第32話 愛について


「ジリアン!」


 パチンと音を立てて意識が戻った。

 一人きりのはずなのに、誰がジリアンの名を呼んだのだろうか。視線を巡らせると、そこは首都ハンプソム郊外の丘の上だった。

 そして数十歩先には、彼がいた。


「アレン」


 その名を呼んだ途端に、思い出したかのように激しい痛みがジリアンをおそった。

 胸を抱えてうずくまる。胸の中の渦が、また一段と大きく凶暴になっているのだ。なんとか押しとどめようとするが、黒いモヤが漏れ出すのを止められない。黒いモヤは嵐のようにジリアンの周囲で暴れはじめた。

 

「アレン、逃げて!」

「嫌だ」

「お願いよ」

「お前、一人で死ぬつもりだろう!」


 黒い嵐の中を、アレンが一歩ずつ近づいてくる。


「来ないで」

「嫌だ」

「アレン!」

「俺は、お前を一人にしない!」


 アレンの腕が、ジリアンの肩を掴んだ。

 刹那せつな、黒い風がその腕をぎ払う。


「アレン!」


 吹き飛ばされたアレンの身体が、地面に叩きつけられた。

 それでも、彼は立ち上がった。黒い嵐の中を、再びジリアンに向かって進んでいく。ゆっくりと、だが確実に。


 ──パシッ! ザンッ!


 黒い風が次々とアレンに襲いかかり、その顔を腕を足を切り裂く。それでも、構わずに進み続ける。


「もうやめて。来ないで!」

「やめない。俺は、絶対に諦めない!」


 ──ザシュッ!


 アレンの腹が、大きく切り裂かれた。血が溢れ出す。


「アレン!」


 それでも、彼は足を止めない。ポタポタと血の滴り落ちる腹を押さえて、苦痛に顔を歪めながらも。


「やめて! 死んでしまうわ!」

「それでも!」

「私のために死なないで!」


「お前だって!」


 アレンの叫び声が、嵐の中を突き抜ける。


「お前だって、俺たちのために死のうとしてるじゃないか」


 アレンの顔が苦痛で歪む。いや、苦痛ではない。悲しみだ。


(彼を傷つけているのは、この黒い嵐? それとも……)


「お前が俺のために死のうとするなら、俺だってお前のために死ぬ」

「どうして」


(私なんかのために)




「……愛してるからだ」




 ──ふわり。


 再び、ジリアンの身体が温かいものに包まれた。


「間に合ったか!?」


 マクリーン侯爵だ。彼の風魔法が、外側から黒いモヤを包み込んでいる。強い魔力に抑えつけられて、ジリアンの胸の中の渦もわずかに大人しくなった。


「そのままおさえ込め」


 嵐の外から指示をしたのはコルト・マントイフェル教授だ。周囲には、他にもいくつかの人影が見える。


「まだかかりますか!?」


 彼に問いかけたのは、ダイアナ・チェンバース嬢。彼女の強い意思のこもった炎の熱を感じる。


「急いでください!」

「この出力の魔法、そんなに保ちませんよ!」

「情けないことを言うな。魔力が尽きる前に後列と交代じゃ」


 アーロン・タッチェルとイライアス・ラトリッジ。そして、生徒たちを指揮しているのはチェンバース教授だ。

 他にも学院の生徒と教授が大勢きている。全員がジリアンに向かって渾身こんしんの魔法を放ち、黒い魔力を抑え込んでくれているのだ。

 黒い嵐も、胸の中の黒い渦も、徐々に勢いをなくしていく。


「はやく! 急いで!」


 マントイフェル教授の隣にはコルケット教授。大きな何かを抱えてマントイフェル教授を急かしている。


「間もなくだ」


 マントイフェル教授はいつもどおりの冷静な表情だが、全身からあふれる気配がいつもとは違う。その額に、不思議な文様──魔法陣が浮かび上がる。


「どうして……」


 抑え込むことができても、一時的なものだ。いずれ、この黒い渦は爆発する。このままでは、全員巻き込んでしまう。


「だから、言ってるだろ。俺たちは、お前を助ける」

「でも」

「お前がそういうやつだってことは、分かってるよ」


 アレンが呆れたように言った。同時に、再びその手がジリアンの肩に触れる。今度は振り払われたりしなかった。

 そのまま、強く抱きしめられる。


「だから俺たちは、お前のことが大好きなんだよ。だから助ける。必ず」


 ついに、黒い嵐が消えた。

 晴れた視界、ジリアンを抱きしめるアレンの肩の向こうで、侯爵がジリアンを見つめていた。


「大丈夫だ」


 小さな声だったが、確かに聞こえた。


「誰も死なない。死なせない」


 再び視界がにじむ。今度の涙は、悲しみのそれではない。喜びでもない。


 ──あの日の涙に似ている。


 クェンティンを真似て、首都ハンプソムまで旅をしたジリアン。旅路の果にたどり着いた場所で流した、あの涙に。



「お願い……」



 自分の中の何かに別れを告げて、新しい自分へ。

 これは、その別れの涙だ。


 ついに我慢できずに、ジリアンは声を上げて泣いた。


「助けて!」


 わんわんと、子どものように──。


 ジリアンを抱きしめるアレンの腕にぎゅっと力がこもって。

 次の瞬間、周囲を白い光が包み込んだ。


 そして、ジリアンの意識は白へと溶けていった。





『やあ』


 ──誰?


