142. 平手打ちと交換日記

 堺商人の二人は津島に滞在することとなり、俺たちは小牧山城へ戻ってきた。

 那古野村へ小型スコップを取りに行く信包とは途中で道を分かれた。そろそろ本拠地を岐阜城に移す頃合いか。末姫のお冬も6歳になっているし、初めての旅を楽しむくらいの日程なら何とかなるだろう。

 その前に数日程、嫁たちを愛でて過ごしたい。

 なんてことを思っていたからか、一ノ門に奈江の姿を見つけた。

 腰に抱き着いている子供はお五徳だ。いつの間にか、あんなに大きくなったんだなあ。我が子の成長をじっくり見守ってやれないのが口惜しくてたまらない。

「出迎えの当番制でもやっているのか?」

「違うわよ」

 お市や吉乃は抱き着いてくれたのに、奈江は相変わらずつれない。

 お五徳は奇妙丸を見つけるなり突撃していた。なんかお市の幼い頃を思い出すなあ。そのまま二の丸へ向かうように告げて、俺たちは本丸方面に足を向けた。城が完成した直後に比べると、かなり緑が増えた。一ノ門と二ノ門の間にある居住区域では、プチ菜園ブームがきている。

 吉乃のために作ったプランター栽培が人気だとか。

「今は何を作っているんだ?」

「大豆?」

「……まあ、本人たちが楽しいならいいか」

 堺との繋がりができたので、遠方との取引もやりやすくなる。

 船倉にプランターを持ち込んで、野菜の苗を買い付けるのもいいかもしれない。特に薩摩芋と甜菜は絶対欲しい。サトウキビは琉球まで行かないと無理か。三好家の馬鹿どもが宣教師を京から追い出してくれたおかげで、輸入品の取引が難しくなったのも腹立たしい。

 せっかく貞勝に眼鏡をプレゼントしようと思ったのに。

 賄賂になるとか思っていないぞ、本当だぞ。

「ガラスの製法が失われているとか……」

「ねえ、ちょっと! あたしの話を聞いてないでしょ」

「あ、悪い。小児風邪がどうしたって? お五徳は元気そうだったし、まさかお冬が」

「違うわよ!! 証意様から、文が届いたって言ったの!」

「声がでけえよっ」

「むぐぐ」

 慌てて奈江の口を塞ぎ、適当な影に身を潜める。

 幸いにして誰もいなかったが、大声で叫んでもいい名前じゃなかった。証意といえば、長島は願証寺の住職だ。そして長島は一向宗の勢力圏内であり、十郎の住んでいる屋敷などがある。

「確か長島城は一向宗に攻められて、城主は死んだんだよな」

「むごー! ……ぷはっ、今は美濃から逃げてきた殿様が入ったらしいわ」

「龍興か」

「長益様、大丈夫かしら」

「あいつなら何とかするさ」

 ハニートラップの仕掛け人だと言ったら、奈江はどんな顔をするだろう。

 ちょっと見てみたい気もするが、そっち方面に目覚められても困る。そうでなくても、俺の半生記が回し読みされているのだ。あれのせいで、活版印刷へ踏み込む気になれない。

 印刷技術の普及に、俺の本が貢献しても全然嬉しくない!

「それにしても、伊勢国と普通に文のやり取りができるんだな。知らなかった」

「濃姫様に言わせると、流通を完全に途絶えさせるのは難しいんだって。適当に誤魔化して、他の荷物に混ぜれば何とかなるって」

「要するに、こっそり送られてきた文ってことじゃねえか!」

「あっ」

「奈江、他にはなんて書いてあった」

「顕如様が気にしているんだけど、幸せですかって書いてあったわ。だから、その……子供にも恵まれて幸せですって返事をしたの。それだけよ?」

「いや、待て。うん、ちょっと待て」

 こめかみを揉みつつ、片手を上げた。

 今聞き流したらダメな単語が含まれていた、気がする。

「な、何か問題あった? 返事しちゃまずかった!?」

「あー……ケンニョ、って誰」

「法主様よ! 本願寺顕如様のことを知らないの?!」

 うわー、急に時代が進んだなー。

 将軍暗殺(未遂)が起きて、次期将軍(還俗はまだ)が逃げてきて、本願寺(一向宗のボス)も出てくるとか、本当に俺ってモテモテだな!? 織田信長と本願寺の喧嘩はだいぶ長かったはずだ。今は側室である奈江に探りを入れてきた感じかもしれない。

