224. 雲来たりて、風を知る

 その日は、スッキリと目覚めた。外で鳥のさえずりが聞こえる。

 頭の中の靄が晴れて、体は軽く、どんな難題が持ち込まれても、刺客に襲われても的確に対処できる気がする。やっぱり帰蝶は俺の菩薩様だ。

 すやすやと眠る安らかな顔を眺める。

 彼女に何度救われたか知れない。愛してると繰り返し叫べるし、傍にいるだけで幸せな心地になれる。時間の許す限り、こうして抱きしめていたい。起きている時は冷たい印象を与える瞳が隠れているだけで、あどけない少女のように見える。

 要するに、俺の嫁がこんなに可愛い。

 信長に転生しなかったら、帰蝶と結婚できなかったわけで。

(ああ、やっぱり未来は変えたくない。何度生まれ変わっても、お濃に逢いたい)

 何もかも放り出して逃げ出したかった気持ちが、今は完全になくなっている。

 もう少し頑張ろう。まだ頑張れる。帰蝶や信忠たち、愛する家族のためにやるべきことはたくさん残っている。全部、きちんと片付けてから隠居するのだ。

「苔生した庵で隠棲するつもりだったのに、安土城はデカすぎるよなあ。でも安土城作りたいし、作るって言っちまったし」

 下準備は着々と進んでいる。

 今回は期限を設けていない分、できるだけ妥協をしない方向でいく。ただの見張り台じゃない、居住スペースのある天守閣。公家も南蛮人も泊まっていける立派な御殿。家臣団の家族が住める武家屋敷に、寄宿舎付きの織田塾。城下町には商人をどんどん呼んで、京や堺とは違った意味で賑やかな街にしたい。

 男も女も子供も老人も身分関係なく、皆が笑って暮らせるように。

「しわくちゃのジジババになっても一緒だ、お濃」

 唇にやると止まらなくなりそうなので、額にキスで我慢する。

 小さなリップ音にも反応しない。帰蝶も日々の疲れが溜まっているのだろう。このまま寝かせてやりたくて、俺は慎重に布団から抜け出した。軽く身支度を整えてから部屋を出る時、波打つ黒髪に目を細める。

 美人でよくデキる嫁さんをもらって、俺は果報者だ。

「さて、一日の始まりだ」

 日課の鍛錬を済ませ、朝餉の準備が整うのを縁側で待つ。

 手持ち無沙汰になって、長煙管を引っ張り出してきた。この時代のたばこは薬扱いらしく、南蛮貿易で入手できたのは大きい。懐かしい匂いに、目を細める。



 その瞬間、視界が切り替わった。

「……っ、なんだ!?」

 煙草の匂いじゃない。これはこれで、嗅ぎ慣れたニオイだ。

 木が燃える時の、ぱちぱちと爆ぜる音がする。血と油の混ざった、何とも言えない異臭が鼻をつく。慌てて走り出そうとした俺はかろうじて思い留まった。おかしい、俺は岐阜城にいたはずだ。謀反でもない限り、美濃国内の中心にある城が襲撃を受けるわけがない。

(ここは、どこだ。なんで城が燃えている?!)

 あちこちで飛び交う悲鳴と怒号。人の狂気が生んだ、この世の地獄。

(お濃! お濃はどこだ! 信忠!! お藤!! 於次丸っ)

 俺は武装すらしていなかった。手には愛用の煙管が一つ。

 もうもうと立ち込める煙で、前がよく見えない。無我夢中で駆け回っているうちに、足音がしないことに気付いた。さっきから繰り返し叫んでいるのに声も出ていない。

 まるで幽霊のように、俺の存在感がない。

(な、なんじゃこりゃあ!?)

