205. 清静は天下の正たり

元亀4年春ですが、秋には天正元年に変わります

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 今年も桜の季節がやってきた。

 吉乃の墓は、小牧山城の桜が臨めるところにある。小折城の主、生駒家が代々眠る久昌寺だ。お五徳を生んでから床に臥す日が増えても、花見だけは欠かさなかった。岐阜城にも桜はあるものの、小牧山を包む美しい雲には敵わない。

「お藤は来年かなあ」

「えやあ?」

 乳飲み子なのにお喋りするとか!

 織田の血筋は天才しか生まれないらしい。あまりの可愛さに悶絶しつつ、潰さないよう加減しながら抱きしめる。吉乃そっくりの栗鼠系美少女に成長するのは、もはや確定している。こめかみに走る刀傷のせいで、嫁の貰い手など現れないだろう。

 つまり、お藤は嫁がない。

 っていうか、嫁になんぞやらん。健やかに育て。

 過去に一度も病気や怪我に縁がない乳母を招き、十分な食事を与えている。もう、誰にも俺より先に逝ってほしくない。於次丸もすくすく成長し、秀吉の石松丸と一緒に織田塾へ通っている。二人は双子か乳兄弟みたいに仲が良い。

「あー、平和っていいな。素晴らしい」

「仕事してください」

「休憩時間!」

 この乳兄弟は本当に容赦がない。

 今まで働きすぎたのだから、これくらい許されるべき。

 素直で可愛らしい子供たちの代わりに恒興が侍っているので、全く癒されない。お藤の笑顔だけが俺のユートピアだ。それに本日分は全てこなしている。文句を言われる筋合いはない。

 信忠に執務の半分を丸投げ……もとい、経験を積ませることにしたからなあ。

 これも嫡男としての立派な務めだ。

 俺が早く隠居するためにも、織田家の安泰のためにも重要である。楽がしたいとか、疲れが出やすくなったとか、お冬がすっかり顔を見せなくなって寂しいとかじゃない。帰蝶がいるのに側室がいなくなったからって、また側室の話が持ち上がって面白くないというのはある。

 信純がキレた時に、隠居しとけばよかったかもしれない。いや、冗談だ。

 伊勢国も先日、世代交代が行われた。

 具盛は信孝へ家督を譲り、何故かお冬の補佐役に。具房もようやく爺の影響下から抜け出せたというのに隠居して、体操教室の先生を始めたと聞いている。どんだけフラフープ沼に溺れているのか知らないが、北畠氏の貴重な収入源となっているらしい。

 近々、ボーリング大会を開催予定とあった。

 今川蹴球に対抗したいらしい。

「京からの書状、全くの手つかずではありませぬか」

「見たくない。嫌な予感しかしない」

 最近は将軍家、と聞いただけで顔が歪む。

 秀吉はやっと長浜城主になったばかりで、城下町の整備もまだまだ時間が必要だ。ほとんど課税しない方向で民の懐柔を進めている。さすがに極端すぎると言ったら、戦続きで重税と称して毟り取られて何も残っていない。岐阜の食事が懐かしい、と愚痴までついてきた。

 そこまで酷いのか、近江国。

 となると越前国の状況も推して知るべしだ。結果を出さないと気が済まない信盛が全く便りを寄越さない。あっちも大変なのだろう。家康から、正信を返してくれと言われているので何かしらの進展を期待する。

 言っておくが、本多正信を織田家臣にした覚えは全くない。

 松永弾正が暗躍していないことを祈るばかりだ。

「そういえば、顕如たちも越前に向かったんだよな?」

「それが何か」

「馬鹿どもを殴って粛清してくれたらいいなあって」

「本願寺に加賀をくれてやるおつもりですか?」

「能登や越中が黙っていないだろ。虎の置き土産で、越中国の東側は上杉領になったも同然だ。日本海側の魚……もとい、海を確保しておけば東西へ動きやすくなる。って、能登の畠山家って最近何かやらかしてたよな」

