第95話 向き合うべき過去⑤

「ロロっ!?」


 思わず目の前の患者から目を離して、声をひっくり返しながら、バッと声の方を振り返る。

 全身から血の気が引いているのが分かった。


「……申し訳ありません。驚かせるつもりではなかったのですが」


「ぁ――」


 真っ蒼な顔で振り返ってみると、魔物のものらしき返り血で全身をぐっしょりと染め上げながらも、五体満足でいつもの無表情のまま己の脚でこちらへと向かってくる男がいた。


「おっ……驚かせないで!てっきりお前が、重傷を負ったのかと――!」


「……すみません。さすがに体力と魔力の消耗は激しいですが、俺自身にたいした怪我はありません。後ほど、出撃前に聖水を飲めば回復します」


「も、もうっ……」


 ぐいっと奴隷紋が刻まれた頬にべっとりと付着した血糊を乱暴に手の甲で拭いながら、いつも通りの無表情で告げるロロを前に、安堵に気が緩んで一瞬涙が滲みそうになる。

 涙の湿った気配を悟られぬよう、慌てて手元へと視線を移し、再び治療を再開した。


「何かあったのかしら?聖水が足りないようなら、後で私が回復させてあげるから待っていて」


「いえ。戦況の報告と、今後の俺の動きについてご相談したく、参った次第です」


「そう。では、少しそこで待っていて。耳だけ傾けているから、戦況の概要だけ報告しなさい。今後については、この後、第二班が合流するはずだから、そこで治療のめどをつけて、残った戦力を加味した次の戦略を打ち出すわ」


「かしこまりました」


 衣服が汚れることも厭わず地面に座り込んで真剣な表情で兵士に治療を施すミレニアの背後に、ロロは膝をついて控える。


「東の魔物が棲む洞窟に近づくにつれ、魔物の襲撃は激化。相当数を屠りましたが、敵も焦っていると思われます。ここからは、なりふり構わず攻めてくるはずです。……さらに戦闘は激しくなるかと」


「っ……そう……!」


 ぐっと力強く身体全体を使って包帯を締め上げ、横たわる兵士の身体を止血しながら、ロロの報告に頷く。


「問題は、やはりこちらの経験不足です。魔物一体を複数で仕留める、という基本戦術を知ってはいるものの、敵も複数で来られたときに連携が取れずパニックになる兵士が多い。あるいは、魔物を不浄の存在モノとして人類の脅威と定めているエルム教の教えのせいで、必要以上に恐怖があるのかもしれませんが――不必要に退魔の魔法を乱発してしまい、大事な時に使用できず、窮地に陥ることもあるようでした」


「っ、そう……!ある程度、予想はしていたけれど、深刻ね……!」


「はい。やはり、かつてのイラグエナム軍のようにはいかない。それは認めざるを得ないでしょう。ただ、進路の両側に沿って作った陥穽は、一定の効果がありました。上手く敵が引っかかってくれさえすれば、落ち着いて対処できる兵が多いようです。」


「そう……では、次の進軍には、前線を押し上げる軍にクルサール殿を帯同させた方がよいかしら……!?」


 ロロが挙げた現状の課題は、経験不足による統率の乱れと恐怖による混乱だ。経験不足は今更どうにも出来ないが、救世主たるクルサールが前線で鼓舞すれば、兵士たちの恐怖心は幾らか紛れるかもしれない。

 冷静なミレニアの提案に、ロロは少し考えるようにして視線を下げた。


「……戦況が激しくなるならば、あるいは。……ただし、この本陣の安全が確保されるという前提です」


 ロロは硬い声で言い切る。


「貴女がいる本陣の安全が確保できないとなれば、俺は、前線に張り付けない。クルサールを前線に持ってくることで、結界が弱まりここの危険が増すのなら、俺は逆に、本陣から離れられなくなる。その結果、兵の犠牲をいたずらに増やすことになったとしても、です。……どうか、ご理解ください」


