204. 元服の儀
いつものように雑務を片付けていると、小姓がやってきた。
「あの、信長様」
「何だ」
「報春院様が訪ねてこられました」
筆が一瞬、止まる。
墨が滲まないうちにゆっくりと離し、続きを書いていく。木炭ペンの改良はなかなか進まず、通常の書き物は墨と筆を使う。慣れというのはおそろしいもので、別のことを考えていても手は勝手に文字を綴った。
花押まで終えるのを確認して、隣から手が伸びる。
他の者が恭しく筆を受け取り、硯が視界の端から消えた。俺が指示をしなくても勝手に動く彼らに礼を言わなくなって久しい。頭を撫でると頬を染めて喜ぶが、他の小姓が羨ましそうにするので一通り撫でることになった。
そして気付く。我が子を撫でなくなって久しい、と。
父や母のように子を愛せぬ親になりたくないと思っていたのに。忙しさにかまけて、家族との触れ合いがおざなりになっていた。
「あの人がこの城に来ているのか」
「は、はい」
「すぐに向かう。案内せよ」
「かしこまりました」
報春院。
その名を最後に聞いたのはいつだったかも思い出せない。家臣団もすっかり代替わりが進んで、俺が家督を継いだ頃を知る者は少なくなった。仮に知っていても、噂話に出来るような内容じゃない。天文年間に起きた話は、文字通りの醜聞だ。
そういえば、親父殿の側室たちはどうしているのだろう。
弟たちも全く話題に出さないので、生きているか死んでいるかも分からない。調べさせれば済むことだが、そこまでする必要性を感じなかった。大事な弟たちを生んでくれた女、という以上の感情は持ち合わせていない。
せめて苦労のない老後を、と思うだけだ。
「家族を大事にする織田信長、か」
実母を出家に追いやったくせに。
亡き夫・信秀の菩提を弔うという言葉通り、寺から滅多に出ることもない。あんなに可愛がっていた信行も道悦と名を変えてから、一度も会っていないそうだ。その道悦とも、竜泉寺に入って以降は消息を伝え聞くのみ。
織田信長が大事にする家族とは、この二人を除くらしい。
そして去年、信治が死んだ。
奈江が出家して、吉乃が死んだ。帰蝶は泣くこともせず、正室としての務めを果たしている。俺もへらへらと笑いながら、織田家の当主として仕事している。
それでも、失ったものは大きい。
時間が経てば経つほどに、揺るがないはずの結束に綻びが見えてきた。どんな聖人君子だって欠点はある。過去の英雄も万人に好かれたわけじゃない。
ましてや俺は「尾張の大うつけ」だ。
悪い噂なら数えきれない。
「孫の顔も見せたことなかったなあ」
会わせてやれなかったと悔いた相手は皆、男だ。
過去がどうあろうと、俺を生んでくれた存在が土田御前であることは変わらない。報春院と名を変えても、念仏の代わりに恨み言を呟いていても、俺が母の死を望んだことはなかった。
竦みそうになる足を、何とか動かす。
「どんな顔で会やあいい……?」
格好つけた口調も崩れるほど、俺は動揺している。
付き合いの長い奴らはともかく若い者たちには示しがつかん、と。そう指摘されてからは気を付けるようにしていたのだが、こればかりはどうしようもないか。不意打ちみたいなものだ。
開き直りに近い心境に落ち着く頃、小姓の足が止まった。
「この部屋か」
「はい」
「では下がれ。二人で話がしたい。しばらく誰も近づけるな」
「かしこまりました」
拍子抜けするほどあっさりと、その小姓は下がった。
橋介や利之辺りは異論を唱えそうなものだが、彼らはもう小姓じゃない。傍仕えといっても色々あって、平時に城で詰める俺の周囲には少年組が侍るようになった。行儀見習いみたいなものらしい。
蘭丸という前例ができてしまい、子供たちを納得させるためだ。
「……入りますよ、はは」
「お久しぶりです」
「う、え」