「五年ほど前に長続連ちょうつぐつららの謀反があり、国を追い出されました」

「うわあ」

「先の野村合戦にて討ち死にした六角方の将に、それらしき者がいたとの報告を受けております。重要性の低い情報かと思い、殿のお耳には入れませんでした」

 思わず頭を抱えた。

 畠山家は一応、足利一門の血を引く能登守護職だぞ。いくら山の向こうの話だからって、重要視低いと判断するのは早計にすぎる。

「能登国について詳しく調べる必要があるな」

「佐久間に使いをやりましょう」

「そうしてくれ。能登国とやり合うつもりはないが、半島の状況が曖昧なままだと安心して船を出せない。加賀のクソ坊主どもに手を貸す阿呆じゃないことを祈ろう」

 そろそろ尼子衆に、出雲を与えたい。

 毛利家の揺らぎはいよいよ深刻だ。両川体制で何とか持たせているようだが、元就の死よりも長男・隆元の死は大きな穴となっている。所詮、人が従うのは権力と金だ。毛利家についても得がないと分かれば、国人衆たちはそっぽを向く。

 何かきっかけが一つ、あればいい。

 理想は三方向へ軍団規模の同時展開だ。

 織田信長はそれを成し遂げる途中で死んだのだが、本能寺の変タイムリミットまで残り十年。やってやれないことはない。俺には頼れる家臣がたくさんいる。

 独りよがりなどと言わせるものか。

「あい」

「ぐはっ」

 お藤に平手ごほうびを食らった。

 幼児の遠慮ない一撃はなかなか痛い。加減を覚えてきた年頃でも、わざと全力でかかってくることがあるから要注意だ。それも愛のなせる業と思い、甘んじて受ける俺は父親の鑑である。

 マゾじゃない。違う、違うからな。

「それでは姫様をお預かりいたします」

「おう」

 乳母を呼び、お藤と涙の別れ。

 いや、あの娘が泣いたことなんて生まれた時くらいじゃなかろうか。それも顔に傷がついて痛かったからだ。腹が減っても、用を足しても、眠くても泣かない。気が付いたら眠っているし、腹が減ったら自分で――。

「殿」

「ああ、分かった分かった。そっちの書状を寄越せ」

「先程届いたものですが、どうぞ」

「古い方から」

「どうぞ」

「……その押しが強いところ、母親おちよそっくりだな」

「ありがとうございます」

「褒めてねえよ」

 ガサガサと書状を開ける。

 今が平和なのも一時のことだ。

 飯の献立を考えるように戦の段取りを悩むようになった。日本国を一つにまとめなければ、遠くない未来に南蛮から侵略者がやってくる。幕末で起きた戦乱のように、ヨーロッパ諸国の代理戦争みたいなことにはなりたくない。

 日本海が欲しいのは、朝鮮半島のこともある。

 いつ、どこの国が、どこから攻めてくるか分からない。積極的に戦いたいとは思わないが、攻めてくるかもしれないという危機感は持っておくべきだ。気が付いたら敵に侵略されていた、なんて笑い話にもならない。

 織田家による天下統一。

 秀吉や家康の昇格が間に合わない場合、それも考慮に入れておこう。正直言って、駿河国すら統治下に置けない家康には不安が残る。あんなんで徳川幕府ひらけるのか? 関ケ原の戦いの後、大阪城の戦いが二回もある。いくら俺よりも年下だからって、家康はかなり高齢になっていたはずだ。

 そんな思惑を裏付けるような内容に、目が細くなる。

「殿?」

「改元の発議があったようだ」

「またですか」

「去年から話は出ていたようだな。さすがに前回と同じ轍は踏まぬ、と事前に知らせてきた。高辻何某からの案で『天正』が候補に挙がっているらしい」

 老子曰く『清静者為天下正』による。

 清静とは、清らかで落ち着いていることの意。朝廷も長く続いた乱世にウンザリしているようだ。確かに元の亀よりずっといい。まだ発議の段階というのも歓迎できる。

 そして大きな問題が一つ。

「……また上洛かよ」

「お供いたします」

「さっと行って、ぱっと終わらせるぞ。忠三郎と勘十郎も連れていく。あ、嫁同伴禁止だと言っておけよ。男装もダメだ」

「心得ております」

 松姫は悪い意味で素直すぎる。

 お冬が過去に何度も男装しているのを聞いて、興味を示そうものなら信玄に顔向けできない。乗馬練習も止めさせたいくらいなのに、若夫婦が仲睦まじくて微笑ましいから大目に見てやれと逆に説得される始末だ。松姫を特別扱いしたいんじゃない。織田家の女が特別なんだ!