『僕? 僕は、君さ』


 ──どういうこと?


『君がまだ子供だった頃から、ずっと君と一緒にいるんだよ?』


 ──わからないわ。


『本当に?』


 ──え?


『本当に、わからない?』


 ──……。


『君は、そろそろ気づくべきだよ』


 ──何に?


『愛されてるってことに』


 ──でも、私なんか……。


『それ言ったら、また怒られるよ?』


 ──でも……。


『君は愛されてる』


 ──そのために、頑張ってきたの、私。


『愛されるために、頑張ってきたの?』


 ──そうよ。私は愛されたくて。そのためだけに頑張ってきたの。私は、卑怯者ひきょうものよ。


『そうかな?』


 ──え?


『愛されるため、本当にそれだけ?』


 ──……そうよ。


『強がりはやめなよ』


 ──強がりなんかじゃないわ。


『いいや。君は、恐いんだろ?』


 ──恐い?


『そう。誰かに気持ちを寄せて、裏切られるのが恐い。愛しているのに愛されなかったら恐い。違う?』


 ──……。


『だけど君のそれは、紛れもなく愛だよ』


 ──愛?


『そう。ずっと小さな頃から、困っている人がいたら助けずにはいられない。その人のために、何かをしたい。働きたい、役に立ちたいって』


 ──でも、それは……。


『認めなよ。君は、みんなのことが大好きなんだ』


 ──そう、なのかな?


『君は愛してるんだよ。お父様のことも、アレンのことも、街の人々のことも』


 ──私は、愛しているの? みんなを? この気持ちが、愛なの?


『そうさ』


 ──でも……。


『恐い?』


 ──うん。


『君なら大丈夫だよ。君には勇気がある』


 ──勇気?


『そう。勇気を出して。君に必要なのは、踏み出す一歩だ』


 ──アレンと同じこと言うのね。


『ふふふ。それに、本当は勇気も何も必要ないんだけどね。君は愛されてるんだから』


 ──そうかな。


『そうだよ。みんな、君への愛をいっぱい伝えてくれてるのに』


 ──私が愛しているから? だから愛してくれるのかな?


『うーん。それは違うかな? 愛されてるから、愛してる? それも違う気がするなぁ』


 ──難しいね。


『うん。愛を語るには、僕らはまだまだ子供だよ』


 ──そうだね。


『これからも、ずっと一緒にいるよ』


 ──うん。一緒にいて。ずっとずっと。


『ありがとう、ジリアン』





 穏やかな目覚めだった。

 ゆっくりと目を開くと、そこには一対の黒い瞳があった。出会った頃から変わらない、強さと優しさをたたえた瞳。ジリアンを救い出してくれた、大好きな人。国いちばんの、英雄の瞳だ。


「お父様?」

「ジリアン!」


 侯爵がジリアンの身体を抱きしめた。温かい両手が、ジリアンの身体を包み込む。

 首都ハンプソムのタウンハウスの、ジリアンの寝室だ。


「どうなったの? アレンは? みんなは無事なの?」


 まくしたてるジリアンに、侯爵が苦笑いを浮かべた。


「まずは、自分の身体を心配したらどうだ?」

「でも」

「あれから2日経っている。みんな無事だ」

「よかった」

「君も無事だが、しばらく魔法は使えないな」

「そうなの?」


 ジリアンは、改めて自分の身体の中に集中した。胸の中、いつも自分の魔力を感じる場所に。


「魔力が、ない?」


 いつもなら感じられる自分の魔力が、一つとして存在していないことが分かった。

 こんなことは、初めてだった。


「君の魔力は、完全に外へ出してしまったんだ」

「どうやって?」

「エルフの秘術だ」

「エルフ……マントイフェル教授ですか?」

「そうだ。生き物から、限界まで魔力を吸い上げる魔法らしい」

「そんな魔法が?」

「ああ。本来なら門外不出らしいから、誰にも言うんじゃないぞ」

「はい」


 そんな秘術をジリアンのために使ってくれたのだ、マントイフェル教授は。


「吸い上げた魔力は、あの黒いモヤと一緒にガラスびんに閉じ込めた」

「あ、コルケット教授ですね」

「そうだ」


 魔石炭コールから発生した魔力を貯めるために開発していた、あのガラス瓶。


「あれは既に海の果てへ捨てられたはずだ。魔大陸の外交官たちが、責任を持って処分すると言っていた」

「そうですか」

「君の魔力も、時間が経てば回復するらしい」

「なら、よかったです」


 ほっと息を吐くと、ふと疑問が湧いてきた。


「もしかして、準備していたんですか?」


 あまりにもスムーズな対応だ。思いつきで出来ることではない。


「そのとおりだ。君とモニカ・オニール、そして魔大陸の商人の船から盗まれた黒い魔法石の行方が分からなくなった時点で、君を使って『儀式』が行われることは予想できた」

「それで……」


 走り出したジリアンの元に、すぐさま駆けつけてくれた侯爵。彼の風魔法で飛ばされた先で待っていたアレン。黒い魔力を押さえつけるために集まってくれた学友たち。そして、魔力を吸い出して閉じ込めた二人の教授。