にこりと微笑む僧形の男を見やり、その場に崩れ落ちた。
「うちの小姓は尼僧と坊主の違いも分からんのか」
「兄上はお変わりないようで安心しました。やはり市井の噂は、耳半分に聞いておくのがいいですね。……兄上?」
「信行、お前かああぁ!! 奇妙丸にいらん知恵つけたのはっ」
「いきなり何ですか。道悦ですよ」
「あと、奈江の出家の手引きとかっ。信行にやってもらったって!」
「道悦です。お鍋の方に関しては、前々から相談を受けていましたからね。ああ、もちろん惚気が大半だったので安心してください。私は女に興味ありませんので」
「ハッ、叔父甥の近親相姦!?」
「違います」
「だって勘十郎と勘九郎って似すぎだろ。いくら奇妙丸が俺譲りの大うつけでも、行動へ移す前には誰かと相談するくらいの分別はあるんだぞ」
「ええ、そのことでお話がしたくて参りました」
だから落ち着いてくださいと言われ、渋々腰を下ろす。
騒ぎすぎると割り込んでくる奴が出てくるかもしれないし、弟たちの中で最も疎遠になっていた相手だ。今を逃すと、次にいつ会えるか分からない。会おうと思わなかったわけじゃないのに、気が付いたら何年も経っていた。
いや、お互い様か。
信行なりにケジメをつけて、織田家から離れる覚悟を決めた。奈江も、信治も、奇妙丸だって己の考えをしっかり持っている。臆病でヘタレなのは俺だけだ。
「今度は落ち込むんですか」
「近頃の俺について反省している」
膝を抱えて頭を埋めると、面倒臭そうな溜息が聞こえた。
「そうやって、お一人で背負い込もうとするから相談してもらえないんですよ」
「信行が冷たい」
「道悦です。そして昔からです」
「そうだった。うん、道悦はそういう奴だったな」
「信行で……、あ」
俺はにんまりと笑う。
信行は苦虫を噛み潰したような顔をした。思えば、我が弟の中で最も笑顔を見せない偏屈野郎だ。あの時、林兄弟と共に死んでいたら――。
楠十郎の怨嗟に満ちた声が木霊する。
分かっている、幻聴だ。あれもこれも欲しがる強欲な俺の業だ。
「今、尾張で悪い噂が広まっています」
「俺の噂なら今更だろ?」
「いいえ、奇妙丸が信治を暗殺したという噂です。なかなか元服させてもらえないのは信治のせいだと逆恨みし、一向宗が潜む宇佐山へ誘い込んだと」
「…………やけに具体的な噂じゃねえか」
「兄上の予想通り、噂を流している男は小木村の和尚。ふふ、ようやく尻尾を出してくれて感謝しているのですよ。尾張の人心は完全に掌握しました。宗派問わず、兄上の味方です」
きれいな笑みに、ぞくりと悪寒が走る。
「何をした、信行」
「慈愛の心を説いただけですから、そう怖い顔をしないでください。最後の一手として、兄上にもやっていただきたいことがあります。今こそ、奇妙丸の元服の儀を行うべきです。あの子が信治を死地に追い込んだのではなく、信治があの子に後事を託したのです。織田家の絆を結び直す役目は、織田宗家の血を引く者でなければなりません」
「そんな重責を負わせるわけには!」
「私は信治が嫌いです。兄上をお支えする立場にありながら、死して後も兄上を苦しめ、織田家を窮地に追い込む」
「だから、それはアイツの狙いであって」
「あの男を殺せない理由なんか、どうでもいいんですよ。兄上、あなたこそ心の奥底では誰も信じていないでしょう? だから頼りきることができないんだ」
きっぱりと言い切る弟の姿に、誰かの面影が重なった。
古いビデオテープのような霞んだ映像と、耳障りな砂嵐が襲ってくる。これは、何だ。誰の記憶だ。前世の? 違う、これは――。
『お可哀想に、……さま』
冷たい手で、心を優しく撫でられる不快感。
味方などいない。誰も何も信じるなと、誰かに言われた気がする。
「違う、違う! 俺は」