「ん? どうした、恒興」

 未だ動かない乳兄弟に首を傾げる。

 どことなく機嫌が悪いのは何故だろうか。嫁同伴禁止なのは側近も同じだから、またかよと思っているのかもしれない。だが俺だって同じなんだから我慢してほしい。

 どう言ったものかと悩んでいたら、恒興が口を開いた。

「この天下を治めるべきは、殿以外におりません」

「今のところはな」

「清静なる者とは一体、誰の事を示すのでしょうか」

 居心地の悪い沈黙が間に横たわる。

 朝廷からしてみれば「天皇」と言いたいところだろうが、今上帝にそこまでの能力はない。幕府との中は良好といえず、カネの切れ目が縁の切れ目だ。俺が噂通りの大うつけであれば、天下泰平のために上手く使ってやるくらいの考えもあったかもしれない。

 がりがりと首の後ろを掻く。

 見える範囲しか興味のない朝廷も。

 幕引きを決めるだけの幕府にも。

「どうでもいいな。興味がない」

「殿!」

「誰が天下を獲ろうと、太平の世を導くことができる奴がいようと、掴んだ平穏の日々を維持するのは簡単なことじゃない。何もかも一人でやろうなんざ、神にも不可能なことさ」

 俺だって一人で抱えすぎだと、信行に言われたばかりだ。

 最も恐れるべきは大衆の力である。

 織田家が有能な人材のおかげで急成長したように、担ぐ御輿もなくなったはずの南近江で乱が起きたように、一つの意志にまとまった集団ほど怖いものはない。かなり業腹だが、また一つ沢彦に学んだ。

 気にかけているだけではダメだ、足りない。

 想定しうる状況に対応しきれる策を用意してこそ、万全を期したことになる。心のどこかで「起きなければいい」と期待しているようでは、また同じ悲劇を繰り返す。

「謙信の子供、……誰だっけな」

「実子はいないと聞いております。北条三郎か、甥の長尾顕景ながおあきかげの二人のどちらかが上杉家を継ぐことになるでしょう」

「ふうん」

 謙信も、俺より先に逝く。

 存命中に後継者と繋ぎを取れたらと思ったが、北条家は止めた方がいいかもしれない。ただ仲良くするということになりそうもないし、取引材料に油田のことを持ち出されると面倒だ。たまたま湧いてしまったから使っているものの、この時代の人間に扱える代物じゃあない。

「上杉家臣に直江とかいうの、いたよな?」

「ええ、旗本衆に直江大和守という者がおります。上杉家中において交渉役などの政務を任せられ、主だった戦にも従軍しております」

「じゃあ息子の方かな」

「娘婿でしたら、二十は越えているかと」

「ふむ」

 それくらいなら、何かしら役目についているか。

 他国のやり方を学ぶ名目で文官を交換すると言えば、謙信だって若い方を出してくるに違いない。俺の中で、直江兼続は慶次のダチだ。将来的に上杉家の重鎮となる男を、それとなーく教育しておけば後々ラクができるかもしれない。俺じゃなくて、家康が。

 新潟米は美味い。稲作向きの土地ということだ。

 つまり、戦なんぞしている場合じゃない。年貢米の数が石高で、石高が国力の高さを測る指数である。伊達政宗も天下獲りそこねて、治水工事や灌漑事業を頑張った末、奥州の石高を爆上がりさせた。

「うむ。それでいこう」

「今度は何を企んでいるんですか」

「美味しい話」

 にこにこ上機嫌の俺を見やり、恒興が諦めの溜息を吐く。

 よーしよし、楽しくなってきたぞ。謙信の甥っ子が酒好きの戦馬鹿じゃないことを祈ろう。





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ノブナガの戦国知識は漫画由来(かなり前世の記憶は薄れていますが、ちょくちょく引き出しを開けているので思い出すことも多い、ということになっています。ズレや間違った認識も含まれますが、比較対象がないので本人は分かっていません)

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