144. 覚悟を決める

 やけに大きな月を見上げ、盃を傾ける。

「お市もこれで、人妻か」

 目的地の小谷城へ着いたのが三日前のこと。

 わらわら集まってきた見物人がすごい列をなしていたので、城門の前で小さな餅をばらまいた。さすがに生餅じゃないから当たると痛い。だが紅白の薄い和紙に包んだのが幸いし、ものすごい取り合いになった。

 巨大なイソギンチャクと言えば分かるだろうか。

 大衆が一塊になって手をユラユラさせているのが、そう見えたのだ。あっという間にばらまき終えて、即席パフォーマンスは終わった。報せを聞いたらしい長政が顔を紅潮させて褒めちぎってくれたが、娘たちの悪戯を有効利用しただけだ。

 正月にあんだけ餅をついたのに、どこいったと思っていたらコレだよ。

 指先程度のミニ団子を大量に作る意欲は、もっと別のところに向けてほしかった。浅井領の民が大喜びしてくれたから良しとしよう。花嫁行列の点検中、荷物に混ざっていたのを発見した時には責任者出てこいと叫びそうになったものだ。

 もちろん、婚儀の間は大人しくしていた。

 噂の大うつけが「また」何かやらかさないかと注視されていたから、というのもある。浅井家臣の、特に遠藤の視線が痛いのなんのって、見かねた長政が何度か注意するぐらいの警戒度だった。友好度はマイナス値を更新中である。俺の家臣じゃないし、嫌われても気にしないぞ。

 お市(と長政)に強く請われなければ、さっさと帰っていたんだが。

 せっかくなので美濃からの近道を新しく整備する提案をしてみた。浅井家臣の中には難色を示す者もいたが、軍事目的しか思いつかないのは駄目だろう。どんだけ脳筋なんだよ。物流の重要性を説いて、ようやく納得してもらえた。

 どうしても美濃以西は、近江国の協力なしでは不可能だからな。

「さて。ここから……どう、動くか」

 着実にタイムリミットは近づいている。

 明智光秀とはあれから一度も話をしていない。用がある時は義輝が来る。第一印象は最悪だったろうから、顔を会わせたくないのかもしれない。

 だからって元公方を顎で使うなよ、金柑頭。

 最初から好感度マイナスなのに、裏切られる心配をするのはおかしいだろうか。奴はまだ織田家臣じゃない。だが、このままの流れでいくと奴が織田家臣になる可能性はある。細川様の口添えであれば光秀も断れまい。

 不満を抱えたまま俺に仕え、ついに我慢の限界に至って本能寺の変。

 うん、なくはない流れだ。

 嫌われているのに仲良くするのはしんどいし、光秀を特別扱いすれば織田家中で不満を抱える者が増えてしまう。それくらいなら光秀を冷遇し、謀反を起こしたくなるように誘導する。俺は燃える本能寺からコッソリ脱出すればいい。

 歴史の表舞台から消えてしまえば、史実上は「死んだ」も同然だ。

「あとは……お濃にいつ、打ち明けるか」

 俺には共犯者が必要だ。

 前世のこと、俺が抱えている全てを打ち明けられる相手は帰蝶しかいないと思っている。だが、平手の爺は死んだ。俺が、不甲斐無いばかりに。

 ぐしゃり、と前髪を握りつぶした。

「…………沢彦……」

 あいつだけは、あの糞坊主だけは絶対に許さない。

 表向きは慈悲深き住職だが、裏で暗躍してきたことを俺は知っている。知っているのに、手を下すことができない。子供時代に抱いていた敬意など、とっくに消えた。今も生かしているのは、織田家の闇がそこにあるからだ。

 奴が黒幕だと分かっていれば、繋がる糸を断つだけで止められる。

 信行を生かすために利用したこともある。そのために林兄弟は死なねばならなかったが、春日居で思わぬ拾い物をした。禍を転じてナントヤラだ。今度は俺と奇妙丸が生き延びるために、沢彦を利用しようと思う。

 早いうちに光秀と沢彦を会わせておきたい。

 糞坊主のくせに臨済宗の妙心寺住持に選ばれるほどの男だ。何故かその話は蹴ったらしいが、真意は分からない。今は美濃国の大宝寺にいるので、会うこと自体は難しくないだろう。真宗教団の顕如と比べていいのか分からないが、妙心寺派は臨済宗の最大宗派だ。正当な理由もなく沢彦を殺せば、臨済宗が黙っていない。

 現代レベルの科学技術があれば証拠を集められるかもしれない。

 だが物的証拠だろうが状況証拠だろうが、そんなものは「徳を積んだ者」には関係ない。高僧を殺すことは、将軍暗殺に等しい悪辣な行為。だから手を出せない。今は、まだ。

 ふと視線をやれば、真新しい旗印が畳に広げられていた。

 つい先刻、糞坊主が祝いの品として持ってきたのだ。遠く離れた北近江までご苦労なことだと笑ってやりたかった。その文字を見るまでは――。


『是非、信長様に使っていただきたく。謹んで献上いたします』


 そう言って出された「天下布武」の旗印に、ぞくりと体が震えた。

 沢彦は転生者かもしれない。だが証拠がない。転生者なら前世知識で歴史改変を目論んでもおかしくはないのに、そういう兆候は見当たらない。俺のためだと嘯くのが気に入らない。昔と変わらない飄々とした態度、隙のない仕草、威圧とも違う圧倒的な空気、それらの全てに俺は飲まれそうになる。