 全てが、完璧に練り上げられた作戦だったのだ。


「さすが、戦争の英雄ですね」

「アレン・モナハンが……」

「え?」


 言いかけてやめてしまった侯爵は、それはそれはしぶい顔をしていた。


「ほとんど、彼の考えた作戦だ。……君を救ったのは、アレン・モナハンだ」


 渋々しぶしぶといった様子に、思わず笑いが込み上げた。


「みなさんが、助けてくれたんですね」

「……そうだな」


 ジリアンが言うと、侯爵はようやく笑顔になった。


「ただ……」

「ただ?」

「モニカ・オニールは死んだ」

「……やっぱり」


 あの黒い『魔法石』を、人の身で使ったのだ。


「代償、ですか」

「そうだ。あの黒い『魔法石』に、魂と身体を吸い尽くされたんだ」

「彼らは取り引きにあたって、そのことをオニール男爵に伝えていなかったんですね」


 霜の巨人ヨトゥン族の男をはじめとする、魔大陸の商団はこの国の人々を害するためにあの黒い『魔法石』を持ち込んだのだ。


(許せない)


 ジリアンは拳を固く握りしめた。


「オニール男爵は逮捕できたが、魔族の方は見つかっていない。既に国外に逃亡しただろうな。貴族派との癒着ゆちゃくについても、これから捜査が進められるところだ」

「はい」

「ハワード・キーツの行方もわかっていない」


 彼はジリアンとアレンを敵の眼前にさらした後、どこかへ消えてしまった。結局、謎だらけのまま逃してしまったことになる。


「君にも手伝ってもらうことになるが、しばらくは療養だ」

「私もですか?」


 ジリアンが首を傾げると、侯爵は渋い顔で頷いた。


「学生だが、拝謁の儀社交界デビューが済めば成人だ。閣僚たちが手ぐすね引いて君を待っている」

「どういうことですか?」

「誰もが君に期待しているということだ。これからは、本格的に私の仕事を手伝ってもらうことになる。……いいんだな」

「もちろんです」


 ジリアンはしかと頷いた。


 ふと、あの美しい青い瞳を思い出した。


(モニカ嬢……。私が、巻き込んだのかしら……)


 貴族派がオニール男爵に目をつけたことには、ジリアンとの関係が深く関わっている。そういう気がしてならないのだ。


 ──サラッ。


 顔を伏せたジリアンの髪を、侯爵が優しくすくいとった。そのまま、手ぐしで優し

くすいてくれる。


「彼女の死は自業自得だ。君が気にむ必要はない」


 ジリアンが何を考えているのか、わかったのだろう。


「はい」

「君が巻き込んでしまったと思うのも無理はない。そうだとしても、君に非があるわけではない。割り切るんだ」

「はい」


 ぐっと涙をこらえた。


(お父様の言うとおりだわ。私が今さらになって気に病んだところで、何も元には戻らない)


 それよりも。


(もっともっと強くならなきゃ。全部を守ることができるように)


 ジリアンは、再び拳を固く握りしめた。


「……だが、君に非がないわけではない」

「え」

「敵が霜の巨人ヨトゥン族だと分かった時点で、どうして逃げなかった。すぐ近くに騎士団が待機していたのに」

「でも……」

「私が逃げるなと教えたことを言っているのか? いいか。君はまだ当主でもないし子供なんだぞ」

「はい」

「そもそも、君たち二人は取引内容を確認したところで逃げるべきだった」

「はい」

「それに、アレンだけを逃して君だけが残るとは。逆でもよかったじゃないか」

「はい」

「モニカ嬢に捕まったときも、さっさと斬って逃げるべきだった」

「はい」


 突然始まった怒涛どとうの説教に、ジリアンははいと返事をすることしかできない。


「聞いているのか?」

「はい」


 返事をしたジリアンに、侯爵の表情がゆがんだ。再び、その腕に抱きしめられる。


「無事で良かった。本当に」

「ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「心配かけたから」

「父親だからな、心配はする」

「はい。あの……」


 おずおずと、ジリアンは侯爵の顔を見た。


「助けてくれて、ありがとうございます」

「ああ」


 優しい瞳が、ジリアンを見ている。黒々とした瞳が、愛おしいと語りかけている。


(ああ、私は愛されている)


 大好きな人に。ジリアンは、愛されているのだ。

 その事実を、ジリアンはこのとき初めて受け止めた。思い知ったのだ。




「……愛しています、お父様」




 ジリアンの小さな声は、それでも届いていたようだ。


 トフィーのような甘い瞳が、ジリアンを見つめていた。

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