「っ、わかっているわ……!全く、お前は本当に私のことが大好き、ね!」


 衛生兵の手を借りながら、何とか大男の処置を終えて、ミレニアは額の汗を拭う。

 ロロは、己の提言を受け入れてもらえたことに安堵してから、静かに瞳を左下に伏せ、報告を続ける。


「……俺が主にフォローに入っていた第三班、第四班は、それなりに負傷者も出しましたが、その分、討伐数も多かった。神の名のもとに、魔物を討伐する意欲を失っていない者も多い。ですが、特に側方の守りを担っていた第二班は――」


 ロロの報告が終わるより前に――


「第二班が帰還したぞ!」「通してくれ!重傷者が沢山いる!」「早く!早く!神のご加護を!」


 急に慌ただしくなった周囲に、ミレニアは慌てて顔を上げる。

 ガチャガチャと鎧を揺らしながら、たくさんの満身創痍の兵士たちが運び込まれてくるところだった。


「っ――!」


 一瞬、顔を顰めそうになるのを必死で堪える。


(これは――殆ど、全滅……に、近い……わね……)


 咄嗟に、我知らず首元の紅玉へと手が伸びる。

 運び込まれてくる兵士たちは、皆、目を覆いたくなるような無残な身体を晒していた。

 四肢のどこかに欠損が見られることなど当たり前。中には、腸を抉り出されているものまでいた。さらには、どう見ても死体としか思えない身体を引きずっている者までいる。


(撤退が遅れたのは、そのせいね……中途半端に、治癒の光魔法がついた聖印を持たせたのが裏目に出たのかもしれない……)


 恐らく、冷静に考えれば絶対に助からないとわかり切っている人間にも、神の奇跡を信じて、必死に聖印に祈り続けたのだろう。

 だが――当たり前だが、これは、神の奇跡ではない。

 所詮は、魔法だ。――不可能は、ある。

 専門的な知識がないままに行使される魔法は、イメージが伴わないせいで、いかにミレニアやクルサールと言った規格外の光魔法使いが付与した魔法と言えど、効果を半減させてしまう。致命傷を負った者に使っても、息絶えるまでの時間をわずかに伸ばしただけで終わったこともあっただろう。

 そして、何より――ミレニアやクルサールでも、”死者”を蘇らせることだけは、出来ない。


 戦は、綺麗事だけではやっていけない。

 どこかで非情な判断を下すことが必要だ。

 ギュンターも、ゴーティスも、ザナドも――過去の、地獄のようなエラムイド侵攻をはじめとして、数々の戦場で、そうして戦友たちを斬り捨ててきた。

 生き残れる可能性のある人間を、最大限に生かすため――何年も共に戦場を駆けてきた戦友を、『尊い犠牲』という名のもとに、斬り捨ててきたのだ。

 それこそが、ヒトが魔物に対抗するために必要な心構え。

 だが、経験不足のクルサール軍――第二班の面々は、結果として、意識のない兵士を引きずって撤退速度を遅めてしまったことで、更なる魔物の追撃を生み、無駄な戦闘を繰り返し、雪だるま式に犠牲を増やしてしまったらしい。