 沢彦は「天下を獲れ」などと、声に出して言わない。

 だが旗印を持ってきた以上は、そういうことなのだろう。だったら全力で抗ってやる。織田幕府などひらかない。天下人となるのは豊臣秀吉で、征夷大将軍になるのは徳川家康だ。奴らが立派な戦国大名になるまでの道を、俺がつくる。

 それが、織田信長の仕事だ。

「誰か、誰かいないか」

 ここは小谷城だ。岐阜城じゃない。

 いつの間にか、こうして誰かを呼びつける癖がついていた。前世の記憶はかなり曖昧になっている。度々知識を引き出そうとする分、かろうじて残っている程度だ。俺だと認識している俺は、どこまで俺なのかが判別できない。

 ざあっと木の葉を揺らして、風が吹き抜ける。

「呼ばれて飛び出てジャ」

 思わず盃を投げた。

 突然現れたモデル立ちの男は、上半身を軽く反らして避ける。姿勢を戻した時には、片手に盃を持っていた。忍衣装や野袴じゃない。全身黒タイツの変態が、恭しく盃を差し出す。

「どうぞ」

「貴様、何者だ!?」

「あなたの忍です」

 盃を差し出すポーズのまま、ちょっと首を傾げる。

 今は夜だから黒タイツでも目立たない。いや、この時代にタイツは存在しない。よくよく見れば、黒晒でグルグル巻きにしているのだ。目を残して顔もしっかり覆われている。口がモゴモゴ動いて、たまに中の赤が見え隠れするのが不気味だ。呼吸はどうしているのだろう。

 いや、そうじゃない。

 咄嗟に脳内検索をかけたが、該当者不明。つまり俺の知らない奴だ。変態に知り合いはいないと断言できないのがちょっと悲しい。いつの時代にも変態は確かに、生息している。

「伊賀者、といえば……もうお分かりですね?」

「分かんねえよ!! 分かりたくねえっ」

「はてな」

 不審者の男は盃をこねくり回し、大きく頷いた。

「波天奈の盃」

「ハウス」

「それはちょっと」

「チェンジで」

「それはちょっと」

「意味分かってんのかよ」

「いいえ、全く」

 なんなんだ、コイツは。

 伊賀者といえば分かる? 確かに伊賀衆は協力体制を約束してくれた。服部党を全滅に追い込むまでに至らなかったが、長利の師・下山甲斐守からは「契約成立」と言われている。

 ならば百地の一族か、あるいは下山の遣わした者か。

 いつもの俺なら一蹴して終わりにするが、変態のおかげでさっきまでの陰鬱な思考が吹き飛んだ。さっきから微動だにしない盃に酒を注いだ。

 ぐいっと突き出せば、首を傾げながら受け取る忍。

「飲め」

「ぐびぐびぐび」

「黙って飲めねえのかよ!?」

「ぷはー、美酒であります」

 忍コントだ。忍芸だ。

 全ての台詞が抑揚のない呟きであるのに、はっきり聞こえる。

 俺は面白くなってきて、近江・伊勢両国の内情を調べられる限り調べてこい、と命じてみた。お市のためにも、長政には早く周辺を固めてもらいたい。畿内が安定すれば、ひとまず落ち着くことができるだろう。

「ふむふむ、六角を攻めるなら神戸具盛かんべとももりがオススメです」

「いや調べてこいって言ったんだぞ、俺は」

「具盛は蒲生定秀がもうさだひでの娘婿。神戸氏は北畠に属していましたが、今は六角家臣です」

「聞けよ」

「勢力拡大に余念がない身内とは違って、本家筋の関氏や六角氏との関係修復に努める穏健派。具盛を誑しこむことに成功すれば、蒲生が釣れる。蒲生が釣れれば、六角氏滅亡。近江はあなたのもの!」

 ビシッと突き出された指を叩き落した。

 いちいちポージングしないと話せないのか、この忍は。

「北は浅井領だからな? 分かってんのか?」

「お前のモノは俺のモノ」

「ジャイアニズムは俺の主義じゃないから却下」

「えー」

 蒲生定秀は六角家の宿老だ。

 四年前の観音寺騒動を収めたのも定秀だったと聞いている。信任厚い重臣を殺した六角義治にどういう意図があったか分からないが、結果的に六角氏の権威はガタ落ちした。家臣を大事にしないとこうなる、っていう良い見本である。

 俺は家臣を大事にしているぞ?

 成果に見合った褒美は身分問わずがモットーだ。

 働いていないのに、働いている奴が贔屓されていると不満を漏らせば処罰対象になりうる。今はさすがに減ったが、桶狭間以前はひどいものだった。といっても、大半の采配を家臣任せにしていた俺が言えたことでもないか。

「やれやれ、岐阜に戻ったら忙しくなるな」

 数日間の家族サービスをしてから、上洛準備をすることになるだろう。

 一足先に義輝たちは京に着いているはずだ。途中までは花嫁行列と一緒だったので、美濃国を出たのは気付かれていないと思う。命を狙われているのに、本人たちだけでノコノコ戻ってくるとは思うまい。

 俺を利用する気満々の細川様が、吃驚仰天すればシメシメである。

 さあ、織田の戦を始めよう。

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