「なあ。顕如と証意は親しいのか?」

「ええとね…………証意様の父である証恵様の父方の祖父である蓮淳れんじゅん様が、顕如様の父である十代目法主様の母方の祖父にあたるの」

「つまり、父親同士が従兄弟関係」

「それだけじゃないわ。蓮淳様が願証寺を創建なさったのよ」

 おおう、頭痛と眩暈がしてきた。

 奈江さん、そんな重要情報を握っているのなら早めに教えてほしかったです。おかげで後世に伝わる長島一向一揆がどういうものかが、だんだん分かってきた。織田家統治下にある尾張・美濃と最も近いだけじゃない。本願寺にとっても重要な寺だから、一向一揆が起きたのだ。

 蜂起には、顕如の指示を受けた坊官が出向いたに違いない。

 食いつめた民の暴動じゃないから、織田軍にも甚大な被害を受ける結果になった。俺なら必ず報復のため、徹底的に本願寺を攻める。敵は民じゃない。本願寺の坊主どもだからだ。

「源五郎を呼び戻す……? いや、もう遅すぎる。有楽の名が知られた以上、いなくなった理由から織田の動きを探られちまう。かといって、このまま何もしないわけには」

「あ、あの、大丈夫よ? 証意様は優しい方だもの。長益様をどうこうするなんてこと、ありえないわ。今まで平気だったんだから」

「これからも平気だっていう保証はないだろ」

「でも! 尾張へ流れた民を差別しないで受け入れた礼をしたいって書いてあったしっ」

「…………は?」

 今度は口を塞ぐことも忘れ、奈江の顔をまじまじと見つめた。

「流民を受け入れるのは当然のことだ。礼を言われる筋合いなんてないぞ」

「あたしに聞かないでよ! お礼を言いたいけど、色々事情があって会えないって、仰っていたらしいの。かといって、証意様は長く寺を空けるわけにもいかないし。代理として、あたしからお礼を言ってほしいって……、そう書いてあったの!」

「聞いてねえよー!!」

「今言ったんだから当たり前でしょー!!」

 互いに叫んで睨み合いつつ、ゼエゼエと息をする。

 くそっ、予想外のことがありすぎて整理がつかないじゃねえか。

 長益を長島に向かわせる判断をしたのは俺だ。堺商人に繋ぎをつけるまで活躍してくれるとは思わなかったが、本願寺のことを考えると呼び戻せない。お清が長島へ向かったのは幸いだった。小木江城の信興には、くれぐれも迂闊な行動を控えるよう言い含めなければ。

 頭をガシガシと掻きむしる。

 お礼? そんなもんが欲しくて民優先の治政を行ったわけじゃない。裏を返せば、民を大事にする方針のおかげで本願寺から敵認定されずに済んだわけだ。

「上総介様、ごめんなさい。あたし」

「奈江は何も悪くねえよ。大丈夫だ、安心しろ。早めに返事を出したのも、何日かかって届くか分からないことを考えれば良かったと言える」

「そ、うなの?」

「返事が遅いって、心配されるよりはいい」

「う、ん。上総介様がそう言うなら一応、信じてあげる。長益様も、尾張も、大丈夫なのよね」

「ああ」

 今のところは、という注釈付きだが。

 肩を引き寄せて頭を撫でても不安そうな顔をしていたので、頬にキスをしてみた。わざとリップ音を立てたのはサービスである。みるみる真っ赤になる彼女が可愛くて、もう一度――。

「なにすんのよ!」

「ぶへあっ」

 奈江のお礼は平手打ちだった。




 何故か怒ってしまった奈江に置いていかれて、俺は一人寂しく本丸へ戻る。一連のやり取りは櫓から見えているかもしれないが、自主的に忘れてくれると助かるなー。

 という淡い願いは、早々に消えた。

「ははっ、あははははは!! なにその頬っ、あひゃはははっ」

「…………」

「見事な、モミジ……くっ、ふ、ははははは!!」

 忘れていた。

 俺の側近には、笑い上戸が一人いることを完全に忘れていた。

 衆目があるのも関係ないとばかりに、信純は思う存分笑い転げている。俺がむっすりと不機嫌そうにしていると、真っ先に気を遣うはずの小姓衆も全滅だ。ある者は横を向き、ある者は俯いて、またある者は口元を抑えて飛び出していった。どこかで何かが聞こえてくる。