 幽霊だと思った途端、足が浮いた。

 視界もややクリアになる。

 これは生霊体験、幽体離脱というやつだろうか。煙草だと思ったら阿片だったのかもしれない。勿体ないが、あれは全部捨てよう。魔王が麻薬中毒者なんて笑えない。

(えーと、とりあえず……現状把握からだな)

 麻薬でラリッているにしては、五感が中途半端なのが気になる。

 焼け死ぬ心配がなさそうだと分かった俺は、炎上する城内を自由に探索してみることにした。ちょっとしか吸っていないし、長時間トリップすることもないだろう。正気に戻るまでは、この異常事態を愉しんでみる。

「父上」

 声変わり前の少年が呼ばわる。はっとして振り返れば、見たことのある顔だった。

「万福丸、お市たちは……」

「はい。無事に、城の外へ」

「そうか」

 久しぶりに見る長政は、やや老けて見えた。煤で汚れた顔に涙はない。

 具足をつけているので、戦の最中だったのだろう。燃える城内にいるということは、浅井軍が負けたのだ。そして愛する妻と、その娘たちを先に逃がしてやったのか。

(……くそっ誰だ、浅井を攻めたのは。これは夢か。正夢か!? それとも近江国で起きている現実かっ。一体、何が起きているんだ!)

 ここに至るまでに何度か襖をすり抜けた。

 だから長政の襟首を掴んで、問い質すことができない。声が届かないから、状況を確かめることができない。もどかしさに咽喉を掻きむしりそうになる。

 神の悪戯だとしたら、こんなに悪質なことはない。

「……浅井家は、どうなるのでしょう」

「すまぬ」

「父上」

「こうなることは、分かっていた。万福丸、お前も何とか生き延びてほしいが……きっと義兄上は見逃してはくれないだろう。浅井の直系は、ここで絶える」

「妹たちがいます。浅井の血は、きっとっ」

「……血を残すため、愛のない結婚をして何になる。私のせいで、あの子たちの幸せを奪ってしまった。お市にも…………どれだけ、どれほど詫びても足りぬ」

 それでも私は、と長政は血を吐くように叫んだ。

「私は、義兄上に挑みたかった! 寺を焼き、民を皆殺しにして、将軍を追放してもなお高みを目指す天下人と戦いたかった! 私にも、理想とする未来がある。義兄上を傍で見ているうちに、天下を望むようになってしまった。織田信長に勝つことができれば、きっと――…!」

「父上、わたしには分かりません。信長様は、皆が言うように恐ろしい方なのでしょうか」

「…………」

「祭の日には民と一緒に踊ることもあったと、聞いております。寺を焼いたのも、一揆衆を討伐したのも、公方様を京から追い出したのも、何か……そうしなければならない理由が」

「万福丸!」

 意外なほど鋭く大きい叱責の声に、少年は身を竦ませる。

 そのシーンだけを切り取れば、日常の一コマとしてありそうな父子の会話に見えたかもしれない。だが、こうしている間にも城は燃え尽きようとしている。柱は傾き、襖は枠しか残っておらず、天井には大穴があいていた。

 いつ崩れてもおかしくない。

 浅井当主であり、城主であるはずの長政の下には万福丸しか残っていなかった。

 いつの間にか人の声が途絶えている。燃える音だけが幾重にも反響している。外は明るいのか暗いのか、昼なのか夜なのかも分からない。どこもかしこも赤くて、黒くて、風に煽られた煙が生き物のように蠢いている。

「私は負けた。義兄上に、勝てなかったのだ」

「ちち、うえ」

「それだけだ」

 がっくりと項垂れた長政の表情は窺い知れない。

 泣きそうに顔を歪めた万福丸が傍に行こうとして、一際大きな柱が炎を纏いながら轟音と共に倒れてきた。

(危ない!!)

