9

「何してんの?」

声。声を聞いただけなのに、なぜかひどく安心してしまう。あぐりが振り向く。

「ちーちゃん」

智絵里だ。

「新しいプレイ?どう?茉奈、楽しい?」

「……たすけて」

声を振り絞ると、そのままぎゅう、と気管が絞られる。苦しい。

「茉奈、茉奈まなまなまな、私だよ、私が締めてるの、わたし」

エコーがかかったあぐりの声がぐわんぐわんと耳から耳へ乱反射して、思考がかき乱される。辛い。朦朧とする視界に何か飛び込んできた。瞬間、呼吸が自由になって空に投げ出される。

「茉奈!?大丈夫!?」

智絵里に背中をさすられながら、ゆっくり呼吸する。

やっとの思いで顔を上げると、あぐりがうずくまっていた。輝きの一切ない、錆びた鉛みたいな瞳でこちらを見つめている。やがて怒号が轟いた。

「邪魔するなッ!!!!!茉奈ちゃんはぁ、私のものなんだから!!!誰にも渡さない、例えちいちゃんでも、絶対に!!」

その言葉に、智絵里の顔色がさっと変わる。

「……そうかよ」

低い声で呟いて、ゆらりと立ち上がる。

「私はね、あぐり。茉奈のことが好きなの」

「好きとか言うなぁ……!!だいたいちいちゃんでしょ!?好きな人がいるって言ったら、ガンガンアタックしろって言ったのはさぁ!!私が、わたしが、茉奈ちゃんを好きなこと知ってるくせに!」

「いいから、黙って聞いて。茉奈はね、4人みんなに優しくしてるんだよ。誰か1人を特別扱いしないの。そんな茉奈だから、私は茉奈のことが好きになったんだ。でも、あぐり。1人だけ見てほしいなんて、……甘ったれてんじゃねーよ」

吐き捨てるような口調だった。いつもの智絵里からは想像できないような冷たい表情をしている。あぐりが一瞬怯む。

「ねえ茉奈、ちゃん、私のこと、好きだよね、ね、キスもしたもんね、私のお母さんしか知らないところだって、……茉奈ちゃんしか知らないところだって見せたもんね、ね!?」

鉛の目玉がこちらをギョロと見つめる。感情は昂っているらしいが、瞳は無機質に沈んでいる。怖い。吸い取られそうだ。首に張り付いた手形がじんとする。

「……」

「なんで黙ってるの?あぁわかった、照れてるんだね、いいよ、いいよ、かわいいよ、かわいくてしょうがないよ、ねえ、ねえ、茉奈ちゃあん」

狂おしく叫ぶと、ゆっくりと近づいてくる。一歩ずつ踏み出すごとに足音が響く。

「だめっ」

ようやく出た声は掠れていた。智絵里が静かに、叫ぶ。

「あぐり、……止まって」

「邪魔なんだ、みんな。ちいちゃん、ごめんね、でもちいちゃんが相談乗ってくれたから、私決断できた。茉奈ちゃんはなんとしても私1人のものにする」

「私はあぐりが私たちと一緒に茉奈と仲良くしたいってわかってた、だからその後押しをしたかっただけ。こういうことじゃない」

「でも……好きだから」

その時だった。智絵里が明らかに怒りを含んだ声で叫んだ。

「好きとかじゃねえんだわ、茉奈は人間だぞ、自分勝手なこと言ってんなよクソ女!!」

「ぁ……〜〜〜〜ッッッ!!!!!」

言葉にならない絶叫がこだまする。あぐりが目から大粒の涙を流して蹲っている。智絵里が駆け寄ってきて、肩を抱いてくれる。

「茉奈。もう大丈夫だよ」

「ひどいよぉ、……ちぃちゃぁん……っひぐ……まなちゃん……いかないで、……ほんとに、……すきなの、ぉ……」

「行こ、茉奈」

智絵里に手を引っ張られて立ち上がる。そのままあぐりを置いて駆け出した。




帰り道はもう人も疎になっていた。

「茉奈、大丈夫?」

「うん……。ありがとう」

「ううん。いいんだよ」

「あのさ、智絵里」

言い難い言葉は喉に引っかかりがちだ。

「なに?どうしたの?」

「……ごめんなさい」

「え、何で謝るの?」

「ううん、なんでもない。帰ろっか」

「そっか、帰ろう」

「智絵里、今日はありがとね」

「全然。むしろ私の方こそ怒鳴ったりしてごめんね」

「そんなこと言わないでよ。智絵里は悪くないし、私のためにしてくれたんでしょ」

その言葉の後、ひどく照れ臭い空白が流れる。不意に、智絵里から提案を受ける。

「キスがしたい」

そう言うと、返事を待たずに唇を重ねてきた。柔らかくて温かい感触が心地よい。舌が絡みあって、境界も無くなって、吐く息に撫でられながら。何度も角度を変えて貪り合ううちに、身体が熱を帯びていく。

やがてどちらからともなく口を離すと、唾液の糸が引いた。智絵里が目を細めて笑う。

「茉奈、可愛い」

そしてまた顔を近づけてくる。今度は耳元に。

「いつもはおっぱいだけど、今日は……たっぷり、愛してあげる♡」

そのまま耳たぶに歯を立てられる。ゾクッとした快感が背筋を走った。耳たぶを軽く噛まれ、耳の中まで舐め回される。湿った音と熱い息遣いが脳内に直接響いてきて、頭がおかしくなりそうだ。

「ふぅ、……ちゅぱ……ぢゅる……れろ……ん」

「や……ぁ……ちえり、ぃ……それぇ……だめ……っ」

「ダメじゃないよね、気持ちいいんだよ、茉奈。もっとして欲しいよね」

「う、ん……も、っと……して」

「よく言えたね、茉奈。かわいいよ」

頭をよしよしされて、どんどん理性が絆される。

「智絵里……すき、です」

ふっとそんな言葉が口をついて出る。

「あはは、それはまあ、そうなんじゃないの?3人ともそうでしょ」

「そういうのじゃなくて……好き」

変な話だ。さっきまであれほど4人を平等に愛すると言ったのに、私は今、智絵里を贔屓しようとしているのだ。でも、無理はない。あれほどの危険から救ってくれた、いわば恩人なのだ。

「智絵里は、私のこと、好き?」

「ううん」

「……」

「大好き」

なんだか涙が出そうになる。

「私も智絵里のこと、だいすき」




ただいま。

声を出そうとして何かに気づく。

いつもなら帰ってくると真っ先に飛びついてくる憧子がいない。リビングに行くと、開け放たれた窓からの風でカーテンが靡いていた。すごく嫌な予感がする。吐きそうだ。

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