「人の心が見えたら、こんなに面倒なことをしなくても済むのですがねえ。見えないのだから、仕方ありません。兄上、元服の儀を行いなさい。家臣の求心力を高めるのは、嫡男の役目です」
最後の台詞でハッとした。
そうだ、俺にはやるべきことがある。
信治の穴を埋めるためだと言われたら、また見苦しく言い訳していただろう。奇妙丸が元服したからといって、すぐに家督を譲るわけじゃない。俺だってそうだった。なのに同族の血で塗りたくられた道を、無意識に奇妙丸が歩むべき道と思い込んでいた。
時代は変わった。
乱世はもうすぐ終わる。終わらせてみせる。
いつの間にか、家督を継ぐことと元服することを同列に並べていた。信行に言われるまでもなく、織田家臣が奇妙丸を認めないことには意味がない。
ノブナガ包囲網が崩壊した今ならば。
「分かった。元服の儀を行う」
「茶筅丸や三七もですよ」
「え?」
「伊勢国をあの
「わ、分かった。まとめて行う」
カクカクと頷く俺に、信行が口元を緩めた。
一瞬見惚れてしまいそうなほど美しい笑みだ。確かにこれなら、ご婦人方もメロメロにされる。奈江の惚気が気になるものの、信行の機嫌を損ねたくはなかった。
尼僧の姿で去ろうとする時には色々言いたくなったものだが。
どうやら有名になりすぎて、変装しなければ外を歩けない身の上になってしまったらしい。報春院と名乗るだけで腫れもの扱いだ。これ以上ない隠れ蓑になる。女装して信行に会った過去を持ち出されても困るので、俺も「母」として見送った。
**********
明けて元亀4年(1573年)1月、岐阜城にて元服の儀を行った。
織田家嫡男の元服とあって、各地から祝いの品と参列者が続々と集まる。その中に顔を真っ赤にした村重と、その家臣・
伊勢国からは北畠氏と神戸家も親子揃っての登場だ。
「織田の父は効率重視なのだな。覚えておこう」
「いい加減、その呼び方止めろ」
というやり取りがあったように、慶事は一つじゃなかった。
三人の息子を元服させると同時に、婚約していた娘たちとの婚儀も併せて行ったのだ。家臣団を何度も集めるのが億劫だった、というのもある。畿内が織田勢力に含まれるようになってから、定例評議会も集まりが悪い。東西で距離が違いすぎるのが原因の一つだ。
城下町に武家屋敷を持つ側近も、ほとんど美濃国内にいない。
「安土城ができたら、奇妙丸に岐阜城やるからな」
「勘九郎です、父上」
「おう、そうだった」
奇妙丸は
茶筅丸は北畠
三七は神戸
信忠は義兄弟である賦秀にライバル意識があるようで、勝手に名乗っていた「信重」よりも「忠」の字を選んだ。具豊も「信」の字を欲しがったのだが、雪姫の祖父・具教のおねだりに負けたらしい。あの爺は烏帽子親も譲らなかったので、三七には勝家が加冠役を務めた。
そして嫡男である信忠は、当主である俺が担当した。
「……父上」
「なんだ。ってこら、俯くな。烏帽子がズレる」
「勘違いしていて、すみませんでした。その……松姫のことも、父上はちゃんと考えていてくださったのに」
「大事にしろよ」
「はい。二人とも、私が必ず守ります」
いや、そこは嫁を優先してやれよ。
情けない声で謝罪してきた息子は、前を向いてキリッと宣言した。あくまで小声でのやり取りだったが、その顔つきが変わったことは家臣たちも気づいただろう。
三人並んで元服、三人揃っての婚儀である。
序列がどうのと苦言を呈する者もいなくはなかった。信忠が叔父・信治を陥れたという噂を信じて、厳しい目を向けてくる者もいた。だが信忠は俯くことなく、媚びることもなく、恥じることなど何もないと胸を張っていた。
雪姫、鈴与姫と会うのはこれが二度目だ。
幼げな子供がすっかり娘さんらしくなって、と感慨に浸る。
「兄上、彼らにも祝福を」