 そして信純が笑い終わるのに半刻かかった。

「いやあ、見事なもんだねえ」

「まだ笑い足りねえのかよ」

 その証拠に頬がプルプルしている。

 冷やした手ぬぐいを当てても、明日まで腫れは引きそうにない。ついでに親父殿に殴られたことを思い出した。あの時は見事に腫れあがったものだ。それに比べればかわいいものである。

 女だって戦場に出ないわけじゃない時代とはいえ、うちの嫁は強くならなくていい。

「そういや、お市は薙刀を習い始めたんだったか」

「え? 結構前からだよ、それ」

「聞いてないぞ」

「言っていないからねえ。ああ、そうだ。三郎殿が戻ってきたら、知らせるように言われていたんだっけ」

「お市がこっちに来ているのか?!」

「そうだよ。お鍋の方が教えてくれなかったの?」

 軽く噴き出しながら信純が訊いてきた。

 奴は間違いなく、頬のモミジをつけた犯人が奈江だと気付いている。奈江がお市のことを言いそこねたのは、本願寺関連の話で俺が思わぬ反応を見せたせいだ。

「又六郎」

「ん?」

「ここ数年で、尾張国に流れる民が増えたのは知っているな」

「人口密度がどうのって、三郎殿が頭を抱えていたからね。幸いにして今はどこも人材不足だし、ほとんど諍いもなく土地に馴染んでいったはずだけど、……どうかした?」

「一向宗が尾張国に紛れ込んでいる」

 信純だけでなく、その場の空気がさっと変わる。

 数ある宗派の中で一向宗こと、真宗教団ほど厄介なものはない。美濃平定後、情報収集範囲を広げて知ったのは加賀の話だった。あそこは既に一揆が起きて、城主不在の無法地帯と化した。上杉謙信の父親は一向宗に殺されて、今も越後にとって悩みの種になっている。越前の朝倉家も同じく対策に追われているようだ。

 美濃国周辺が大人しい理由を知れても、全く嬉しくない。

「民の特定は難しいよ? 今後、民の移動を限定するにしても効果があるかどうか分からないな。かえって反感を買うだけかもしれない」

「いや、一向宗対策はしない。むしろ、民に優しい織田家のままでいく」

「懐柔策ってことだね。その情報はお鍋の方から?」

「ああ。近々お礼参りに来るってよ」

「なんだか違う意味に聞こえるんだけど」

 信純は複雑そうな顔をしているが、俺も似たような心境にある。

「殿。お市様がいらっしゃいました」

「お?」

 珍しいことに、軽やかな足音が聞こえてこない。

 ここは謁見の間じゃなくて、ただの私室だ。信純がいるのは俺が呼びつけたからで、いつもと違う雰囲気に小姓たちも不思議そうにしている。なんだ、どうしたと首を傾げているところに、侍女を伴ったお市が現れた。一瞬誰かと疑うくらいの淑やかぶりに、俺は声を失う。

「お兄様、おかえりなさいませ」

「あ、ああ」

「こちらにいらっしゃると聞いて、お待ちしておりましたの。本当は行き違いになってしまったのですけれど、義姉さまたちが小牧山城に戻ってくるって仰るから」

 大正解でした、と嬉しそうに頬を染める様子はやっぱりお市だ。

 顔を見た途端に喋り出す落ち着きのなさは確かに、俺の可愛い妹だった。侍女がこほんと咳払いをして、お市は慌てたように部屋へ入ってくる。耳だけ赤くしているのも可愛い。

「三郎殿、顔が崩れているよ」

「俺の妹が可愛くて何が悪い!」

「そうじゃなくて」

 お市の可愛さプライスレス。

 織田信長に生まれて良かったことは三人の嫁に囲まれる極楽と、可愛さと美しさが神配合されたお市が我が妹であることだと、ハッキリ断言できる。ホントに戦なんざしたくない。仕事も全部放り出して、彼女たちと毎日遊んで暮らしたい。

