【閑話】 黒2

いつもの他者視点。

人によっては胸糞な内容が含まれますが、読後の不快感は自己責任でお願いします。元亀3年から4年にかけて起きたかもしれない戦について、ちょっとだけ触れています

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 沢彦は小木村の政秀寺に封じられていた。

 開山として建立時から関わってきた因縁ある寺だ。信長をはじめとする織田直系の者たちが、鋭い眼差しを向けてくることにも慣れた。老いた身で何ができるものかと嘯きながら、裏では密かに事を成しつつある。

 確かに織田信長以下、その弟たちは頭がいい。

 およそ時代に合わぬ抜きん出た才覚も、信長の血縁者だからこそ開花できたのだ。冬でも飢えない豊かな土地、山のごとき鉄の船、商売で得た潤沢な資金、そして唯一へ捧げる忠節の全てが尾張国には揃っている。

 そう、織田家が飛躍せしめたのは尾張国あってこそだ。

 なのに最近の信長は、他国にばかり目を向ける。ついには南蛮人なんぞと交流を深め、奴らの言葉すら解するようになった。かつて仏の教えを熱心に聞いていた姿は、どこにもない。あれほど猫可愛がりしていた嫡男に対しても、冷たく当たることが増えたという。

「所詮、人の子にすぎぬか」

 沢彦は信じていた。ずっとずっと、信じていた。

 誰よりも先に、かの存在に救いの光を見出したのは沢彦宗恩である。織田三郎信長こそは乱世の落とし子、救国の英雄にして修羅の化身である。万民を俗世の苦しみから解放せしめる役目を担って生まれたのだ。

 その証拠に、信長は目覚ましい勢いで支配域を広げていった。

 自ら前線に立ち、率先して敵を打ち滅ぼしていったと聞く。その強さに恐れ慄き、降伏する者には慈悲を与える。まさしく生き仏のような存在なのだ。

 そうあるべきなのだ。

 時の将軍すらも膝を折る信長の歩みは、もはや誰にも止められない。どんなものも障害になりはすまい。だからこそ師として、沢彦があえて悪になろうとした。更なる強さは、平坦な道を歩むだけでは手に入れられまい。

 困難を乗り越え、苦痛を噛みしめ、憎悪と怒りを破滅の光に変えるのだ。

「他力本願など片腹痛い」

 いつの間にか、真宗教団が尾張国にも浸透しつつある。

 それはそれでいい。死んで浄土に向かわんとする願いは、信長を後押しするだろう。その手にかかれば、皆もろともに苦しみから解き放たれる。そのはずだった。長島で、伊勢で、近江で多くの血が流れるはずだった。

 弟・信治を亡くしても、信長は変わらない。

 遠州で発見された毒水を使えば、東国平定も一夜で片付くであろう。何故、苦しみを長引かせようとするのか。何故、己の手で成そうとしないのか。この世において、信長以上に天恵を与えられし寵児はいないというのに!

「ああ、ああ。もはや、残された手は一つしか――……、何奴なにやつ

「小太刀を仕舞われよ、御坊。石山の僧兵と間違われたくなかろう?」

 低く告げた声は若くない。

 暮れる前の薄らとした日差しで、苦労性とおぼしき顔立ちが見えた。色を抑えた黒っぽい平服姿だが、墓参りというわけでもないのだろう。その男の縁者は、尾張国にいない。あえて言うなら、主君と定めた男の郷里ではあるか。

 尤も、どこまで本気か疑わしいところだ。

 成すべき事の為ならば、たとえ主君でも刃を向ける。いや、実行犯は別にいるのだったか。望むものを手に入れるためにはどんな方策も厭わない。その迷いなき精神は信用できる。ただし信長が主君と仰ぐに足りぬと分かれば、たちどころに刃を向けるだろう。

 松永弾正久秀は、そういう男だ。

(そういえば、もう一人いたな。久秀というのが)