 思わず手を伸ばす。



 掴んだものを守ろうと、無我夢中で抱き込む。

「く、苦しいです。父上」

 たしたしと背を叩かれ、俺はようやく現実に戻ってきたのだと知った。

 触れる。声も出る。あの焦げ臭い城内ではなく、すっかり目に馴染んだ岐阜城の庭が見える。成人した長男坊は俺に似て華奢なようでいて、思った以上に肉付きがいい。肩幅もあるし、ちゃんと鍛えているのだと分かる体つきだ。

 もう、あの小さな泣き虫なんかじゃない。

「……信忠?」

「はい。あの、喫煙中に居眠りをするのは危ないと思います」

「あ、ああ。そうだな、気を付ける」

 まだ掴んだままだった煙管を煙草盆に戻そうとしたら、ひょいと取られた。

 大きな手の主は慶次。愛用している朱塗りの長煙管を軽く持ち上げてみせる仕草も、腹が立つほど似合っている。往来で土下座してきた小坊主の姿は、欠片もない。

「戻ってたのか」

「おう。つい先日、な」

 燃え尽きた灰を落とし、中をきれいに掃除する。

 吸い口と火皿から覗き込んで、カスが残っていないかを確認してから煙草盆に戻していた。刻みたばこを拝借したのだろう、慶次の煙管からも同じ匂いがする。だが俺のようにラリッているようには見えない。

(あれは一体、何だったんだ……)

 俺は寺を焼いていないし、民を皆殺しにしていない。

 浅井家を攻め滅ぼそうとしたのが「織田信長」だと長政自身が語るのを聞いていなければ、他の奴を疑っていた。俺はそいつを絶対に許さないし、徹底的に潰すだろう。つまり俺は、俺を殺さなければいけないわけだ。

 史実の織田信長は、苛烈で残虐な行いもしたと伝わっている。

 もしも史実の通りに長政が俺を裏切ったなら、俺は浅井を潰す決断を下す。万福丸は表向き戦死したことにして、お市とその娘たちは織田家で保護する。浅井家に組した者たちも同罪で、家臣団も降伏しない限りは長政と同じ道を辿ることになる。

 織田家は大きくなりすぎた。

 それくらいのことをしなければ、他の家臣に示しがつかない。義弟だからといって長政を許すのは、堤防の隙間を突くようなものだ。

(いや、待てよ? そういえば昔、似たような夢を見た気がする)

 俺が、信行を殺す夢だ。

 今の信行は美しすぎる僧侶として元気にやっているが、史実では家督争いの果てに死んでいる。よくよく考えれば、親父殿の急死もなんだか妙な感じだ。信行たちは親父殿が死ぬのを分かっていたような手際の良さだった。

 どこまでが史実の通りで、どこから歪めてしまったのかは確かめようがない。

 俺は長政を殺したくない。裏切られたくない。

「だが、そんな保証はどこにもない」

「父上?」

「考えに耽るのはいいが、そろそろ息子を解放してやれよ。親子で仲いいのは、別にかまわないからさ」

 笑いながら言われて、ようやく信忠ぬくもりを離す。

 断じて照れていない。

「おお、忘れてた。やっぱりお濃の方が抱き心地がいいな」

「母上と比べないでください! 私は男ですよっ」

「当たり前だろうが。姫は嫡男と呼ばない」

 直虎やお艶の方の例があるから、女当主はありえないとは言わない。

 織田家を継ぐのは信忠だ。俺は親父殿のように、跡継ぎ問題で面倒事を起こさない。楽隠居は、織田家の安定した未来があってこそだ。ますます秀吉に天下統一を果たしてもらいたい気持ちが強くなるものの、今のままでは無理だということも理解している。

 どうすれば織田家を残しつつ、豊臣政権を樹立させることができるのか。

「慶次、話がある」

「内緒話ってやつかい?」

「とびっきりのな」

「私もいますからね!!」

 にやりと笑い合う俺たちを交互に見て、信忠がふくれっ面で挙手をした。






********************

実はまだ、日本に煙管がなかったりします…。今まではハーブ類で代用していました。

たばこのアジア伝来はだいたいこの時期らしいので、スペイン船から買い取ったイメージです

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