 久しぶりに会えた妹は、ますます美しくなった。

「そんなに見つめられたら、照れてしまいます」

「俺に対して丁寧な言葉を使わなくたっていいんだぞ、お市。お前はたった一人の可愛い妹なんだから」

「それは、そうですけど」

 不満げにする妹も可愛い。

 でれでれと話の続きを待っていた俺は、次の台詞で固まった。

「もうすぐ浅井家に嫁ぐのですから、織田家の者として恥ずかしくない振る舞いが自然にできるようになりたいのです。理想は義姉さまなんだものっ」

「お市様、花嫁修業をすごく頑張っていたからねえ。褒めてあげたら?」

「…………」

「一年間の婚約期間と、その間に花嫁修業させるって言い出したのは三郎殿でしょ」

「それは、そうなんだが」

「お兄様? 何かおかしいところがあったら仰って。長政様に笑われるなんて嫌だもの」

「や、やっぱり」

「嫁にやらんというのはナシだよ」

 信純に台詞を先取りされて、ぐうの音も出ない。

 お市の結婚を決めたのは俺だ。史実通りに浅井家との同盟関係を確かなものにするため、長政のとして嫁がせることにした。既に離縁が成立していたとはいえ、正室がいたことに驚かなかったと言えば嘘になる。男女ともに結婚年齢が早い時代で、六角氏に従属していた関係から仕方なかったと理解はしている。

 だがっ、何故に可愛い妹を後妻さんにしなきゃならんのだ!?

 分かってたら絶対、絶対嫁がせなかったのに。人手不足とはいえ、情報収集の範囲を美濃と尾張国内に限定していたツケだ。滝川一族のことを心配するフリをして、認識の甘さから目をそらしていたせいだ。

「心配しないで、お兄様!」

「お市……」

「あのね、市と長政様はきっと幸せな夫婦になれるわ。そんな気がするの」

 早めに離縁した方が幸せになれると思うぞ、俺は。

 娘が生まれていたとしても、全て引き取ってやるから何も問題はない。浅井家の今後を考えると男児の誕生はあまり喜ばしくないだろう。万が一、ということもある。

 横から信純が突いてくるが、俺は長政への殺意で一杯だった。

 なのに可愛いお市は新たな爆弾を投下する。

「だって長政様ったら、お兄様のふぁんなのよ! 市の知らないお兄様の話をたくさん教えてくださるの。悔しいけど、さすがはお兄様が認めた人だなって思ったのよ」

「……ふぁん、って」

「何かの間違いじゃないのか、お市」

「やだ、お兄様ったら。うふふ! 竹千代君――今は家康様ね――のことが羨ましくて仕方ないって言うの。どうしてですかって市が訊いたら、織田家の人質になっていたらお兄様と遊んでもらえたのに残念で仕方ないって」

「待て。ちょっと待て」

 興奮気味に話し続けるお市を、なんとか止める。

 頭痛がしてきた。知らない誰かの話を聞かされているような気がしてならないが、周囲の生温い視線が現実逃避を許さない。妹から逃げるなんて絶対不可能だ。逃げたい。

 マズい、混乱してきた。

「又六郎……最近、尾張国に長政ヤツが来たのか?」

「来ていないよ。三郎殿が、嫁にやるのは一万歩譲ってやる。但し一年間の交換日記を条件とする、なんて言い出したからでしょ」

「お兄様ったら、こんなに素敵なことを内緒にするなんて狡いわ。義姉さまたちも知らないみたいだから、特別に許してあげるけど」

 交換日記じゃなくて定期報告を兼ねた文通なら、帰蝶とやっている。

 勢いで言ってしまったことを馬鹿正直に実行している若い二人にも、その「交換日記」を持って二国を往復する使いの者にも申し訳なくなった。そして奇妙丸は甲斐の松姫、お五徳は三河の信康と文通している。うむ、色々思うところがありすぎて言葉にならん。

 それでも可愛い妹が、お市が笑っているから――。

 政治の道具に使ってしまってすまないなどと、言えなくなった。

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