「そうだな」
信包に言われ、こほんと咳払いをした。
フロイスを招けばそれらしくなったかもしれないと思いつつ、本日の主役たちの前に立った。これまでの織田流婚礼の儀にに参加した奴らは皆知っている。俺が片手を胸に置けば、それに倣った。
「汝ら……今日これよりは夫婦として、喜びの時も、悲しみの時も、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くせ。我が名、織田三郎信長の下に汝らの未来を祝福する」
「ありがとうございます」
まず信忠がお礼を言って、松姫以下が声を揃える。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!!」
祝いの言葉は叫ぶもんじゃないんだが。
一瞬だけしんみりとした空気になりかけて、一気に浮かれモードへ変わる。特に三七改め、信孝が鈴与姫を抱き上げてからがすごかった。やんややんやの大喝采になり、お祭り騒ぎの大宴会である。
「間に合ってよかったよ」
「又六郎」
一通りの挨拶も済んで、今は無礼講だ。
信純の酌を受け、お返しとばかりに酒を注ぐ。造酒丞の名を継ぐ者はまだいないが、信房の子らはちゃんと酒造りの秘伝を受け継いでいる。めでたい席に美味い酒、美味い料理は最高だ。
季節が季節だけに保存食が大半とはいえ、厨の奮闘ぶりがうかがえる。
「長満への説得、大変だったらしいな」
「まあね、仕方ないよ。織田の譜代家臣を差し置いて宗家の嫡男の、正室の実家。それも東の姫君を養女に迎えろって言うんだからねえ」
「人選は村重だろ? あいつ、なかなか使えるな」
「あはは、誰だって死にたくはないもの」
思わず胡乱な目になってしまった。
末席の村重がぶるりと震えたのまで視界に入ったから、余計に信純が何をやらかしたのか気になる。好奇心は猫を殺すのだ。今は素直に、摂津国に縁ができたことを喜んでおこう。長満は将軍家とも姻戚関係にあり、伊丹親興の従兄弟にあたる。とうとう将軍家と織田家も繋がりができてしまい、喜ぶ
「あなた」
「……うん」
三人いた嫁も、今は帰蝶だけ。
たくさんの子供に恵まれて、新しい縁もできた。子が巣立っていくのは寂しいが、親として喜んでやらなければならない。信玄はきっと、松姫があんなに幸せそうな顔で微笑む様子なんか知らないだろう。
兄と名乗れずとも、信直は静かに微笑んでいる。
そして信行と報春院の姿はない。信治の子もいない。奈江も出家を理由に、参列を固辞した。信興と長利は九鬼水軍と航海中なので不在。龍興は長島城主として祝辞を述べた後、叔父にあたる利治と何やら話し込んでいる。
お艶と坊丸に呼ばれた信純を見送り、長益を呼んだ。
「此度は誠におめでとうございます」
「ありがとよ。お前にきみょ……勘九郎の補佐を頼みたい」
「嫌です。表舞台に立ちたくありません」
「影の宰相でいいから!」
「もっと嫌です」
「絶対似合うって」
「今後は茶人として生きていくと決めたんです」
「それでいいから、補佐役だけでも」
「嫌です」
むう、手ごわい。
祝いの席なのにへの字口などダメだ。全く世話が焼ける弟め。
「なあなあ! げんごろー、たのむよー」
「何を言われても絶対嫌で…………うわっ、ちょっとやめてください。自分は下戸だから飲めないと言っ……、ああもう! 義姉上、この酔っ払いをどうにかしてください」
「無理ね」
「たのむよ、げんごろー」
「義姉上! 兄上!!」
その後、何があったか覚えていない。
********************
やっと嫡男が元服しました。
於次丸とお藤は幼いので、宴席には参加していません。
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