「ごめんなさい、ロロ。続きは後で聞くわ」


「いえ。……報告したかったことは、今、目の前にある通りです」


「そう」


 前髪が鬱陶しく顔にかかってきたのをかき上げながら、ミレニアは首飾りを手に一つ深呼吸をして、頬を固く引き結び、運び込まれてきた兵士たちの元へと歩いていく。


「……お供します。何かの役には、立てるでしょう」


「えぇ。……ありがとう、ロロ」


 いつもの定位置に、音もなく控える黒い影に、泣きたくなりながら礼を言う。

 これからミレニアがするのは、『命の選別』。

 誰を助け――誰を、見捨てるのか。

 たった一目で、情に流されずに、それを判断していく必要がある。

 内心の迷いと不安を悟られぬよう、足が震えぬようにするので、精一杯だった。


 こういう、何もかもを放り出したいほど辛く苦しい時に、一番傍にいてほしいと願う青年が、当たり前のように傍にいてくれること。

 それが、この非常事態において、どれだけ心強いことか――


「ぁ……ミレニア様!ミレニア様!どうかっ……!どうか、お助け下さい!!!」


 ガッ


「――!」


 ロロがいる位置とは反対の衣服の裾を掴まれ、驚いて振り返る。

 見ると、魔物に抉られたのか、隻眼となった兵士が、潰れた方の瞳から血の滝を流したような顔を上げ、必死の形相でミレニアを見上げていた。


(酷い――これでは、今から治癒をしたとしても失明は必須……だけど、一度は聖印で治癒を試みたのかしら。顔にべったりと付着している血液は、鮮血ではなく、乾き始めている……)


「まだ痛いでしょうけれど、ごめんなさい。もっと重症の人間がいるの。先にそちらを――」


「俺じゃない!こ、こいつを――!」


 痛ましげに眉根を寄せたミレニアに、男はぶんぶんと首を振って、傍らに横たわる鎧を指さす。


「こいつを――こいつを、助けて下さい!」


「――――」


 ミレニアは、指された先の鎧を見る。薬師の冷静な翡翠の瞳が、数度、静かに瞬いた。


「お願いです――お願いです……!こいつは、俺の幼馴染で――ずっと、ずっと、一緒に剣を磨いてきた、唯一無二の――!」


「――申し訳ないけれど」


 ひゅ……と喉の奥が小さく掠れた音を立てた。

 舌の根がカラカラに乾いていく感覚を、ごくり、とつばを飲み込むことでやり過ごし、ミレニアはなるべく感情を面に出さないよう、毅然とした態度を貫く。


「私は、神ではない。……死者を、蘇らせることは出来ないわ」


「――!」


 目の前の隻眼の男の顔が、一瞬で絶望に染まる。

 その横で静かに横たわっている幼馴染という兵士は、瞳を開いたまま、物も言わずに空を見ている。

 その瞳に――どう見ても、光は、宿っていなかった。


「ぁ……あぁ……ぁああああああああああああああっっっっ!!!!」


「っ……ごめんなさい。お前も、決して軽傷ではないのよ。衛生兵から薬をもらって処置をしてもらって」


 耳を劈く男の絶望に満ちた慟哭の声に、思わず耳を塞ぎたくなる衝動を堪える。

 気持ちはわかる。痛いほどにわかる。

 だが――これが、現実だ。

 辛くても、苦しくても――これが、現実なのだ。


 この世に――”神”など、存在しないのだから。


「神よ……神よ……どうして――どうして、コイツが……!!!!」


「ごめんなさい……!」


「姫。……行きましょう。貴女を待っている者がいる」


 膝をついて頭を抱えたまま、慟哭する男を前に、無力のあまり足を止めてしまったミレニアを、いつもの無表情でロロが促す。

 さすがに、剣闘場やゴーティス軍で命のやり取りを身近に感じ続けてきた男だ。

 ミレニアにはない実戦の”経験”を誰よりも豊富に積んでいるだけのことはある。


「えぇ……ありがとう、ロロ」


 ミレニアは、そっと支えるように腰に回された腕に励まされて、ぐっと前を向く。

 今は、他者の感情に飲み込まれている場合ではない。

 そんなことをしていては――救えるはずの命すら、救えなくなってしまう。

 心の中で、何もしてやれない無力さを隻眼の男に謝罪しながら、そっと足を踏み出す。

 男は、もはやミレニアのことなど目に入っていないのか、うつむいて「ぁ……ぁぁ……」と絶叫の果てに枯れ果てた声で呻くだけだった。

 そのまま、数歩進んだ時だった。


「――闇を――け――よう――」


「――――……」


 ロロの鼓膜を、小さな音が、拾った。

 思わず、足を止める。


「ロロ……?」


 ミレニアが、不思議そうな顔でこちらを見上げた。


 それは――

 ――その、一言は――



『――闇を、受け入れよう』



 絶望に染まった空虚な世界で――――”修羅の道”が、始まる合図だ。

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