの名役者ね)


「ええ、また」


 何度か振り返りながら帰っていくスチュアートを、ソフィーはずっと手を振って見送ったのだった。その姿がみえなくなると、背中にどっと汗が吹き出した。


「すぐに着替えるわ」

「どうかされましたか?」


 尋常ではない様子に、ケリーが声をかける。その間に、ジリアンは魔法を解いた。またたく間にソフィーの姿が変わって、いつものジリアンに戻る。


「彼、ハワード・キーツよ」

「ええ!?」

「彼も魔法を使っているみたいね」

「全くの別人でしたが……。お嬢様は、どうしてお気づきに?」

「それが分からないのよ」


 ケリーが手早く着替えを準備しながら、首を傾げる。ジリアンは難しい顔で考え込んだ。


「直感、なんてもので片付けてはいけないわ。きっと、私にだけ分かることにも理由があるはずよ」

「魔法、ですか?」

「そうでしょうね。だけど、私の変身の魔法とも性質が違うような気がするのよ」

「では……」

「ええ。魔大陸の魔法かもしれないわ」


 その可能性が高い。ハワード・キーツは、魔大陸の魔族とも繋がりがあるのだ。そこから、変身の魔法を学んだのかもしれない。


「ソフィー・シェリダン子爵令嬢の仕事が増えましたね」

「ええ。ソフィーとして社交界に出る機会を、予定よりも増やすことになるわ」

「承知しました」


 話しながら着替えを済ませたジリアンは、再び変身の魔法を使った。今度は地味な中年女性の出来上がりだ。役どころは、ソフィーの家庭教師といったところか。


「それじゃあ、よろしくね」

「はい」


 ケリーを置いて、ジリアンは賃貸住宅を出た。途中で公園に寄り、人気のない場所でもう一度姿を変える。今度は、マクリーン侯爵邸に勤めるメイドの一人に。


 慎重に慎重を重ねて、侯爵邸に帰宅したジリアンはクタクタだった。これを何度も繰り返すことを想像して少しばかり気が滅入る。


(仕事のためだもの。頑張らなくちゃ)


 パチンと頬を叩いて、気を持ち直したのだった。

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