 一族の寺を管理するという建前で、沢彦を監視している。

 政秀の諌死を疑いもしなかったくせに、今ではすっかり信長の虜だ。もう一人の息子は三方ヶ原で戦死したらしい。監視役が一人減ったといって、何が変わるわけでもないが。

「このような寂びれた寺にわざわざご足労いただくとは、余程の御用がおありの様子。見当違いでなければ、この老いぼれ坊主の顔でも拝みに来られましたかな」

「第六天の魔王を自称する者が殺せぬ相手は、菩薩か何かだと思っていたが」

 沢彦はむすりと黙り込む。

 非常に信じがたいことに、信長にとっての菩薩は正室・帰蝶姫だ。手慰みの木彫りでも、気に入りの寺に安置した菩薩像も、蝮の娘・帰蝶姫を模している。断じてやめるべきと苦言を呈しようにも、とっくに沢彦の言葉は届かなくなっている。

「じきに宵の入りでございまする」

「そうだな。……一つ、礼を言いたかったのだ」

「礼?」

「よくも我が息子、久通を惑わしてくれたな? 畠山殿との一件、内々に収めるのは骨が折れた。事が露見しようものなら、この首を土産に岐阜へ向かうところであったわ」

 扇の骨がぺしぺしと、沢彦の首筋を打った。

「これは異なことを仰いますなあ。そちらの不手際を、私めの首で収めようとは」

「久通に、公方暗殺の嫌疑がかかっているという噂があるのだよ」

「なんと……恐ろしいことです。時の将軍を手に掛けようなどと、天も恐れぬ大罪ではありませぬか。信長様に弁解の申し立てはなさったのですか? 誠意を尽くせば、必ずやお許しいただけますよ」

「殿は既に、京へ発たれた。改元の発議を受けてな」

「それはそれは間の悪いことですな。まあ、元亀などという不吉な年号を定めたのがそもそもの間違いでありましょう。その証拠に、信長様の近辺では悲しい出来事が立て続けに」

「もうよい。其方の説法、聞きしに勝る酷さだ」

 ぱちんと扇が鳴り、沢彦は口を閉じる。

 互いに分かっているのだ。何もかも知った上で、何を言っても無駄だと知りながらも腹を探り合わずにはいられない。信長のためにできる事は何かと、探らずにはいられない。

 沢彦はほくそ笑む。

 この男もまた、沢彦の首を落としたいのだ。それほどに、今でも己は、信長にとって重要な存在であり続けていられる。それが何とも嬉しくも呪わしい。そうであるならば何故、真の忠臣たる沢彦の言葉を聞き届けてくれないのか。

 まだ血が足りないのか。

 早く、早くこの世を終わらせてほしいのに。

 ふと沢彦は俯かせていた顔を上げ、立ったままの男を見やった。顔に刻まれた老いからして同世代。だが信長に長く仕えてきたのは沢彦の方だ。その生き様を備に見守ってきた時間は、沢彦の方がずっと長い。

「一つだけ訊いてもかまいませんか」

「一つだけならば」

「我が君は天下に足る器なりや」

「さても、御坊の言葉は世俗にまみれているようだ。あれが天下一つで満足する器かどうかなど、其方がよくよく知っていることであろうに」

「ふふ」

 したり顔で沢彦は何度も頷いた。

 そうとも、だからこそ信長には狂ってもらわなければならぬ。長島が駄目でも越中がある。加賀がある。越前もまだまだ一向宗の攻勢が強いと聞く。本願寺の宗主も手を焼いているとか。

(唯一の手段は、最後までとっておくものだ)

 いずれ信長も気付くだろう。悉く殺し尽くさねば、世は正せぬと――。

 沢彦は「師」として見届けねばならぬのだ、最期まで。





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「交野へ松永取出仕候」

元亀3年冬、河内国の三好義継が松永久通と通じて挙兵。紀伊国の畠山昭高殿に槍を向けた。

将軍擁護派であるはずの双方で、どんな諍いがあったかは定かではない。三好義継はひどく信長公に怯えており、交野城を囲んだ三百の兵は松永久通の指図によるものだった。

また松永久通も以前より、信長公をかなり警戒していたという。

足利義輝様の暗殺、ならびに義昭様の暗殺未遂の嫌疑は有耶無耶にされている。久通の親・弾正久秀殿とその弟の尽力により、松永家の織田に対する忠誠心は証明されているはずだった。何者かが久通・義継によからぬ囁きを吹き込んだと思われる。

なお、交野城の包囲網はすでに解散している。義継は河内若江城、久通は奈良多聞山城にそれぞれ在城。翌元亀4年春、弾正久秀殿は此度の詫びとして薬研藤四郎吉光を携え、美濃岐阜へ向かった。

(太田牛一)

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